第四話 ふこうな遺産
二郎は、墓の前で手を合わせる実兄の太郎の背中を見ていた。供えたばかりのシキビの葉が小刻みに風で揺られていた。
「今さらだが、ずいぶんとおかしな親父だったなあ」と太郎が言った。
二郎は続いて墓の前にしゃがんで手を合わせた。
今日は太郎と二郎の父が死んで、ちょうど5年目となる。父が死んでからしばらくのあいだは、決して平穏な日々ではなかった。むしろ、人生で最大の修羅場だった。思い出すと、いやな感情がいろいろ蘇ってくるが、そろそろどこかしら郷愁に似た懐かしさのような気持ちも覚えるようになっていた。
ずいぶんとおかしな親父、と太郎は表現したが、死してなおまさにその通りの父だった。子供のころから、何でもお見通しのような父で、嘘を吐いたり悪い点数を取ったテストを隠したりしていると、父は必ず見抜いた。父はもしや、漫画やアニメに出てくる千里眼という異能の持ち主ではないかと疑うこともあった。
太郎と二郎が成人してからは、いろいろと口出しすることは絶えて無くなったが、それでもどこかしら不気味なところはあった。
と言っても、ふたりとも父を嫌っていたわけではない。
*****
父は70歳で死んだ。65歳のときに妻―つまり太郎と二郎の母―に病気で先立たれたが、一時期は落ち込んでいたものの、立ち直りも早くそれ以降はずいぶんと元気だった。60代後半になっても、日課になっていた朝のジョギングは欠かさなかったため、年齢より10歳ほど若く見られることもあった。
しかし、そんな健康な父でも、突然の心筋梗塞にはかなわなかった。平均寿命よりは少し短い生涯だったが、ふたりの兄弟はもはや自分たちも立派な中年になってしまっていることだし、父の死を受け入れるにほとんど何も障害はなかった。
「下手に長生きして寝たきりになるくらいなら、元気なうちにコロリとお迎えがくるほうがいい」と父は何度か言っていた。その願いがなかったわけではないだろうが、とにかく父らしい去り際だと二人は思った。
当時、太郎は42歳だった。実家を離れて、故郷のとなりの人口30万人ほどの市で所帯を持っていた。太郎の配偶者は春子という。太郎と春子はそのときすでに結婚して15年以上経っていたが、子供には恵まれなかった。
二郎は当時40歳で、妻の秋子と中学生の長男長女と暮らしていた。二郎は実家と同じ市内に住んでいるが、実家はあまりに通勤に不便なので、ファミリー用のアパートを借りて職場の近くに住んでいた。
急な逝去ではあったが、葬儀はつつがなく執り行われた。
四十九日が過ぎた後の日曜日、二郎が実家で父の遺品を整理していると、タンスのいちばん下の引き出しの奥から、預金通帳と印鑑と、そして一枚の封筒があるのが見つかった。封筒の表の真ん中には、
遺言書
とボールペンで書いてある。
封筒はかなり古いものらしく、軽く触ると封筒の角が簡単にちびた。封筒を裏返すと、左下のほうに小さな文字で、「開封せず家庭裁判所の検認を受けること」と書いてあった。
遺言書、という文字を見て、あらためて父が亡くなったということを実感したが、しかしこの遺言書をどう扱えばいいのか。二郎にはそういう知識は一切ない。
とにかく携帯電話をポケットから取り出して、兄に電話をした。兄はすぐに電話に出た。
「あ、兄貴。ちょっとすまない、聞きたいことがあって。今、ちょっといい?」
「うん、なんだ?」
日曜日の昼間のことだからどこか夫婦で外出してるのかも、などと二郎は勝手に思い込んでいたが、どうやら家に居るようだった。
「今、家に帰って親父のものをちょっと片づけてたんだけど、いきなり『遺言書』というのが出てきて、どうしたものやら困ってるんだ。何か、裁判所の検認がどうとか書いてるんだけど……」
「あー……」太郎はそう言ったまま、少し黙っていた。「俺もそういうことはあんまり詳しくないんだが、そういえば、遺言書は勝手に開封しちゃいけない、もし開封したら刑事罰を食らうということを、聞いたことがある」
「刑事罰って、そんな大げさな。そもそもこの遺言書って、何なんだ? 俺たちに対するメッセージみたいなのが書いてあるの?」
「いや、そうじゃなくて、遺産を誰に分け与える、みたいなことが書いてあるはず。とにかく、絶対開封しちゃダメだぞ。もちろん捨ててもダメだ」
「わかった」
「ほかには、何かなかったか?」
「あ、そう言えば、通帳も一緒に出てきた」
「ふうん」太郎は興味なさげに言う。
二郎は電話を耳に当てたまま、通帳を開いて中身を見てみた。カネの出入りはひどく少なく、毎月の電話代が引き落とされている以外は、たまに数万円単位で引き出されることがあるだけで、残高は普通預金におよそ100万円、定期預金にちょうど100万円。
「通帳見てみたら、200万ほど入ってるみたいだ」
「意外に、多いな」と太郎が言った。
その兄の感想に二郎も同意だった。家はそもそも資産家などとは程遠い存在だった。決して貧しいわけではなかったか、中の中か中の下と言ったところだ。母の死後に父がどのように生活のやりくりをしていたのか、太郎も二郎も具体的には知らなかったし、父も話そうとはしなかったから、引退した後は年金で毎月何とかやってたのだろうと漠然と思っていた。
そんな様子だったから、「遺産」と呼ぶにはなんとも貧弱なこの200万という預金も、ふたりの兄弟にとっては「意外」という言葉が付くほどの大金だった。
「ということは、親父の遺言書には、この200万を俺たちでどういうふうに分けろ、みたいなことが書いてあるのかな?」と二郎が言った。
「まあ、そういうことだろうな。ほかに遺産があれば別だが、あとは家と土地だけだからなあ」
父の住んでいた家は、父の父つまり太郎と二郎の祖父が建てたもので、もう築60年に迫ろうかと言う陋屋だ。土地も、周囲を田畑にかこまれた山のふもとの一軒家で、値段が付くようなものではない。
こう言っては親父に悪い気がするが、たがだか預金200万の分割方法をなぜわざわざ遺言書を書こうなどと思ったのだろう。
裁判所と聞いて、普段縁のないその機関に行かなければならないことを考えると、わずらわしさしか感じない。何とも、面倒なことをしてくれたものだと二郎は少しうんざりした。
「まあ、とにかくそろそろ家をこれからどうするかも考えなきゃいけないし、近いうちに一緒に話し合おう。裁判所の申請なんかは、俺が調べて手続きしておくよ。いちおう、長男だし」
それを聞いて、二郎は少しほっとした。昔から、困ったときは頼りがいのある兄だった。惑わずを超えて交流することは少なくなったが、それは今も変わらないらしい。
その日の夜、夕食が終わって、ふたりの子供が自室に行った後、二郎は妻の秋子に、
「今日、実家でちょっと片づけしてたら、遺言書ってのが出てきたよ」と言った。
「遺言書?」と秋子は少し怪訝な顔をした。
秋子はまだ両親とも健在なので、一度もこういう面倒ごとを経験したことはないはずで、法律に関する知識は二郎と五十歩百歩と言ったところだろう。
「うん。兄貴に電話してみたら、ようするに遺産分割する方法が書いてあるらしい。開封するには裁判所の許可がいるらしいから、実家のタンスに置いてきたけど」
「ふうん。遺産って、何があるの? どうせ大したものないんでしょ」
二郎は少し苦笑しながら、
「まあ、その通り。タンスのなかには預金通帳もあって、残高200万ほどあったけど、兄弟ふたりで分けたとしても100万にしかならないからなあ。親父が小遣いくれたと思って、家族で海外旅行にでも行ってみるのも、悪くないかもしれないな」
「あら、素敵ね」と秋子が言ったが、口調はとても素っ気ないものだった。
それから約2週間経過した日の午前、二郎宅のインターホンが鳴った。
「はーい」と秋子が言って玄関を開けると、そこには太郎とその妻の春子が居た。
「どうも、本日はお邪魔いたします」と太郎が秋子に言った。
春子も秋子に向かって頭を軽く下げた。
「いえいえ、こちらこそ。どうぞ、お上がりください」秋子がふたりをリビングに導いた。
リビングに入ってきた兄の姿を認め、二郎は、
「おうっ。いらっしゃい」と言った。
四十九日の法要以来だから、約3週間ぶりと言ったところか。
「お茶を入れて参りますので、しばらくお待ちくださいね」と秋子が言う。
台所に向かおうとする秋子に向かって、
「いえいえ、おかまいなく。僕たちはすぐに出ますから」
「うん、11時からだったよな。ここからはけっこう遠いから、もう間もなくでなきゃいけない」と二郎。
「そう? 裁判所って、私たちも行かなきゃいけないの?」
「いや、たぶん法定相続人だけしか入れてもらえないだろうから、兄弟ふたりだけで行くことになりそうですよ」
二郎は兄に、さっそく行こう、という目くばせをした。太郎は軽くうなずく。
「ネットで調べてみたら、30分もかからない簡単な手続きみたいですから、すぐに戻ってきます」
「うん。とりあえず、僕たちふたりで行ってくる。春子さん、むさくるしいところですが、少々お待ちくださいね」
「あ、はい」と春子は二郎に言った。
太郎の妻の春子は、どうも引っ込み思案で遠慮がちな性格だ。二郎の妻の秋子が、かなり豪快でサバサバしているのと対極だ。ふたりが裁判所に行っているあいだ、春子は秋子とふたりっきりになるのだが、それほど心配することもあるまい。
本日は裁判所での手続きが終わった後に四人で、最近市内に店をだしたそこそこ評判にいい洋食レストランにランチを食べにいってみようということになっている。
兄弟は玄関で靴を履き、表に出る。二郎は太郎の自家用車の助手席に座った。エンジンの始動する鈍い音がして、車はゆっくりと動き出した。
裁判所に向かう途中で、
「裁判所かあ。初めて行くなあ。なんか緊張する」と二郎が言った。
「まあ、悪さするなりもめ事起こすなりしなければ、やっかいになるような場所でもないからな。親父の遺言書、持ってきたか?」
「もちろん」
二郎は膝の上に置いていたセカンドバッグのファスナーを開けて、なかに古びた封筒が入っているのを今一度、確認した。
あれからもう一回、二郎は実家の片づけに行ったのだが、もう一通、ほかの預金通帳が出ていた。こっちは、年金の受け取りと生活費の管理に使っていたようで、残高は10万円ほどだった。
「その封筒の中にいったい何が書いてあるのか知らないけど、遺産と言ってもねえ」と太郎が言った。
「うーん。預金はともかく、家のほうはちょっとやっかいな存在だなあ。住んであそこから通勤するのも不可能ではないにしても、子供が巣立っての老後のことだな。それまでは、資産っていうよりもめんどうな負債でしかない」
太郎も二郎も、カネや資産にそんなに執着するほうではない。もちろんあるに越したことはないのだろうが、それが原因で誰かとモメるくらいなら、あっさり身を引くことを選ぶだろう。
「まあ、いずれにしても、その遺言書に書いてあるようにしよう。親父の希望どおりにするのが、最後の親孝行ってことで」
「賛成」
「子供、いくつになったんだっけ?」と運転しながら太郎が言った。
「長男が中3で長女が中1」
「そっか。お前が親父に孫の顔を見せてくれたんで、俺は気が楽だったよ」
太郎夫妻には、ついに子供に恵まれなかった。不妊治療も試みてみたようだが、太郎のほうから、「もうやめよう」と言い出したようだ。妻の春子も、不妊治療の費用のあまりの高さと治療のプロセスのわずらわしさにうんざりしていたから、その提案を意外なほどあっさり受け入れた。
「中3ってことは、今年受験だろう? どうなんだ?」
「そこそこできるらしいけど、正直言ってあんまり干渉しないことにしている。うちの嫁もあんまりそういうことは口やかましく言わないし。『無理して授業料の高い都会の私立大学に行くくらいなら、近所の専門学校にでも行って手に職をつけなさい』なんてことを言ってるよ」
「ふうん」
「……しかし、裁判所って土日とか夕方以降は営業してくれないものかねえ。こうしてわざわざ、平日の昼間に仕事休んで来なきゃいけないなんて」
「まあ、相続なんてそう何回もあるもんじゃなし、非日常な経験をさせてもらうと思って、行ってみようぜ」
そんなことを話しているうちに、ふたりが乗った自動車は「○○地方裁判所 ○○家庭裁判所」とふたつの石の看板が出ている横を通り過ぎて、裁判所の敷地内に入った。車は入り口前の駐車場に停めていいものかどうか迷ったが、まあ何か言われたら後で動かせばいいだろうということで、エンジンを停止して降りた。
裁判所の受付窓口で、太郎が、
「あの、すみません。遺言書の検認をお願いしていた、増田太郎と申しますが」と言うと、少し離れたところにあるデスクに座っていた、黒髪ショートカットでいかにもカタブツそうな中年の女性が近付いてきて、
「はい」
そしてその受付の女性は、黒い表紙のまるで小学校で使うような出欠簿みたいなノートをめくって確認した。そして、
「増田太郎様、増田二郎様でございますね。検認は午前11時からとなっております。右手奥の105号室でお待ちください」まるでロボットのように表情に微動だにせず言った。
二郎が腕時計をちらりと見てみると、午前10時54分だった。
太郎と二郎は昼間なのにやたら暗くて狭い廊下を歩き、黒い文字で105号室と書かれたプラスチックのプレートが出ている部屋のドアを開けて、中に入る。事務用机がひとつに、その横と正面に1メートルほどの粗末な長机があって、少しいびつな四角形になっている。ところどころ破れて中のスポンジがはみ出しているような、いかにも古いパイプ椅子が、長机の前に無造作に置かれていた。
「裁判所ってもっと厳めしい場所だと思ってたけど、なんていうか、質素だな」と太郎が小声で耳打ちするように言った。
ふたりでパイプ椅子に座って待っていると、11時ぴったりに部屋のドアが開いて、40代くらいのメガネをかけた女性と20代後半くらいの男性が現れた。
「こんにちは、よろしくお願いします」と女性が言った。
太郎も二郎も立ち上がって頭を下げた。
「本日、検認を勤めさせていただきます、裁判官の田中フミエと申します」と女性が言った。続いて、
「書記官の佐藤ヒトシです。よろしくお願いします」と男性が言った。
「よろしくお願いします」
裁判官に促されて二人はふたたび椅子に座った。裁判官は手に持ったA4サイズの封筒から何枚か書類を出して、鼻からずれたメガネのフレームを軽く指で持ち上げた。
「まず手続きに入る前に、今日行う『検認』というのが何か、説明させていただきます。これは要するに、こういう書類がイゴンショとして……」そこまで言うと、裁判官は「あっ」と小さな声を上げて書記官と少し目を見合わせた。
そして書記官が、
「一般的には、『ゆいごんしょ』というふうに読むのが通例になっていますが、法律上の正しい読み方は、
「はあ……」太郎は二郎と目を見合わせた。
「つまり、ユイゴンショとイゴンショはイコールということですね」と二郎が確認するように問いかけた。
「ええ、そういうことです」と書記官。
裁判官は一度仕切りなおすように軽い咳払いをした。
「で、検認についてですが、これはあくまでも、こういう書類が遺言書として存在している、ということを確認するためだけのものです。もちろん、遺言に書いてあるとおりに相続手続きをすることもできますが、相続人で話し合って、別の相続の仕方を決定することも可能です。その場合は、遺産分割協議書という書類を別に作成する必要があります。つまり、自筆証書遺言を検認したからと言って、ただちに強制力を持って財産の権利義務関係を移転するということにはなりません」慣れた調子で事務的に裁判官がそう述べた。
「すると、なぜこの検認という手続きが必要なんでしょうか?」と太郎がたずねた。
「遺言書の内容が偽造されるのを未然に防ぐためです。ちなみに、自筆証書の遺言を検認を受けずに開封した場合は、刑事罰の対象になります」
「なるほど」
「それでは早速、遺言書をお見せいただけますか?」
「はい」
二郎はセカンドバッグのなかから封筒を取り出して裁判官に手渡した。裁判官をそれを手にとって、表の「遺言書」の文字をじっくりと眺めた。そしてそれを太郎と二郎の前に差し出して、
「これはどなたの書いた文字ですか?」と言った。
「父です」とふたり同時に言う。
「被相続人の筆跡で間違いありませんね?」
二郎は正直に言って、それが本当に父の筆跡であるかどうかは確信は持てなかったが、しかし第三者がわざわざ実家の奥に偽物の遺言書を作って隠しておくとは考えにくい。
裁判官は今度は封筒を裏返して、糊で貼り付けられた封筒の上部を指さした。そこには、「増田」という認め印の赤い封印が捺印してある。
「未開封であることを、ご確認いただけますね?」
「はい」
「それでは、開封させていただきます」
事務官が手もとに用意していた小型のハサミを裁判官に手渡した。そして裁判官は封筒の上部1ミリくらいを丁寧にゆっくり切っていく。
切り終わると裁判官がハサミを置いて、中から紙を取り出した。そしてその内容を確認する前に、
「遺言書一枚、です。間違いありませんね?」と言って、切り口を開いた封筒をふたりに見せた。
「はい」
裁判官は折りたたまれた紙を広げて、それをふたりの前に出した。大きな文字で何やら文章が書いてある。その文章の内容を確認する前に、裁判官が、
「こちらの文字も、被相続人のものに相違ございませんか?」と言った。
「はい」
封筒表の「遺言書」という文字だけではよくわからなかったが、こう並んだ文章を見てみると、やはり父の筆跡に間違いないと二郎は思った。
裁判官は次に、末尾に押してある赤い印鑑を指さした。
「この印鑑は、どなたのものですか?」
「見覚えがあります。父の実印です」と太郎が言った。
「それでは、内容をご確認ください」
太郎と二郎は頭を寄せるようにして、父の遺言書を覗き込んだ。
遺言書
遺言者増田善吉は次の通り遺言する。
遺言者は下記の財産を含む全部の財産を次男である増田二郎(昭和○○年○月○日生)に相続させる。
1.土地
所在: ○○県××市▲▲
地番: 219番11
地目: 宅地
地籍: 330平方メートル
2.自宅
所在: ○○県××市▲▲
家屋番号:219番11
種類: 居宅
構造: 木造瓦葺平屋建て
床面積: 150平方メートル
3.土地
所在: 大阪府大阪市○○区□□
地番: 3丁目31
地目: 宅地
地籍: 95平方メートル
4.○○銀行××支店に有する普通預金
口座番号1234567890
5.○○銀行××支店に有する定期預金
口座番号1234567890
6.□□銀行××支店に有する普通預金
口座番号2345678901
平成○○年○月○日
○○県××市▲▲219番11
遺言者 増田 善吉 印
一通り目を通したが、あまりに形式ばった文章なのでなかなか頭に入らない。
二度目にじっくり黙読してみて目に留まったのは、「二郎に相続させる」という部分だった。つまり、この遺言どおりに遺産を分けるとすると、兄である太郎の取り分はゼロということになる。
父はいったい何を考えてそんなふうに遺言したのだろう。
最初のほうに書いてある土地と家屋は、兄弟が育って父が最期まで生活していた実家だ。最後のほうに書いてある預金口座番号は、おそらく二郎が実家で見つけたものだ。
それにしても、そのあいだに書かれた大阪市にあるらしい土地は、いったい何なの
か。父がそんなところに土地を持っていたなんて、聞いたことがない。しかも、面積は実家の三分の一ほど。実家は田舎の戸建てでも広いほうだったが、あれの三分の一となると、物置にするには広すぎて、家の敷地とするには狭すぎるといったところか。
書記官がボールペンを忙しく動かして何か書類を書いている。
兄と弟は顔を見合わせたが、お互いなんと感想を言っていいかわからず、同時に首を傾げた。
「それでは、これにて検認を終了します」と裁判官があっさり発言した。
「え……、あ、はい」
新たに生じたいくつかの疑問はまったく解消しないが、手続きとしてはこれで終わりらしい。
「先ほど申しましたが、この遺言書どおりに遺産を相続しなければいけない、というわけではありません。遺言のとおりに相続する場合には、検認証明書が必要になりますので、あらためて裁判所へ申請してください。遺言とは別の相続の仕方をする場合は、遺産分割協議をおふたりでなさってください。それでは……」
裁判官は起立して、ふたりに退出を促すようなしぐさをした。兄弟は戸惑いながらも、裁判所を後にした。
太郎の車のドアを開けて、乗車する前に腕時計を見てみると、午前11時19分だった。つまり検認は20分も要せずあっさりと終わったことになる。
「いったい、このセレモニーは何だったんだろう」車に乗った後、二郎が少し苛立ちながら言った。
細かいことを抜きにすれば実際にやったことと言えば、封筒をハサミで切って開けて読んだことのみだ。わざわざ仕事を休んでまでやらなければならないことなのだろうか。兄も同じ気持ちらしく、
「まあ、お役所らしいといえば、らしいな」と苦笑しながら言った。
「親父は俺に遺産の全てをくれるつもりだったらしいが……、いったいどういうつもりだったんだろうか」
「さあ。お前は市内に住んでるし、子供がふたりいるから、孫へのお年玉を一括で払ったというくらいの気持ちでいいんじゃないか?」
「兄貴はそれでいいのか?」
「いいも何も、そう書いてあったんだからほかにどうしようもないだろう。実家の管理、よろしく頼むぞ。お前のものになるんだから」
「仕方がないなあ。月に一回くらい行って、庭掃除と家の中の換気くらいはしなきゃいけないなあ。それにしても、大阪の土地って何なんだ、あれは?」
「大阪の土地?」と太郎が怪訝な顔をした。
「ほら、あったじゃないか。これ」
二郎はもう一度遺言書を広げて兄に見せた。
「これ、この部分」
「あ、そんなのあったのか。見落としてたなあ。最初に『二郎に相続させる』って部分を見たら、あとは適当に流す程度にしか見てなかったから」
「この土地のこと、兄貴は何か知らない?」
「うーん……。そういえば昔、もともとは祖父さんが持ってたどこかの空き地があって、月極めの駐車場にしてたとかなんとか、聞いたことがある。固定資産税持っていかれるとかなりの赤字になるから、もう駐車場は止めて売りに出そうとかなんとか言ってたような……。はっきり覚えてないが、それがその土地なんじゃないのか?」
「そんな話、俺は聞いたことないなあ」
「駐車場で赤字になるくらいだし、30坪にもならない猫の額みたいな土地みたいだし、実家と同じであんまり資産価値はないんじゃないか」
実家の土地家屋や、手に取ってみた預金通帳は具体的に頭に描くことができるのだが、遠く離れたところにある、見たこともない狭い土地が自分のものになると言われても、二郎はさっぱり実感がわかない。自分のものになった後、その定期的に通うこともできそうにない土地をどのように管理していけばいいのかも、さっぱり見当がつかない。兄の言うとおり、ふたりの子供がいる次男宅のことを思ってくれてのことなのかもしれないが、厄介ごとを押し付けられたような気がして少しうんざりした。
二郎宅に戻った後、ふたりは自分の配偶者に遺産は二郎が引き継ぐことになったということを簡単に告げて、昼食に出かけた。
夜、そろそろ寝ようかと思って一度布団に入ったのだが、今日仕事を休んだことによって何か職場に異変が起こってないだろうかと心配になって起き上がり、ノートパソコンを開いた。新着メールを確認してみて一件も入ってなかったので、安心して寝ようと思ったが、ついでにグーグルマップを開いて相続することになった土地を衛星写真で見てみることにした。
遺言書にあった住所を思い出しながら、「大阪府大阪市○○区□□」と入力して開いてみたが、その住所の範囲はかなり広いらしく、どこが該当の土地なのかわからない。
遺言書を取り出して正しい住所を確認し、「大阪府大阪市○○区□□3丁目31」と入れて検索しなおすと、ある小さな土地にしるしがついた地図の画像に切り替わった。その部分を何度もズームを繰り返してみる。真ん中に、小さな空き地が表示された。太郎は駐車場うんぬんと言っていたが、画像にはその土地に車は一台も駐車されていない。アスファルト舗装もされていない粗末な土地だった。
周囲は小さな雑居ビルのようなものばかりで、少し大きな通りを挟んだ向こう側に、「地下鉄○○筋線□□駅」という表示が出ていた。
何気なく、不動産屋の情報を見て、その土地にいったいいくらくらいの価値があるのか調べよう、そんなことを思った。不動産売買情報のポータルサイトに行き、「土地を探す 大阪府」というところをクリックして、そこに現れた検索欄に、「○○区□□」を入力した。
検索結果は更地が5件で、そのほかは中古マンションや戸建てが並んでいた。
二郎は何げなく、更地のうちのひとつを開いて見た。その瞬間、「あれ?」と声に出した。なんとその更地の住所が、「○○区□□3丁目31」になっていた。つまり、二郎が相続することになる土地が売りに出されてたのだ。不動産屋の問い合わせ先は、「株式会社××不動産」というところで、二郎が住んでいる市内で営業している小さな不動産仲介業者だ。
「ひょっとして、親父が売りに出したまま、売れずに残ってしまったのかな」独り言を言った。
一度この不動産屋にも連絡しなきゃいけない、そんなことを思いながらブラウザを閉じようとした瞬間、マウスを動かす手が止まった。そして二郎がパソコンのディスプレイに顔を近づけて、何度もまばたきを繰り返した。
価格 6500万円
「なっ……」と言ったまま絶句してしまった。
遺言書の住所と画面の住所を何度も交互に見て確認した。まちがいない。土地の広さも、95平方メートルと遺言書の内容と一致する。
こんなに高いなんて、何かの間違いじゃないか。650万円が正しい表記に違いない、そんなことを考えながら、その土地の近くのほかの更地の検索結果も表示させてみると、そこは約60坪で1億5000万となっていた。つまり、このあたりの土地は、1坪200万から300万の値段が付いているらしい。
一気に眠気が吹き飛んだ。さっきまではうっとうしい存在だった父の遺言書が、まるで宝くじの当たり券のように思えてきた。
地方に生まれて地方で育った二郎にとっては、人口密集地とはいえたかが30坪の土地がそんなべらぼうな価格がつくとは想定していなかった。それはきっと太郎も同じで、だからこそ兄貴は父の遺産に対してあんなに冷静な態度で居られたのだろう。
もう一度、話し合う必要が有りそうだ。
「何見てるのよ。まだ寝ないの?」妻の秋子が近寄ってきて、二郎の肩の上にあごを乗せて画面を覗いてきた。
二郎はまだ気持ちが落ち着かないながらも、画面を指さして妻に示した。
「昼間に言った、駐車場にしてたらしい親父の土地が売りに出されてるんだ。親父が死ぬ前に売却手続きを不動産屋に依頼してたのかもしれない」
「ふうん」と秋子は興味なさそうだったが、じっと画面を凝視した後、少しのあいだ硬直してから、「きゃあ」と小さな悲鳴のような声を上げた。
「もともとは祖父さんが所有してた土地らしいんだが、祖父さんがなぜこんな離れたところに土地を持ってたのかは、兄貴も詳しくは知らないようだった。いったいどうしたものやら……。いくら遺言に書いてあったとしても、さすがにこんなに高額なものを一人で受け継ぐのは心苦しい。裁判官が言うには、遺言通りに相続しなければならないって決まりはないそうだから、もう一度兄貴に会って、話をしてくるよ」
二郎がそんなことを言っていたのだが、秋子はまったく聞いておらず舞い上がってダンスのようなものを踊りながら、
「これで全部うまくいくわ。子供二人を大学にも行かせられる!」と騒いでいた。
翌日の朝、二郎は早速不動産屋に電話で連絡をした。やはり父が生前に売却を依頼していたようで、駐車場の顧客との契約はかなり前にすべて解除して今はきれいな更地になっているということだった。6500万という値段は近隣地の相場と比較して決して安いものではないが、「交渉次第だが6000万までの値引きには応じるつもりだ」と父は言っていたらしい。
「ご連絡が遅れて申し訳ございません。なにぶんこういう事情ですので、当面は売り出しはいったん中止にしていただけませんか。もし今買い手が現れても、こちらの手続きもまだ終わってませんので……ええ、一度お伺いさせていただきます。相続後はどうするか、まだはっきりとは決まっていませんが、おそらくは売却する方向で検討したいと思います」二郎は電話機に向かって軽くお辞儀をしながら、不動産屋にそんなことを言った。
不動産屋は、売却するのなら早い方がいい、来年の1月まで保有していれば固定資産税を支払う義務が生じて来るので、なるべくはやく売却したほうがいい、これだけの更地だと軽減税率が適用されないから、固定資産税と都市計画税だけでもかなりの額になる、ということを教えてくれた。
続いて太郎に電話をした。太郎は出勤途中で車の運転中だったらしく、電話には出たものの、「少し待ってくれ」と言い、1分余り待たされてようやく、
「どうした? 何かあったか?」と返事をした。
「実は……、驚かずに聞いてほしいんだが」
「なんだよ、もったいぶらずに言ってくれ」
「遺言書にあったあの大阪の土地、なんと6500万の価値があるそうだ」
「へっ? なに? えっ?」太郎も想定外だったらしく、そんな間抜けな続けて何度か声を上げた。
「親父が売りに出してたらしくて、不動産屋のホームページに載ってるよ。さっき不動産屋に電話して聞いてみたんだが、それなりに妥当な値決めだそうだ」
「えっ? なにっ? 嘘だろ?」と太郎はまだそんな叫びを繰り返している。
「いくら遺言書にあったとはいえ、さすがにそこまで大きな金額のものを、一人でもらうのは少し気が引ける。だから、もう一度考え直さないか? 実家のことや、預金のことも含めて」
ようやく太郎は少し落ち着いてきて、
「うーん……」長く唸ったきり、黙り込んだ。
「どうする?」と二郎が回答を促した。
「いや、やっぱりお前がぜんぶ受け継ぐべきだと思う。何せ、親父がそうしてくれって言ってるんだから。そこまでの大金となると、そう易々といらないとは言えないが、それが一番後腐れのない決断だと思う」
二郎は少し拍子抜けした。兄は半分よこせと言ってくる可能性もあるし、そう言ってきたなら応じるつもりだった。しかし、兄は弟の想像以上に頑固で潔癖だったようだ。
「そう? とりあえず、そういうことで名義変更なんかの手続きをしようと思うけど、気が変わったなら遠慮せず言ってほしい。仮に半分に割るにしても、土地をふたつに分割するわけにもいかないし、すぐに現金化できるわけでもないし、考える時間はあるから」
「ああ。……それじゃ、切るぞ」
この日以降、二郎宅にはちょっとした変化が現れた。妻の秋子が、なぜか急激に教育ママのように長男長女の成績に口やかましく介入するようになった。
テストで悪い点―と言っても、以前の成績とほとんど変わらないのだが―を取ってきた受験生の息子に対して烈火のごとく怒って声を荒げ、
「部活なんか辞めて塾に行け」など言い始めた。
あぶく銭と言ってはなんだが、大きな資産が転がり込むことになって、金遣いが荒くなるというのなら理解できるが、いったいどういう心境の変化があって、それまで放任主義だったのが教育ママに変化したのだろう。妻の変貌に二郎は不可解さを感じた。
太郎が二郎に、「やっぱり遺産は折半にしないか」と言ってきたのは、検認のあった日から約1週間後のことだった。
太郎が前言を翻したことは意外だったが、二郎は最初からそうするつもりだったので、快く「いいよ」と返事をした。
しかし、何が太郎の決断の変更を迫ったのだろう。6000万円以上の資産となれば、やはり人の心を揺り動かしてしまうのだろうか。折半にしたほうが二郎としては大きな資産を独り占めする気苦労から解放されるので願ったりなのだが、兄が資産を前に右往左往する俗物であるのは少し寂しさを感じた。
「何か、カネが要りそうなことでもあったのか?」と二郎が冗談半分に聞いてみると、
「いや、別にそういうわけでは……」兄はめずらしく言葉を濁した。
そしてその日、二郎が遺産は兄と折半することにしたと秋子に報告すると、秋子はまるで鬼のような形相で怒り狂った。
「何勝手なことするんだ! ウチのお金を」と怒鳴りながら、ホウキで二郎の背中をしばいてくる。
別に叩かれたのはどうということはないのだが、初めて見る妻のその狂態に圧倒された。決して優しい女というわけではないが、カネのことでこんなに無気になるような性格ではなかったはずだ。
「ウチのお金ってわけじゃないだろう。これは親と子の相続の問題なんだから、俺と兄貴が話し合うことだ。そもそも兄貴にも権利があるんだから、異常な相続の仕方をまともなやり方に直そうってだけじゃないか」
そう言っても、秋子は二郎を叩き続け、
「そんなことはどうでもいい。私の考えが台無しじゃないか。馬鹿野郎。今すぐ電話して、折半には応じないときっぱり言いなさい!」
これを夫婦喧嘩というなら、二郎と秋子にとって初めての夫婦喧嘩だった。ほかのことならともかく、カネのことでこんなことになるなんて、我ながらあまりに醜い。醜すぎて、涙が出てきた。
翌日、秋子とは一言も口を聞かないまま二郎は会社に出勤した。気が滅入るが、仕事をしているうちは忘れられる。しかし仕事が終われば、当たり前だが家に帰らなければならない。
ため息が口から漏れたが、同時にデスクの上に置いてある自分の携帯電話がバイブレーションを始めた。ディスプレイには電話番号とともに、「増田太郎」とある。
「もしもし」
「もしもし……俺だけど」と太郎は言った。
明らかに、普通ではない声だった。怒っているらしいことがはっきりとわかった。
「なんだ? どうした?」
「どうした、じゃないだろう。ありゃ、一体何なんだ?」
「はぁ? どういうこと?」
「さっき、うちの嫁から電話があったんだが、お前のとこの嫁さんがいきなりうちに怒鳴り込んで来て、泥棒猫だの嘘つきだの、さんざんわめき散らしたらしいんだ」
「え……!?」
「まあ要するに、親父の遺産は1円たりとも渡さないということが言いたかったらしいんだが、あんなやり方はないだろう。相当でかい声で騒いでたらしくて、ご近所さんへのいい恥さらしだ。遺言のとおりに全部お前が相続するってのなら、そう言ってくれりゃいいじゃないか」
「いや、ちょっと待ってくれ。そんなことは俺は知らない。前にも言った通り、遺産は折半するつもりだ。嫁が何か言ったとしても、何としてもそうする」
「本当か?」
「本当だ。信じてほしい」
「あれから俺も、相続に関することをちょっと調べてみたんだ。遺言書にどう書いてあっても、息子である俺には、遺留分減殺請求といって、要するに財産の半分に関しては法定通りに相続する権利があるそうだ。俺のケースだと、四分の一は請求すればお前は応じなければならなくなるってことらしい。穏便にことは運びたいし、別にカネが欲しいというわけじゃないが、お前が今日みたいな変なやり方をするなら、こっちとしても、やり方はある」
ずいぶんと物騒な話になってきた。二郎は聞きながら胃が痛くなってきた。
「とりあえず、今日帰ったら秋子にこの件に関しては口を出すなと念を押しておくよ。春子さんには、二郎が代わりにお詫びしていたと伝えてくれ。遺産については、またゆっくり話し合おう」二郎は電話を切った。
大きなため息を吐いて、頭を抱えた。
「課長、どうかしたんですか?」と部下のひとりが気遣って声を掛けてきた。
「いや、つまらないことだよ」と答えたものの、いったいどうしたものか。
ずいぶんとやっかいな迷宮に入り込んでしまったようだ。
その日、家に帰ってから二郎は秋子を怒鳴りつけた。
「何勝手なことしてるんだ! この問題は、俺と兄貴の話でお前には関係ない。遺産が欲しいなら自分の親からもらえ!」
秋子は秋子で負けじと言い返してくる。
「うるさい! 家計のやりくりをしたことないくせに、一人前のことを言うな。私が毎日どれだけ苦労してると思ってるんだ。そもそもアンタの稼ぎが少ないのが原因なんだ! 少しは反省しろ」
「何を言うか。これ以上、この件に口を挟むな。もし挟んでくるなら、離婚も辞さない」
「できるもんならやってみろ。この根性なし。その代わり慰謝料はしっかりもらうわよ」
「おまえに慰謝料を貰う権利なんてない。俺と兄貴の仲を引き裂こうとしてるのはおまえのほうだろ」
子供の前で醜い争いを見せてはならないと理解しつつも、抑えきれなかった。
翌日から秋子は一切の家事を放棄した。洗濯物はたまり、長男長女とはコンビニ弁当を食べるというところまで家庭は一気に荒廃した。もはや兄と話し合うどころじゃない。勢いで出てしまった言葉とは言え、本当に離婚もやむを得ないかもしれない。二郎はちらりとそんなことを考えた。
家に居ることが苦痛で仕方ない。出勤時間になると、少しだけほっとする。仕事をしていれば、我を取り戻すことができた。
「課長、お客様がいらしてます」部下が言った。
「え? 俺に? 来客の予定はないはずだが」と言ってオフィスの出入り口を見てみると、そこには太郎の妻の春子がいた。
春子は遠くで軽く頭を下げた。
二郎は春子のもとに駆け寄って、
「先日はうちの家内が、失礼いたしました」と頭を下げた。
「いえ、こちらこそ、主人がいろいろと不躾なことを言ったようで……。お仕事中、たいへん申し訳ございません。少しお話したいことがございまして、もしよろしければ15分ほどでかまいませんので、お時間いただけないでしょうか」
「ええ。少しお待ちください」
二郎はデスクに戻ると、
「ちょっと、出かけてくる。緊急の用事があったら、携帯鳴らして」と部下に言うと、携帯電話をポケットに突っ込んだ。
会社近くの、個室になっている喫茶店に二郎と春子は入った。とりあえず注文したコーヒーがやってくるまでは、天候や最近のニュースのことなど無難な会話をしていた。
コーヒーを一口飲んで、春子の口から出てきた言葉に、二郎は絶句した。
「あの……、まだ決定したわけではないんですが、わたし、太郎さんと離婚しようと思っているんです」
「えっ……えっ!?」
春子が言うには、ここ最近ずっと太郎の様子がおかしかったらしい。父の遺産が手に入るかも、と知ってからは、それまでお金に関しては淡泊だった太郎が急にいろいろと慌ただしく動き出し、弁護士を探して二郎を訴える準備までし始めた。
春子が、なぜそんなわざわざ火に油を注ぐようなことをするのか、話し合って決めればいいじゃないか、と言っても馬耳東風で、「とにかくカネが要る」と壊れたオルゴールのように繰り返していた。
太郎宅では、基本的に太郎が家計を管理していて春子は家のお金の出入りを詳しくは知らなかったのだが、あまりにおかしな太郎の様子に、昼間こっそり預金通帳を覗いてみれば、定期的にある口座へそこそこ大きな金額を振り込んでいるのが確認できた。
その日帰宅した太郎を問い詰めると、最初は言葉を濁してはいたが、ようやく家の外に愛人と子供がいるということを認めた。
「別に、浮気だとかを怒っているわけじゃないんです。私は、太郎さんとの子供を産むことはついに叶いませんでしたから、外に子供が出来たなら、そっちを大事にしたいっていう気持ちはわからないことじゃありません。来年で3才になるそうですよ」春子は穏やかな口調で淡々と言った。
あまりにショッキングな報告だった。事実かどうかこの場にて確認する術はないのだが、わざわざここまでやってきて春子がそんな嘘を吐く理由はない。
「すみません」と二郎は思わず口に出した。
「つまり太郎さんは、こういうつもりだったらしいです。お父上のご遺産をもらって、それをそっくりそのまま私への慰謝料に当てて、子供とその母親の方と一緒になろうって……。『お金で償えないことは知っている。でもほかにどうしようもない』なんて言いながら、大の大人が大泣きに泣くんですよ。私のことはまだ愛してくださってるようですが、やはり子供への愛情は別格だと」
「本当に、すみません」と二郎はもう一度言った。
「謝らないで。本当に私は何とも思ってませんから」
二郎は頭を垂れて、黙るしかなかった。
「でも、今日本当にお話ししたいことは、それじゃないんです」
「え?」
「あの、こんなことを言うのは告げ口するみたいで、気が引けるんですが、二郎さんの奥様のことなんです」
「妻が、何か?」
「えっと……。二郎さんは奥様のバッグのこと、ご存じですか?」
「バッグ?」
さっきとあまりに話題が変わって、二郎は少し混乱した。バッグと言えば、秋子は4つほど持っているようだが、詳しくは知らない。
「この前、そう、おふたりが裁判所に行く日に私がお邪魔したときに目に止まったんですけど、……秋子さんがお持ちのバッグ、あれみんな、ひとつ100万円は下らない高級品ばかりなんです」
「それ……、本当ですか?」
家にあったバッグを思い出してみても、茶色やデニムみたいな柄の地味なものばかりだった。あれがそんなに高価なものなんだろうか。いや、きっと東南アジアかどこかで作ったニセモノなのだろう。
「それに、秋子さんが腕に付けていた時計、あれも高級品です。ヴァシュロンコンスタンタンというメーカーの……。新品で買えば、間違いなく200万円は超える品物のはずです」
二郎は妻の持ち物にあまり気を配ったことはなかった。さすがに女性というこで、春子にはそれがよくわかるようだった。そういえば、子供が小学校中学年になったあたりから、あまりに貧相な恰好をしていれば子供が恥をかくとかいう理由で、それまで地味だった秋子が少しずつ派手になっていった。
いや、そんなことはどうでもいい。秋子はそんな高級品をどうやって購入したのか。
その疑問は、春子が続く言葉にて解決してくれた。
「実はあの日、おふたりが裁判所に行っているあいだに、お宅に別の来客があったんです。秋子さんが玄関で対応してたようですが……、盗み聞きするつもりはなかったんですが、声が大きくてつい聞こえてしまって。あの……、消費者金融の方みたいでした」
春子の口からあまりに衝撃的な台詞が次々に飛び出してくるので、二郎はもはや頭が真っ白になった。
「秋子さんがうちに怒鳴り込んできたとき、もちろん怖かったし悲しかったですが、同時に納得もいきました。……これは私の勝手な推測で、間違ってたら大変失礼ですが、秋子さんはきっと、ご主人には内緒の借金があるんじゃないでしょうか」
「そんな、バカな!」二郎は喫茶店のテーブルを叩き、大きな声を出して立ち上がったが、「すみません」と言って罰が悪そうに座りなおした。
「実は、これは太郎さんにも言ってないんですが、何度かうちに借金の申し込みに来たこともあるんです。『3万円だけでもどうにかならないか』って。私が主人からもらっている生活費のなかから、なんとかやりくりして何度かお貸ししたことがあるんですが、一度も返していただいたことはないんです」
そんなはずはない、何かの間違いだ。家計は秋子がしっかり管理していて、ふたりの子供を進学させるに足る預金がしっかりと積み立てられているはずだ。しかし、春子の言ってることがすべて正しいと仮定すると、秋子の特異な行動や子供に対する態度の様変わりなども、ぜんぶ納得いくものになってしまう。
頭のなかを、いろいろな思考や感情がぐるぐる巡って動けずにいると、
「それでは、正式に決定いたしましたら、またご報告させていただきます」
春子は伝票を手に取って席を立った。
二郎はその後すぐに会社を早退して自宅へ向かった。この曜日のこの時間なら、秋子は近所のスーパーへパートへ出ているから不在のはずだ。
慌てながら家の鍵を開け、抽斗をひっくり返して預金通帳を探した。「増田二郎」名義で二郎が独身のころから使っている口座の預金通帳がすぐに見つかった。残高はなんと、6万円しかない。あるべきはずの預金が、ない。
定期的にクレジットカード会社の引き落としがあり、消費者金融あての振り込みがあった。消費者金融のほうはどうか知らないが、クレジットカードは二郎名義のものだった。金額から推測するに、クレジット枠ほぼいっぱいまで借入している。
春子の言うとおり、少なくない借金があるのは一目瞭然だった。
二郎は家を飛び出して、秋子がパートをしているスーパーに向かった。そして、レジ係の女の人を捕まえて、
「あの、すみません。私は増田秋子の旦那の増田二郎ですが、妻はどこにいますでしょうか?」と必死の形相でたずねた。
答えは、「増田秋子さんは半年以上前に退職している。たぶんこの時間帯は近所のパチンコ屋で遊んでいるはずだ」ということだった。
その夜、二郎は秋子を問い詰めることもできないほど消耗しきっていて、ベッドに倒れ込んだ。
いったい、なぜこんなことになったのだろう。喜ぶべき父の大きな遺産は、兄の家庭を破壊して、さらに自分の家庭を破壊しようとしている。こんなことに突きつけられるならば、遺産などないほうがよかった。次に兄と会うときは、どんな顔をすればいいのだろう。今後、妻とどう接してしけばいいのだろう。それに、ふたりの子供はこの先どうなる。
そんなことを考えているうち、いつの間にか眠りに落ちたらしい。
死んだはずの父が夢に出てくる。懐かしさよりも、憎たらしさが湧き起ってきた。
「余計なことしやがって、このクソ親父」二郎が悪態をついているのにも構わず父は、
「台所の下の扉のなかに、別の遺言書がある。遺産はそのとおりに相続するように」と言って、まるで靄のなかに溶けるように消えていった。
「ハッ!」という声を上げて二郎は目を覚ました。
時計を見ると朝の5時で、窓のそとが少しずつ白み始めていた。
パジャマのまま表に飛び出して車に乗り込み、実家に向かう。そして実家の台所のながしの下の棚を開けると、夢で出てきた父が言ったとおり、フライパンの上に一枚の封筒が置いてあった。表には「遺言書」と書いてあり、裏には「開封せず裁判所の検認を受けること」とあった。
「なんだ、これは……?」
いったい、親父は死んでもなお遺言書というツールを使って、なぜこんなに俺たち兄弟を、いや、兄貴の家庭及び自分の家庭を振り回すのか。
すぐに中身の確認をしたかったが、裁判官が「検認を経ずに開封した場合は刑事罰の対象になる」と言っていたのを思い出して、とどまった。
ふたつ目の遺言書が発見された10日後、太郎と二郎は再び裁判所に居た。ふたりとも、ここ数日のことで憔悴し切った顔をしていた。
書記官は前のときと同じ人だったが、裁判官は今度は60代の男性だった
判で押したように前回とまったく同じく筆跡や印鑑の確認が行われて、いよいよ開封となった。
遺言書
遺言者増田善吉は次の通り遺言する。
遺言者は増田太郎(昭和○○年○月○日生)と増田二郎(昭和○○年○月○日生)にそれぞれ相続財産の二分の一を相続させる。
平成○○年○月△日
○○県××市▲▲219番11
遺言者 増田 善吉 印
裁判官はそれを見ると、
「ご兄弟で半分ずつということなので、法定相続どおりの内容ですね」と言った。
そして、事情を知ってるのかどうかはわからないが、付け足すように、
「複数の遺言書が遺されていた場合は、民法1023条2項により、日付が新しいほうが有効となって、それ以前の日付のものは効力を失います」
二郎が最初に見つかった遺言書を取り出して確認してみると、ふたつ目に見つかった遺言書の日付は、最初のものの翌日に書かれていた。つまり、二郎だけが相続するという遺言書は無効で、法定どおりに兄弟半分ずつ相続するということになる。
絶望に近いようなため息が漏れた。
「俺たち、ここ何週間、いったい何やってたんだろうなあ……」と太郎がうめくように言った。
最初に日付が後のほうの遺言を発見していれば、或いは遺言書など最初から発見しなければ、こんなに振り回されることはなかっただろう。円満に大きな財産を兄弟で半分ずつにして、少なくとも当面は穏やかに生活することができたはずだ。
親父がわざわざ、ふたつの遺言書を書くというややこしいことをしたせいで、身も心も消耗しきってしまった。太郎家は離婚、二郎家も崩壊寸前だ。仲が良かった兄弟の関係にも大きな亀裂が入った。
******
これが5年前、父が亡くなった後に発生した、兄弟の修羅場だった。
二郎は父の墓の前で合わせていた手をほどいた。
時が過ぎてみれば、実はあのタイミングで各家庭が混乱状態に陥ったのは正解だったのではないかという気もしてくる。
二郎は、二郎の名義で消費者金融やクレジット会社から莫大な借金を作っているという妻の信じがたい姿に向き合うことになった。借金の総額を聞き出してみれば、もはや自分でも把握できていないらしく、ご近所からもいくらか借りているという状況だった。
太郎と春子は、太郎の不貞を理由として、間もなく協議離婚が成立した。
これ以上ないくらいに破綻したふたつの家庭だが、その危機を救ったのも父の遺産だった。
土地は予定通り6500万円で売却できた。税金や売買手数料などを引いても、かなりの額が兄弟の手に残った。
二郎が相続したぶんは、秋子の作った借金を一括で返済しても余り、残りはふたりの子供の進学費用に充てられた。秋子は、ギャンブル依存と買い物依存と診断され、精神科に通院することになり、まもなく両方ともきっぱりと足を洗うことができた。今は問題なく主婦業をやっている。
「春子さんは、どうしてる?」と二郎は兄にたずねた。
太郎はその後、愛人だった女と入籍して今は実の子供と3人で暮らしている。少々複雑ではあるが、子供がしっかり物心つく前に一緒に生活できるようになってよかった、と太郎は一度だけ言った。
「春子からは年に一回くらいは連絡が来るんだが、つい先日、久しぶりに電話が来て、再婚することになったんだとさ。なんでも小学校の同窓会で再会して、お互い好きだったのに言い出せなかったとかなんとか……、そんなベタな話、本当かいなと思ったけど、まあ俺が口出しできるようなことじゃないしなあ。相手は寿司職人で、結婚した後はふたりで店を構えてやっていくつもりらしい。出店費用はあるのか、と聞いてみたら、俺が春子に渡した慰謝料で全部まかなえそうだ、なんて言ってたよ」
結果論だが、すべてがうまく行ったわけだ。もしもあの時点で父の遺産が太郎及び二郎の妻の隠し事を暴露していなけば……、と考えれば少しゾッとする。きっと、もっと事態は悪化していたに違いない。
二郎は立ち上がって、父の墓石を見下ろした。
何でもお見通しの父だった。父に隠し事をしてうまくいったことは一度もなかった。はたして父は、どこまで知ってて、どこまで仕組んだのやら。まさか全部わかった上でふたつの遺言書を用意するというトリックを仕掛けたのではあるまいが、案外それも有り得るのかも、とさえ思えてくる。
死してなお、不気味なところのある父だった。もちろん、二郎はそんな父が好きだった。
(了)
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