第三話 事故物件
「どうです。なかなか広いでしょう」田中と名乗った不動産仲介業者の営業パーソンは、垣田を部屋のなかに導いた。
がらんとしたリビングは、カーテンの取り付けられていない南向きの窓から差し込んでくる光でフローリングが照らされていた。
「清掃もリフォームも完了してますから、問題なしですよ。すぐにでも入居できます。アレさえなければ、完璧な物件なんですけどね」
「築、何年くらいだっけ?」と垣田が田中に問う。
「今年の冬で11年ですね」田中は手に持った資料に目を落として言った。
「こういうの、あんまり詳しくないんだけどさ。建て替えってどれくらい経ったらするもんなの?」
「うーん。モノによるとしか言えないんですが、だいたい40年くらいが目安って言われてますね」
ということは、このマンションの寿命は29年ということになる。29年後と言えば、垣田は71歳だ。はたしてこのマンションと自分と、どっちが長生きできることやら。
垣田は自分の健康にあまり自信がなかった。バーテンダーという職業柄、常に昼夜逆転の生活をしているし、もちろん酒もふつうの人よりたくさん飲む。店は禁煙ではないため、たばこの煙がこもったなかで毎日仕事をしている。たぶんこの職業は、自分の寿命を10年は奪い去っていっただろう。と考えると、29年後の71歳という年齢は、ちょうど頃合いだと感じた。
嫁もいないし、子供もいない。結局、結婚は一度もしなかった。
「いいね。悪くない」
そう言って垣田は六畳の和室のほうに足を運んだ。
「ふつうの相場なら、この程度の物件はいくらくらいなの?」
「まあ、だいたい中古で2000万円くらいですかね」
「ってことは、半値以下まで下がってるのか」
「ええ。売主さんが管理費だけでも大変だから、少しでも早く売りたいらしくて」
「へえ。住んでなくても管理費って掛かるんだな」
垣田は郊外の家賃の安いアパートから仕事場である自分のバーまで、毎日自転車で通っている。理由はふたつあって、飲み屋街の雑居ビルにある店の近くには適当な駐車場がないこと、もうひとつは、飲酒運転になるから。
垣田が自分の店を持ったのは、29歳のころだった。隣町にあるそこそこ名の知れたバーで修行を終えると、迷わず独立した。地元の信用金庫から借金をして開業した店は、合計で10席ほどのこじんまりとしたバーだった。それ以来、そこでずっと商売を続けている。
開業直後の滑り出しはとても良いとは言えず、酒屋への支払いも滞らせるような始末だった。垣田は店の近くの、そこそこ高級な賃貸マンションを引き払って、家賃の安い今のアパートへ引っ越した。片道40分もかかるが、ほかに選択肢はなった。
休日はまったく設けず、まるで石にでもかじりつくかのようにして商売を続けるうちに、徐々に常連客も増えて行き、開業10年で借金を完済し、最近は少しだけだが預金もできた。
余裕ができると垣田がまず最初に考えたのが引っ越しだった。朝方、店を閉めたあと、アルコールの入った身体で自転車に乗るのは苦痛だった。特に夏は、早朝でもすでに暑くなっているので、滝のように汗をかきながらペダルを動かすと、腹の中は水分でいっぱいなのにひどく喉が渇くという、意味のわからない状態に追い込まれる。
「賃貸じゃなくて、中古物件などの購入はお考えじゃないですか?」訪ねた不動産屋でそう提案されたときは、あまりいい気分はしなかった。
賃貸以外に選択肢などない。
「そりゃもちろん、自分の家を持つに越したことはないが、オレは自営業なんだ。開業資金は金融公庫の補助があったから借りることはできたが、たぶん住宅ローンは無理だろう」と垣田は自虐的に言った。
しかし、田中という不動産屋の営業は、
「そんなことないですよ。今は低金利なのに借り手がいないから、銀行の審査はおどろくほど緩いんですよ。まあとりあえず、ご覧になるだけでもいかがですか?」と強く勧めてきた。
その姿を見て、もしかしたら不動産屋の取り分は賃貸よりも売買のほうがでかいのだろうか、などと邪推した。
垣田がそんなことを考えているのを置き去りにするように、田中は木製のテーブルの上にどんどん、広告記事に載せるような中古物件の資料を広げていく。出されたぬるい茶を飲みながら、ぼんやりとそれらを眺める。
高い。
借金を負う苦労を身を以て知っているため、何千万という価格を見るだけでめまいがしそうだ。たまに、一戸建てで1000万を切っているものがあるが、立地が今住んでいるアパートより悪くなり、しかも築40年と言ったものばかりだ。
「それはいいよ、賃貸物件のほうを案内してくれ」そう言おうとしたとき、田中が机の上に出した一枚の資料が目に入った。950万円。建物の写真も貼ってあり、そこそこ大きそうなマンションだった。
「あ、これ」と言って垣田をその紙を手に取った。
住所は、○○町5丁目とある。店のすぐ近くというわけではないが、徒歩圏だった。○○町方面は店よりも向こう側になるので、ほとんど行ったことはない。なんとなく、こんなマンションがあったような記憶はある。
ワンフロア6室の5階建て、総戸数30戸。小振りな分譲マンションと言ったところか。売りに出てる物件は2階の部屋。
「これ、安いね。なかなかきれいだ」
垣田の預金通帳には、今450万円ほどのたくわえがある。販売価格との差額の500万円くらいなら、どうにかなるかもしれない。実際に手の届きそうな物件を見ると、欲がどこかから湧いてきてそんな気持ちが瞬時に芽生えた。
「どうしてこんなに安いんだ?」そう問うと、田中は少しまぶしそうな表情をして、
「あの、それはちょっと訳ありでして……」と言葉を濁したが、「前に住んでた方がお亡くなりになったそうなんです」と言った。
「ふうん」
垣田はそういうことはまったく気にしない。今まで一度もお化けや幽霊のたぐいを見たことがない。どこかにいるのかもしれないが、自分に見えないものならば、気にしても仕方がないと思ってる。そもそも、この日本中で悲惨な死に方をした人間がいない場所などどこにもあるはずがない。そいつらが全員幽霊になったとするなら、日本列島はまるで幽霊の満員電車のようになっているはずだ。
「どんな死に方、したの?」垣田は平然としている。
「あの、自殺、らしいです」
開業直後のあの苦しい時期、自分も自殺が頭をよぎったことがあった。いつまで待てど客のこないバーの椅子を眺めていると、気が狂いそうになった。せめて愚痴でも言える相手がいればいいのだが、疲れた人が愚痴を捨てて帰る場所でもあるバーで、そんなことを聞いてくれる人がいるはずもない。
あのとき自分が自殺していれば、お化けになって出て来ていただろうか。いや、それはない。自殺する人間というのは、この世の苦役から離れたくて自殺するのだ。何が悲しくて、死んだ後もこの世界にとどまり続けなければならないのだろう。
「ふうん」とだけ言って、垣田は感心なさそうに言った。「どれくらい前のことなの? 片づけは終わってるんだよね?」
「えっと、3年くらい前のことですね。もちろん、荷物の搬出やリフォームは終わってます。とりあえず、ご覧になってみますか?」と田中が言った。「こういう物件は、嫌う人は嫌うものですが、不動産屋なんてやってると、いちいち気にしてたらキリがないっていうのが本音ですね」
「それには賛成だな。うーん、とりあえず見てみようなか」
見るだけならタダだ。ダメそうな物件だったら、賃貸にすればいい。そう考えて気軽に物件まで案内してもらうことにした。
台所や風呂など、水回りを見る。何も問題なさそうだ。
「管理費とかは、どれくらいかかるの?」
「えっと、管理費が月7000円で、修繕積立金が8000円ですね。合計1万5000円」
今のボロアパートの家賃より安い。ローンの支払いを考えても何とかなりそうだ。
2LDKのマンションなど、一人で住むには贅沢すぎるという以前に、自分には手を伸ばしても届かない彼方の存在だと思っていた。見れば見るほど、欲しくなっていく。和室は寝室にして、余った部屋は何か趣味のものを置く部屋にでもしようか、などとすでに考え始めていた。垣田にはこれと言った趣味ないのだが、これを機会に何か始めるのも悪くない。
最後に見せてもらったのは、通路側にある洋室だった。焦げ茶色のフローリングの上には、15センチほどの白い皿が部屋のすみに置いてあって、その上には盛り塩がしてあった。天井のほうに目を遣ると、物置代わりなのか、ずいぶんと高い位置にロフトが設置してった。前の所有者がここで首を吊ったのは一目瞭然だった。
さすがに田中は少し気まずそうな顔をしている。まさか自分から、「ここでお亡くなりになったんですよ」などとは言い出しにくいのだろう。
「住宅ローンは、本当にだいじょうぶ?」雰囲気を変えるために、垣田がそう尋ねる。
「はっきりとしたことは言えませんが、きっと大丈夫ですよ。垣田さんはきちんとしたご職業をお持ちですし。ウチで金融機関のご紹介もしています」
バーテンダーという商売を、「きちんとしたご職業」などと言われたことは、初めてだった。垣田は自分を、文字通り日の当たらない場所に棲息していると思っている。
「金利って、どれくらいなの?」
「今だとだいたい、0.9%くらいですかね」
「住宅ローンってそんなに金利安いんだ。俺が開業したときは、金利2.3%と保証料で0.5%くらい取られたものだけど。借りなきゃソン、みたいな気分になるな」
「担保がありますからね。そのぶん金利も低いんです」
「さすがに、買うにしても買わないにしても、今すぐ即答ってわけにはいかない。もう少し考えさせてくれる?」
そうは言ったものの、垣田の心はすでにほぼ決まっていた。
正午から家電製品やタンスなどの荷物を業者に搬入してもらって、それから空き段ボールの片づけや衣類の整理などを始めたが、思うように片付かなかった。もう午後4時になって、夕方の光がカーテンのない部屋に差し込んできて、少し暑い。垣田はマジックで段ボールに、「カーテン」とメモをした。
しかし今日はもう、買いものに行く時間などないだろう。6時には家を出て、店を開ける準備をしなければならない。これからメシを食って風呂に入る時間を考えれば、もう今日の作業はこれで終わりにするべきだろう。
腹が減ったが、冷蔵庫のなかは空のまんまだった。コンビニで何か買ってくるしかない
垣田は部屋を出て、階段を降りた。二階だからエレベーターのほうが遅くなることは、搬入のときに学習した。
マンションのエントランスに出てオートロックのガラス戸を通ると、目の前にどこかで見たような顔の男性が、こちらに歩いて来るのが見えた。白髪の60代くらいの男で、背は低い。やせ形でデニムのパンツに黒いワイシャツを着ている。
「あ」
「あれ?」
と互いに目を見合わせたあと、その男が、
「垣田君じゃないか、どうしたんだ。こんなところで」と言った。
「小西さん、おひさしぶりです。お元気でしたか?」
小西は、かつてバーの常連客だった。昔は暴力団の構成員だったらしいが、バーに初めてやってきたときは、すでに足を洗っていた。
ひいきにしてもらい、ほぼ毎日顔を出す上客のひとりだったのだが、肝臓を悪くしたのを機に酒を断った。もちろん、垣田の店に来ることもなくなった。
ふたりは思わぬ再会に、握手をした。
「こんにちは」
「君は、変わらないな。しばらく行けてないけど、まだバーやってるの?」
「ええ、おかげさまで。同じ場所で引き続き商売やってます」
「そうかね。それはよかった」
「小西さん、このマンションにお住まいだったんですね」
「ああ。5階の、502だよ。2年くらい前に引っ越してきたんだ。もともとうちの部屋は、私の知り合いの持ち物だったんだが、女房といろいろあったらしくて、私が引き受けることにしたんだよ。君はなんでこんなところに?」
「あ、いえ。実は僕も、今日からこのマンションの住人になったんです。住宅ローンも通って、購入することができました。さっき荷物を運んできたばっかりで、まだ片づけしてる最中ですけど」
「へえ。このマンション、売りに出てた部屋なんか、あったかな?」
「ええ、201です」
「あ、……ああ、はい。なるほどね」と小西はためらいながらも何かを納得した様子だ。
「あの、小西さん。僕はこういうところに住むのは初めてなので……、引っ越しのご挨拶は、全戸まわったほうがいいんですかね」
「いや、そこまで神経質になることはないだろう。まあ、同じ階の人にはタオルか何かを持って行ったほうがいいかもしれないが。そんなに住人どうしのつながりがあるわけでもないし。私も、別の階の人となると、たまにエレベーターで一緒になるくらいで、ほとんど話したこともないよ」
「へえ、そういうものですか」
「何か困ったことがあったら、いつでも私に言ってきてくれ。力になるよ」
「ありがとうございます。頼りにしてます」
それじゃ、と言いながら小西は手を挙げてマンションのなかに入って行った。
コンビニで小さな弁当と菓子パンを買って、部屋に戻った。あらためて、まだぜんぜん片付いておらず段ボールが縦に積み上がった様子を見ると、少しうんざりした。どこで弁当を食べようか。
和室は布団だけ出して片付いていない。リビングは少し暑い。となると、洋室しかない。
まったく気にしない、とは言っても、やはりできるだけ避けたいという気持ちはあった。しかし、もうローンも組んで買ってしまったのだ。いつまで経ってもその気持ちが消えるわけでもあるまいし、慣れる以外に仕方がない。
垣田は洋室の扉を開けた。リビングや和室とは対照的に、がらんとした空間のままだった。もちろん盛り塩はまだある。垣田はそれを見て、ソルティドッグを作るにはちょうどいいかもしれないなどと思ったが、もちろん作らない。コンビニの袋を床に置くと、盛り塩の皿を手に取って台所に行き、水を掛けた。
塩は何事もなかったかのように水に溶け、排水口に流れて行った。
日付が変わって、午前2時になった。
垣田は黒い蝶ネクタイをしてバーのカウンターに立っている。
この時間になると、ほとんど客は来なくなるが、3時を過ぎたあたりから、近所の水商売の店で勤務を終えた若い女性が疲れを癒しにやってくる。この時間帯は垣田にとって休憩時間のようなものだった。
カウンターの下をしゃがんでくぐると、誰もいないバーのなかで、客用の脚の高い椅子に座り、自分のために作ったバランタインのロックを飲んだ。
昼間、重い荷物を運んだためか、肩から背中が少し凝っている。垣田は自分が、いつもより疲れていて、いつもより高揚しているのを自覚した。
マンションを手に入れたのだ。すべての自営業者に共通する悩みなのだろうが、路上生活者になってしまったらどうしよう、という懸念は常にあった。そういう悪夢を何度も見た。もちろんまだその心配が消え去ったわけではないが、とりあえず家賃を払えず追い出されるということはなくなった。修繕積立や管理費、固定資産税という新たな出費が現れたが、それくらいならどうにかなるだろう。
少し苦いはずのスコッチウイスキーが、いつになく甘く感じる。
背後で扉が開いて、カランカランという来客を知らせる音がする。
「あ、すみません。いらっしゃいませ」そう言いながら垣田は椅子から立ち上がって振り向いた。
そこに居たのは、小西だった。
「やあ。夕方、君の顔をひさしぶりに見たら、またここに来たくなってね。おじゃましてもいいかな?」
「ええ、どうぞ。歓迎いたします。お座りになってください」
垣田は飲みかけのグラスを隠すように手に持って、カウンターをくぐっていつものバーテンに戻った。
「この店は、あのころと全然変わってないね。安心したよ。世の中、変わるべきものと変わるべきでないものがある。ぜひ、こういう店は守っていってほしいものだ」と小西が店を一通り見回して言った。
「あの、いかがしましょう。ソフトドリンクでよろしいですか?」
「いや、軽いものを。黒ビール、一杯だけいただこうか」
「かしこまりました」
「医者が一滴も飲むなというんだけど、まったく飲まないとかえって調子が悪いような気がするんだ。で、たまに、週に一回くらいだけ、ビールをコンビニで買って、少し飲むようにしている。もちろん、ガンマ何とかという数値を見れば一目瞭然らしいから医者にはバレてるのだろうが、カミさんには内緒だ」
言い訳のようにそう言う小西に、まるで少年のような印象すら覚える。この男がまさか昔は暴力団員だったと信じる人はいないだろう。こんな時間にここにやってきたのは、その「カミさん」の目を忍び足でかいくぐってやって来たのだろう、と垣田は邪推した。
一通り、会わなかったころのことや世間話をしてしまったあと、小西が、
「あの、言いにくいことだが、君が買った201号室のことだが……」と垣田から視線を外して言った。
「ええ、わかってます。いわくつきの物件だってことは」先回りして垣田は言う。「そうでもなければ手が届きませんから。私はまあ、そういうのは気にしませんし、仮に何かが出たとしても、寂しさが紛れていいですよ」
「いや、そうじゃないんだ」小西は真剣な顔つきでそういうと、少しのあいだ沈黙した。
黒ビールのグラスは、すでに空になっている。
「もう一杯、いかがですか?」空のグラスを見ると、ついそういう言葉が出てしまうのは職業病だった。
「それじゃ、いつもの、いただこうかな」
垣田はグラスにロックアイスを入れると、ヘネシーXOを注いだ。琥珀色の液体が氷の表面を滑っていく。小西は昔、このアルコール度数の強い高級ブランデーを愛飲していた。一日でボトル半分空けてしまうこともよくあった。
小西は久しぶりのその酒を、まるで女を愛でるように口もとに持っていき、軽く舐めた。
「垣田くん、怒らずに聞いてほしいんだが、もし不愉快だったら、まあジジイのたわごとと思って、聞き流してほしい」
「はあ」
「あのマンションって、どういう人間が住んでると思う?」
「部屋の間取りは、ぜんぶいっしょなんですよね。きっと、核家族、父母と、子供がひとりかふたり。そんな感じでしょうか」
「そうだ。そういう人たちは、どこで働いてると思う?」
「えっと……、ほとんどが会社勤めじゃないですかね」
「そうだな。で、だいたい、共働きか、母親のほうがパートに出て家計を助けたりしている」
「ええ」
「そういう人たちにとって、マンションっていうのは、もはや信仰の対象とでも言っていいくらいの宝物なんだ。つまり、一生を懸けて守り抜くような、自分の分身そのものなんだよ」
「はあ……」
小西が一体何を言わんとしてるのかさっぱりわからない垣田は、仕事を忘れて口を開いてきょとんとするしかなかった。
「つまりね、彼らはそんな大事なマンションを、自分が買った値段より安く買う人間がいるということが、我慢ならないんだ。自分の価値を安くされたみたいに思って、不愉快になる。中古なんだから値段が下がって当然なんだが、それを納得することができない。私はあの部屋を、友人から買った値段は少し安くしてもらって1800万だったんだが、新品で売り出したときは、3200万だったらしい。11年前にその値段で買った人は、当然まだローンの残債があって、その額はおそらく1800万円以上だろう。彼らにしてみれば、私が買った1800万という値段は不当に安くて、ずるいというふうに思うらしいんだ」
「はあ……」ともう一度言った。「でも、買った値段なんて、自分から言わなければバレないでしょう?」
「それが、そういう話はマンション中に一気に広まるものらしい。不動産屋の広告をこまめにチェックして、今のマンションがどれくらいの市場価値があるか、みんな知ろうとしてるんだ。あるいは、銀行か仲介業者が漏らすのかもしれない。どっちにしろ、そんなもの、1時間もあれば調べがつくものだよ。それに君の場合は……、その言いにくいが、だいぶ安い値段だったのだろう?」
「950万でした」小西を信頼していて、隠すべき理由も特にない垣田は正直にそう言った。
「それは安いな。……まあ、それくらいが妥当なところかもしれない。要するに、私が言いたいのは、新築の当初からあのマンションに住んでる人間の目には、後から安い値段で購入した我々は、あんまり良いようには映らないってことだ。特に君の場合は。……だから、ご近所とは、ほどよく距離を置きながらも、腰を低くして付き合うのがコツだよ。これは本当に気を付けたほうがいい。人間の嫉妬というのは、これ以上に怖ろしいものはないからね」
垣田にはあまり実感がわかない。小西が引っ越した当初、いったい何かあったのだろうか。聞いてみたいが、聞いてもはっきりとは教えてはくれないだろうと垣田は考え、黙っておいた。
「しかし、950万とは、いい買い物をしたね」小西が口調を少し明るくして言う。「まあ、あんな事件があったんだから仕方ないと言えば仕方ないが、そんなことは気にしてもしょうがないだろう。垣田くん、本当に怖いのは、生きている人間のほうだよ。死んでる人間なんて、取るに足りない。私も昔はいろいろあったが、人なんて死んでしまえばなんてことはないんだ。地獄こそが天国で、この世が鬼の棲む地獄のような気さえするよ」小西は久しぶりの強い酒に、ずいぶん酔っているようだ。
冗談めかして言ってるが、垣田は小西の言葉が引っ掛かった。
「事件? 自殺じゃないんですか? 不動産屋には、3年ほど前にあの部屋で自殺があったって聞いたんですけど……」
「は? いや、そんな話は聞いたことないな。そもそも私は2年前に引っ越したきたから、3年前のことは知らないよ」
バーのなかの空気が重くなる。
「その事件について、教えてくださいませんか?」
「ああ、いいよ。私が引っ越してきたときにはすでに、201号室には私と同じくらいの歳の夫婦が住んでたんだが……、と言っても、事件があるまでそんなことは私も知らなかった。半年くらい前の朝方、201号室の扉の前で、夫のほうが何者かに刃物で刺されて、死んだんだ。そしてその一週間後くらいに、妻のほうも近くの公園で刺された。犯人はまだ見つかってないらしいよ。犯人の動機はもちろん不明のままだ」
それを聞いて、顔には出さなかったが、垣田は少し怒りを覚えた。あの不動産屋、ウソを言ったのだろうか。殺人と聞くと、話が違ってくる。近所をそんな通り魔のようなやつがうろうろしていた部屋なら、安くても当然だ。
しかしそれじゃ、あの盛り塩はいったい何だったんだ? 扉の前で殺されたのなら、盛り塩は通路の共有部分にでも置きそうのものだが。
カランカランと音がした。来客は、この近くでラーメン屋を営んでいる大将で、週に一回ほどはやって来る常連だった。
「いらっしゃいませ」
ラーメン屋の大将は小西と少し離れた席に座った。
小西は氷が溶けて薄くなったブランデーを、一気にあおって、
「それじゃ、そろそろ帰るとするか。カミさんにバレたら一大事だ。おいくらかな?」
「ありがとうございます。1900円です」
内訳は黒ビールが500円で、ヘネシーXOは1400円。ビールのほうは妥当な値段だろうが、ヘネシーは高級品にしては安いほうだ。女性が横に座ってくれる店だと、下手したら一杯5000円はする。
小西が退店したあと、ラーメン屋の大将に向かって、
「おまたせしました。いつものでよろしいでしょうか」
「うん。お願い。マスター、音楽掛けてよ。ジャズがいいな」
「かしかまりました」
垣田はステレオのスイッチをオンにして、ジャズのCDを入れるとランダム再生にした。スピーカーから、遠慮がちなハイハットシンバルの音がリズムを刻む。
ウォッカとブルーキュラソーをシェイカー入れながら、とりあえずもう一度不動産屋に行ってみる必要がありそうだと思った。
朝、帰宅すると、家に着く時間がアパートに住んでいたころよりも30分早くなった。身体が芯を抜かれたように疲れている。とにかくほかのことはすべて置いておいて、和室の布団にもぐりこんだ。
目を覚ますと、午後1時だった。言うまでもないが、部屋に怪奇現象やお化けが出たりすることはまったくなかった。悪夢なども見ることもなく、きっちりと熟睡できた。
少し寝すぎたかもしれないと思いつつ、シャワーを浴びてさっぱりした。不動産屋に直接行こうと思ってたのだが、引っ越しの片づけはまだ終わっておらず、やらなければならないことはたくさんある。電話ですまそう、そう思って垣田はもらっていた名刺を探して、田中の携帯電話に直接掛けた。
「もしもし」
「もしもし、この前お世話になった、垣田です」
「あー、はいはい。どうも大変ありがとうございました」
「あのさ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「はい。何でしょう」
「この部屋、自殺だって言ってたじゃない。でも、このマンションに住んでる人から、殺人事件だったって言うことをちょっと、耳に挟んで」
こういう場合は、あまり高圧的に出ると相手もそれに負けじと態度を硬化させることが多い。垣田はなるべく、おとなしめの口調で話すことを心掛けた。
「ええ、その通りです」田中は拍子抜けするほどあっさり認めた。「正確に言うと、3年前に一人で住んでた方が自殺をして、その二年後に住んだご夫婦が殺された、っていうのが本当のところです。今回の取引で売主だった方は、そのご夫婦のご長男の方ですね」
後者の話は、小西から聞いたものと符合する。つまりこの部屋では、立て続けに3人が死んだということになる。超一級の事故物件だったというわけだ。市場価格の半値以下に値下がりした理由も、ようやく納得がいった。
「いや、別に怒ってるってわけじゃないだけど、そういうの教えといてくれてもいいんじゃない?」
「ええ、申し訳ございません。ただ、ご夫婦の事件のほうは、部屋のなかでお亡くなりになったわけではないので、専有部分の心理的瑕疵というふうにはならないんですよ。共有部分の心理的瑕疵については、重要事項説明書に記入したはずです」
何やら難しい言葉が出てきた。つまり、不動産屋の手続きに問題はないということを言いたいのだろう。相手はプロだ。争ってもいいことはないだろうと即座に判断した。
「まさか、今から返品なんてことは、できないよね。こういうのって、どこに相談すればいいのかな」ととりあえずカマを掛けてみる。
「売買契約は合法的に成立してますので……。少々お待ちください」田中がそういうと、電話は保留になってオルゴールのような音楽が流れ始めた。
5分ほど待たされて、やっと保留が解除された。
「あの、上司と協議しましたところ、ウチの手続きはきちんと為されてはいますが、道義的には問題があったということで、お詫びとしてウチが垣田様からいただいた手数料を半額お返しするということで、なんとか収めていただけないでしょうか。もちろん、今回のことはご内密にしていただくというのが条件ですが」
相手が先手を打ってきた。手数料はたしか30万円ほどだった。半分だと15万円。悪くない話だ。もしくは、こういうときにはもめ事を最小限に抑えるために、手数料を返金するようなマニュアルでもあらかじめ用意されてるのかもしれない。垣田はそう思った。バーでも、三杯飲んだか四杯飲んだか、酔っぱらって訳が分からなくなり、勘定でもめることはしょっちゅうある。そういう場合、もし相手に有利なほうにしてしまったら、商売は引き合わなくなってしまう。「次に来店されたときには、お連れ様のぶんも一杯ごちそういたしますので、今日のところは収めていだだけませんか」と言うことにしている。そうすれば、次に来ることがなければそれはそれでよし、また来る客は常連になる可能性が高い。
ローンを組んでしまった以上、垣田にはほかに選択肢はないのだ。この部屋を売ってほかを探すなど、できるはずもない。
「後日、返事するよ」と言って、わざとぶっきらぼうに電話を切った。
昨日、小西さんは同じ階の住人くらいには挨拶しておいたほうがいいだろうと言っていた。とにかくこれからはご近所さんとして付き合っていかなければならない。しかし、いまだに段ボールが散乱して片付かない部屋を見ると、それどころではないような気がした。とりあえず今日は、カーテンを買ってこなければならない。
挨拶回りはいずれ、片づけがひと段落したときでいいだろう。垣田はそう思って、とりあえず空腹を満たすために薬缶に火をかけ、カップ麺を開封し始めた。
約一週間後の日曜日、午前。
垣田は、玄関の扉を激しく連打するノックの音で目を覚ました。マンション入り口のオートロックは解除していないのに、いったい誰が入ってきたというのだろうか。警察か何かだろうか。
上半身を起こすと、頭がかすかに痛い。土曜日の客は、ほかの曜日よりも元気が良いのは当然で、昨夜、というか今日の朝4時くらいに、最近離婚したばかりの20代OLの常連客に、むりやりテキーラを飲まされてしまった。世界中の不幸を背負い込んだと勘違いしている女に、「一緒に飲んでくれなきゃ死ぬ」などと言われては飲まないわけにはいかなかった。
時計を見ると午前10時になる少し前のことで、たぶん3時間も寝ていないうちに起こされたことになる。垣田は小声でぶつぶつ言いながら玄関まで行き、鍵が掛かったままの扉に向かって
「どなたですか?」と言った。
「となりの部屋の、ユウキというものです。少しお話しが有りまして」
「はあ」とため息とも返事ともとれる声を発して開錠した。
「どうも、お休みのところ、朝早くから申し訳ございません」そう言ったのは、40代くらいの男だった。
その男は、きちんと垣田に頭を下げた。頭頂部が薄くなっている。細い身体で顔は色白。ゴルフに着ていくようなシャツを、ちゃんとベルトを締めたパンツのなかに突っ込んでいる。
しかし、そこに居たのはユウキだけではなく、背後にはユウキの妻らしき女性が控えていて、その後ろにもまだ、背の高い50代くらいの男、車いすに座った老齢の男と付き添っている女、三十代の女、小学生くらいの男の子など、計7人が立って垣田の姿を怪訝な顔をして眺めている。
「わたくし、こういうものです」と言ってユウキは名刺を差し出してきた。
「はあ。どうも。私は垣田と言います」そう言いながら垣田はそれに目を落とす。
○○電機グループ
株式会社○○電機東日本販売
社長
結城三郎
○○電機は、名前を聞けば誰でも知っている超優良の大企業だ。小さな電器屋でも、この会社の製品を扱っていないということは有り得ないだろう。社名を見ると、○○電機の販売を担当する地域子会社と予想できる。
垣田はもう一度結城の顔を見た。自分とそれほど年齢は変わらないだろう。販売子会社が社内でどれほどの重要性を持っているか見当もつかないが、この歳で子会社の社長ということはかなり出世が早いほうなのだろうか。
「あの、何か用ですか?」
「えっと、……この部屋に、盛り塩をしていた部屋があったと思うんですが」
「え?」垣田はまだ寝惚けたままの頭を働かせた。「ああ。はい。ありましたね。通路側の洋室に」
「その、もしかして、あなたがあれを触ってしまったんじゃないかと思って、伺ったんですが」
「あー、引っ越しの日に、片づけましたよ。邪魔だから」
「片づけた! なんて罰当たりなことを……」と誰かが言った。おそらく老齢の女だ。「そんな、信じられない。やっぱり、そうだったんだわ」
言葉を発しなかった者も、大きくため息をついて嘆いたり、小学生の男の子に至っては泣きそうな顔をしている。
「みんな、仕方ないだろう。僕たちもきちんと徹底してなかったんだから。大事なのはこれからどうするか、ということだ」と結城が一同に言った。
なんなんだ、これは。というのが垣田の印象だった。いったい、この人たちは自分に何を訴えに来たのか。
「あの、垣田さんとおっしゃいましたね」
「はあ」
「ここをお買いになったということは、あなたも事情はご存知でしょう。ここに住んでた方は、その、洋室で自殺をしてしまった、と」
「はあ、知ってますが」
「それ以降ね、このマンションではいろいろと不幸なことが度重なったんですよ。鈴本さんのところは、息子さんがバイクで事故を起こして大けがしたり」
背の高い男が俯いた。これがその鈴本さんなのだろうと垣田は思った。
「田中さんのところでは、マンションを買ったばかりなのにご主人が左遷されたり」
三十代の女が、垣田を睨んだ。
「羽田さんはそれまで元気だったのに、いきなり糖尿病が悪化して、止むを得ず車いすになったり」
誰が羽田か、これは一目瞭然だった。
「ほかにも、夜中に何にもないのに勝手にテレビが付いたり、誰もいないのにドアノブががちゃがちゃ動かされたり……」
「気のせいじゃないですか?」と垣田は言った。目は覚めてきたが、頭痛は引かない。
「気のせいなんかじゃありませんよ」結城は語気を強めた。「それで、これはきっと、その吉田さん……、その自殺をなさった方ですが、吉田さんの霊がうらめしく思って、霊障を起こしてるのだろうということで、マンション管理会社のほうに相談してみたんです。しかし、管理会社のほうはいっさいこういう問題には関知しないということだったんです」
そりゃそうだろう。お化けが出るとクレームされたところで、管理会社にいったい何ができるというのだ。
「そこで、この階のみんなで相談して、除霊してもらうことにしたんです。吉田さんのご遺族に部屋の鍵をお借りして、霊媒師の方を呼んでお祓いをして、この階のみんなで吉田さんの魂の平和を願ったんです。すると、それから不幸なことも怪奇現象もぴたりと止んだ。それ以来、平和に暮らしていたのですよ」
「はあ。それは良かったですね」
「吉田さん、いい人だったよね。悩みがあったら、わしらに相談してくれりゃよかったのに」車いすの羽田は嘆くように言った。
「霊媒師の方は、くれぐれも、お清めの塩だけは部屋から取り除かないように、と言ってたんです。それがなくなると、また吉田さんの霊がマンションをさまよい始めると」
こんな話に、付き合ってられるか。垣田は、
「やっぱり、気のせいでしょ」とぶっきらぼうに言った。
「断じて、気のせいなんかじゃありませんよ! 実際、次にこの部屋を買った東田さん夫婦は、祟りで殺されたじゃありませんか! あれは吉田さんが仲間を欲しがって、あっちに引きずっていったんだ」叫ぶように言った結城の声が、垣田の頭のなかでうるさく反響する。
「そうだそうだ! 東田さんも、お清めの塩を片づけたんだ。それが原因だ」車いすが言う。「あのとき、わたしらも、もう昔のことだから吉田さんも成仏しただろうと思ってたから、別に東田さんが吉田さんの霊をないがしろにするようなことをしても黙ってたんだ。でも、東田夫婦が引っ越してきたあたりからまたわしの血糖値が上がり始めて、足が壊疽しちまったんだぞ。お清めの塩を東田さんが片づけてしまったからに違いない」
「お清めの塩を、絶やしてはいけないんです」三十代の女が言った。「そのせいで、うちの主人なんか、左遷された単身赴任先で、若い女の従業員にセクハラしてクビになったんですよ!」
なんなんだ、こいつらは。垣田はもはや、動物園にでも迷い込んだような気分になってきた。
「で、俺にどうしろって言うの?」
「もう一度、この部屋で除霊をさせて欲しいんです。そしてもう一度、お清めの塩を部屋に盛ってください」
「ばかばかしい」と垣田は吐き捨てるように言った。
「そうお思いでしょうが、吉田さんの祟りは本物です。実際、あなたが引っ越してきたあたりから、また不幸なことが起こり始めたんですよ。私はちょっとだけですが、車で事故をしてしまうし……」
「うちの子供なんか」三十代の女が言う。「テストで20点なんて悪い点数を取ってしまったんですよ。少し前までは40点あったのに」
「ここで除霊しておかないと、きっとあなたにも不幸が訪れます。あなたのためにも言ってるんです」
「だいたい何なんだよあんた、引っ越しの挨拶もしてこないで」背の高い男が言った。「とりあえず菓子折りかそばを持って挨拶に来るのが社会人として当たり前だろ」
これに関しては、垣田は反論できない。なんとなく伸ばし伸ばしにしてるうちに、とうとう今日まで行かずになってしまった。
しかしだからと言って、交通事故や成績の悪化を自分のせいにされるいわれはないはずだ。もうさっさと扉を閉めて無視しようか。そんなことを思ったが、垣田は「マンションの住人とは、腰を低くして付き合うべきだ」という小西の箴言を思い出した。ここで関係を悪化させてしまえば、この先、ずっと不愉快な思いをしながらすごさなければいけなくなる。
「除霊って……、具体的に何するの?」
「いや、難しいことはありません」と結城が真剣な表情を維持したまま言った。「霊媒師さんに来てもらって、3時間ほど祈ってもらい、最後に盛り塩をするだけです。霊媒師さんにお支払いするお金は、我々で用意しますから、あなたは部屋を空けてもらうだけでいいんです」
「その除霊っていうのは、一回やったら終わりなの? 毎月やらないといけないとか、そういう決まりはない?」
「そうですね。一度きりです」
洋室は、今は使わない季節品や書籍、引っ越しのときに出たゴミなど一時的に押し込めておく場所になっている。あれを片づけなければいけないとなると、かなりおっくうだ。
しかし、一度だけのことなら、ここはこらえるしかないのかもしれない。小西の言ったことには、このマンションに住む先輩として、素直に従っておこう。洋室の荷物は一度和室のほうに移動させて、除霊とやらをやった後に戻せばいい。一人でやるのは重労働だが。
一週間後、垣田の部屋の玄関には、男物女物大小さまざまな靴やサンダルがあふれるように並んだ。
洋室には同じ階、あるいはすぐ上の階のマンション住人がぎゅうぎゅう詰めに入り込んで、正座をしている。15人くらいはいるだろうか。6畳の洋室にそれだけの人が入っているので、湿気がこもって部屋の空気が薄くなり、息苦しい。
70は過ぎているであろう白装束を着た貧相なばあさんが、壁ぎわに和蝋燭やら線香やらを立てた祭壇のようなものをこしらえて、稲の穂のようなものが付いた棒を左右に振り回しながら、念仏のようなものを唱えている。
一同、その様子を真剣に眺めている。垣田は除霊が終わるまでは一時的な物置になってる和室のほうにでも行っておこうと思っていたのだが、
「いちばんの当事者であるあなたが参加しなくてどうするんですか」と結城に言われた。
眠たい。ほかの連中とは違って昼夜逆転してる垣田は、朝の9時と言えば眠気のピークがやって来る時間だ。座ったままでも眠ることは不可能ではないが、霊媒師の女の呪文を聞きながらだとたとえ眠れたとしても悪夢を見るに決まっている。何がいちばんの当事者だよ、そんなことを考えながら、刻々と眠気に重さを増していく頭を首の力で支えるのに必死だった。
ぼんやりと霊媒師の背中を見ていると、霊媒師はおもむろに、傍らに置いていた一升瓶を手に取り、日本酒を口に含むと、それを「ブーッ!」という音を立てながら壁に向かって吹き出した。
「なっ!」なにすんだよババア、と言いたかったのだが、最初の一文字を発したところで、隣に座っている結城に口を押さえられた。
3時間ほど念仏が続いて、それまでは蝿の羽音のように高く小刻みだった霊媒師のしゃべり方が、一言一言が間延びして低い声になった。「あ~~む、あ~~~む、あ~~~~む」などというふうに垣田には聞こえる。一同はそれを熱心に聞いていて、手を合わせて泣きそうになっている者すらいる。
霊媒師は大きな玉の数珠を手に持って、それを左右に振ると、一同に背中を見せたまま、
「これにて終了とさせてもらいます」と言った。
わざとらしく、息を切らせている。
「荒ぶる御霊にお鎮まりいただきました。ずいぶんと辛い思いをなさっていたようです」やはり背後を向けたままだ。霊媒師は一度、鼻をすすって、「皆さまの思いが伝わってこれ以降はきっと霊障は収まるでしょう。故人にとっては生者の祈りほど、その悲しみを鎮めるものはありません。皆さまの祈るこころが大事なのです」
霊媒師は業務用食塩の紙袋から、塩を細長いカップですくうとそれを皿の上に乗せて盛り塩を作った。
「ありがたや、ありがたや」と背の高い中年が言って手をこすり合わせている。
「今度こそ、お清めのお塩には触れられませんよう、じゅうぶんご注意ください。今度あったら、私の手には負えないかもしれません。そしてできれば、お塩は3日に1度、新しいものに取り換えてくださるようお願いします」
結城が霊媒師のすぐ後ろまで、正座したまま両膝を動かしながら行った。
「本日はまことにありがとうございました。ささやかながら、お布施せさていただきます。お納めください」と言って分厚い封筒を差し出した。
その封筒は、もし一万円札なら、どう見ても100万円では足らないような分厚さだ。霊媒師はそれを乱暴にたもとに突っ込むと、
「それでは」さっさと荷物を片づけて、まるで悪人が脱獄でもするかのように去っていった。
とりあえず儀式が終わったので、一同は気ままにしゃべりながら自分の部屋に戻って行く。「やれやれ」や「これで安心ね」などという話し声も混じっている。
「それじゃ、お願いしますよ」と結城は垣田に言った。
「は? 何を?」
「何を、じゃないでしょう。あなた、さっきの先生の話をちゃんと聞いてなかったんですか?」
「はあ」
「盛り塩を、ちゃんと3日に1回、新しいものに交換するんですよ」
「はぁ? それ、俺がやるの?」
「だって、あなたの部屋でしょう」
「俺の部屋にむりやり押しかけて、わけのわからん除霊をやると言ったのはあんたらのほうだろう」垣田はそろそろイラついていた。
「そもそも、あなたが盛り塩を捨てたりしなければ、こんなことにならなかったんだ。原因はあなたにある。これはいわば、この部屋に住む人間の義務みたいなものですよ。それでこのマンションの住人みんなが幸せになれるんです。別にそれほど手間のかかることでもないでしょう。お願いしますよ」
結城の言ってる内容はともかく、言い方は明らかに垣田に命令していた。何なんだ、こいつは。エリートサラリーマンっていうのはそんなにエラいのか。
眠たさと怒りと煩わしさと、あらゆる負の感情がごちゃまぜになった垣田は、
「はいはい、わかりましたよ。わかったから、帰ってくれ。俺は今晩も仕事なんだから、昼のうちに寝とかなきゃいけないんだ」と言って結城に帰宅を促した。
洋室にひとりになって、壁に降りかかった霊媒師のよだれと日本酒が混じった臭い液体を見ると、情けなくて仕方なかった。こんなことになるんだったら、多少不便でも前のアパートのほうがマシだったと、初めてこのマンションを買ったことを後悔した。
「何やってんだ、俺。借金までして」そうつぶやくと、さっきまでの結城の自分に対する態度が思い出されて怒りがこみあげてきた。
足もとに置いてある小皿に高く盛られた塩を見ると、まるでそれが自分を不幸にしてる元凶のように思えてきて、気付けばそれを足で蹴り上げていた。まるでNHKの相撲中継のように、白い塩が宙を舞った。
それから数日経過してから、垣田の身の回りで不可解な現象が起こり始めた。
夕方、郵便物が入っていないか郵便受けを確認すると、差出人不明の封筒が入っていた。開封すると、長い髪の毛とカミソリの刃が入っていた。幸い、ケガはしなかった。
数日後の朝、仕事から帰って玄関の扉を開けると、そこに呪いの藁人形が落ちていた。胸に刺さっていたであろう釘は、垣田のスニーカーの近くに転がっていた。その翌日、藁人形は2体に増えていた。そしてその翌日は、藁人形が合計11体、玄関に積み重なっていた。
ある朝帰宅すると、きちんと片づけていたはずの包丁が、なぜか寝室のマクラの上に置かれていた。ほかにも、知らないうちに風呂に水が貯められていたり、トイレ洗剤が空になっていたり、スニーカーのなかに画鋲が入れられたりしていた。テレビの電源ケーブルを切断されたり、洋室の壁や床一面に、血のような液体が塗りたくられていたこともあった。
夜中、垣田の部屋の玄関のドアが開いた。ゆっくりと足音が聞こえる。足音はリビングの窓際で止まった。部屋のなかで、何か液体がこぼれるような音がした。そして、真っ暗闇のなかで、オレンジ色の火が灯った。
「ガンッ!」という鈍い音がすると同時に、
「ぐわっ!」という叫び声が響いて、ドスンと何かが倒れる音がした。
垣田の部屋のリビングの電気が点灯した。
「いくらなんでも、これはやりすぎなんじゃないか。結城さん」
床には後頭部を抑えてうずくまってる結城がいる。さっきまでの結城が持っていたチャッカマンは、殴られた衝撃で台所の端のほうまで飛んでいった。
垣田はテーブルの上の液体を指で軽く触ってにおいをかいだ。まちがいなく、灯油だ。
「今までのは洒落の範囲ですむとしても、これはちょっとヤバいよな。上場企業の子会社の社長がマンション放火なんて、いったい何考えてるんだ? 俺の身の回りで怪奇現象が続けば、俺があのインチキ霊媒師に助けを求めるとでも思ったのか?」
結城が起き上がって垣田の姿を見ると、
「なんで、あんたが……。仕事に行ってるはずじゃ……」と言った。
「いやね、あまりにたちの悪いいたずらが続くから、悪いやつを捕まえてやろうって思ってね」垣田は自分でも驚くほど冷静だった。「しかし、いくらなんでもこれはやりすぎだろう。マンションごと火事になったらどうするんだよ。まあ、これくらいの量の灯油をテーブルの上で燃やすくらいだったら、そんなに大事にはならないか。コンクリ造だし。ってか、そもそもあんた、どうやってうちに入ったんだよ。なんであんたがこの部屋の合鍵なんて持ってるんだ?」
結城はそれに答えず、床に落ちたチャッカマンを拾って逃げようとしたので、垣田は襟元をつかんで床に引き摺り倒した。そしてその鼻に向かって、思いっきりかかとの堅い部分を垂直に落とした。
「ああああ!」結城は血の吹き出す鼻を押さえてのたうちまわりながら、大きな叫び声上げた。
暴力はいけない。しかし、口で言ってもわからない行儀の悪いやつはこうするしかない。長年に及ぶ水商売の経験から、垣田はそんな信念を持つようになっていた。もちろん最後の手段だが、結城の所作はその手段を用いるに十分すぎるものだろう。
「あんた、いったい何がしたいんだ? 俺にここから出て行ってほしいのか?」
「お前が悪いんだろ」顔面を押さえたまま、はっきりしない発音で結城は言った。
「はあ?」
「お前がお清めの塩をずさんに扱うから、せっかくもう一度除霊してもらったのに、無意味になってしまったじゃないか」
「まだ、そんなこと言ってるのか? ばかばかしい」
「うちの息子が、事故にあって骨折したんだ。せっかく、部活で県大会に出られるはずだったのに、今まで努力してきたのが無駄になったじゃないか」
「それも俺のせいだっての?」
「そうだ、あなたのせいよ!」玄関のほうから声が聞こえたので、そっちに目をやってみると、三十代の女がパジャマ姿のままで入ってきていた。ほかにも、さっきの結城の叫び声を聞いて、野次馬が垣田の部屋にやってきていた。
「なんだよ、あんたら。勝手に入ってくるんじゃねえ」
「あなたが悪いのよ!」女はかまわず続けた。「せっかく除霊してもらったのに、あなたがきちんと先生の言いつけを守らないから、また霊障が起こるようになったじゃない。私たちはあなたの犠牲者よ」
「なんだと? それじゃ、俺の部屋がこいつが赤い絵の具をぶちまけられて、今日は放火までされそうになったのも、霊のせいだってか?」
「もう一度、除霊のやり直ししなきゃいけないじゃない」とまったく聞く耳を持たない。
「そうだそうだ!」と野次馬のひとりがはやし立てる。「先生へのお布施、あんたが負担しろよ」
「何言ってんだよ。そんなの知らねえ。だいたい、お布施っていくらなんだよ」
「200万」
「お前ら、バッカじゃねえの。あんなインチキババアに何回もむしられてるのかよ」
「あんた、だいぶ安い値段でこの部屋買ったんだろ」と結城が言った。鼻から流れる血が、あごからぽたぽたと床に落ちている。「その差額のぶんだけ、得したといえるわけだ。だからそれくらい負担する義務があるはずだ」
聞きながら頭痛がしてきた。みんな、ちゃんとした教育を受けて、日々会社勤めを果たして家事をして子育てをしている立派な社会人だ。それがマンションのことになると、なぜここまで狂気になるのか。もはや日本語が通じる相手ではなさそうだ。
「もう、貴様ら、帰れ」と垣田は怒鳴った。「もう二度と俺に関わるんじゃねえ。今度来たら、警察に行くからな。このチャッカマンとお前がぶちまいた灯油は、まぎれもない証拠物件だ。いいか、わかったな」
垣田はそこにいた全員の肩を突き飛ばして部屋から追い出した。
翌日の夕方、店に出勤する前に垣田はひさしぶりに不動産屋に行った。出されたコーヒーを一気に飲んだ後、大きく息を吐いた。
「何か、お困りですか?」と不動産屋の田中が言った。
「お困りですか、じゃねえ。あんたに紹介してもらったの、とんでもない物件だ。幽霊が出たほうがまだマシだよ。あいつら、キチ○イじゃねえのか」
垣田はこれまでのことをおおざっぱに説明した。
「まあ、マンションだったら大なり小なりご近所トラブルってのはあるものですがね」と田中は平然と言う。「もし耐えられないようでしたら、ほかの物件もご紹介できますが」
「そういうのじゃない。鍵屋を紹介してくれ」
「鍵屋?」
「なんでかわからないが、その結城ってやつがうちの合鍵を持ってやがるんだ。いったいなぜだ」
「マンション売買の場合、鍵は変更しない場合も多いですから。前の売主さんか、前の前の売主さんが、その結城さんって方に何かしらの用事があって鍵を預けてたってことがあったのかもしれませんね」
それを聞いて垣田は、最初の除霊のときに部屋の相続人から鍵を借りて除霊したと結城が言ってたことを思い出した。あいつ、なんて野郎だ。またいつ侵入されて放火されるかわからないとなったら、一刻も早く鍵を交換しなければならない。
「あんた、不動産屋だからそういうの詳しいだろ。どんな人でもいいから、大至急鍵交換してくれる業者、紹介してくれ」
「かしこまりました」
田中に紹介してもらった鍵屋に電話をすると、鍵の開錠は救急で対応できるが、錠そのものの交換となると、一度備品の種類を確認してからでないとできないということだった。とりあえず、明日の朝9時に部屋まで来てもらう予約を取った。鍵交換に要する料金は、モノにもよるが3万円から30万円ということだった。あまりに馬鹿らしい出費だが、あのインチキ霊媒師に200万払うよりはだいぶマシだ。
その日の夕方、いつもの時間から店を開けていたが、めずらしく客がほとんど来ない。週の真ん中でしかも太陽が落ちてから雨が降り始めたというのもあるのだろうが、ここまで客足の絶える日もめずらしい。台風でも来ない限りこんなことはめったにない。
疲れている。もう店を閉めて帰ってしまおうかと思っていたら、カランカランと音が鳴ってドアが開いた。
「いらっしゃいませ」と言うと、そこに居たのは小西だった。
「やあ、また来たよ」と小西は笑顔で言った。
「ようこそいらっしゃいました。歓迎いたします」
「いつものを」
「かしこまりました」
出されたヘネシーを、小西はやはり官能的にたしなんだ。そして、
「垣田くん、マンションの2階3階あたりは、ずいぶんモメてるようだね。4階5階の住人になると、文字通り高みの見物ということになるが」
「やはり、ご存じでしたか。お恥ずかしい限りで」まるでいたずらを見つかった小学生のように垣田ははにかんだ。
「でも、いったい何がどうなってモメてるのか、私はあまり詳しく知らないんだ。不愉快じゃなかったら、教えてくれないか?」
「ええ」
垣田はこれまでのことを小西に話した。話しているうちにだんだん昂ってしまい、端から見ればまるでバーテンダーが客を叱っているかのように見えただろう。
「なるほどね」と小西が寂しそうな目つきで言った。
「もう一杯、いかがですか?」
「いや、濃い酒はもういい。ギネスがあったら、泡抜きで頼むよ」
「かしこまりました」
小西はその高級ビールを、口の中で炭酸が弾けるのを楽しむかのようにゆっくりと飲んだ。
「垣田くん、君が100%正しい。しかし……」と騒動についての感想を小西が言った。「前も言ったが、とにかく彼らにとってはマンションがすべてなんだ。常軌を逸してるほどに。……任侠道の人間なんか、怖れるには足りない。彼らは、自分が悪いことをしてるとわかってやってるんだ。こういう人間は一線を超えるようなことはしない。本当に怖いのは、自分が正しいと思い込んでる人たちだ。彼らは平気でどんな悪徳でも犯す。しかも、喜んで。そういう狂気の連中と争っても、いいことないよ。連中が、除霊とかいうのをやって、それで納得するのなら、受け入れておやりなさいよ」
「でもやつら、霊媒師に払うカネを僕に負担しろと言ってくるんですよ。残念ながら僕にはそんなお金、ありません」
「私が貸してあげるよ」
「貸していただいても、返せるアテがありませんよ」
「利息ゼロ催促なしでいいよ。このままじゃ、君が不幸になる」
小西は本気で心配しているようだった。複雑な気持ちが垣田のなかに湧き起ってくる。たしかに小西の言う通り、あの連中がこの先何をしでかすかわかったもんじゃない。
「理不尽だが、これが中古マンションを買って住むということなんだ。最初から住んでいた人間どうしの紐帯は、後から入ってきた者とでは築けない」
あこがれだったマンション。金持ちの象徴のように見えた、空に浮かぶ居住空間。それが今では、魑魅魍魎が棲む魔窟のように見える。
「考えておきます」と答えるのがせいいっぱいだった。
午前5時。店を閉めて表に出ると、まだ雨は降っていたが、傘がなくても気にならないほどの小雨になっていた。いつもは電柱の上に留まって獲物を狙っているカラスも、今日はいない。
垣田が雑居ビルから出て歩き始めると、いきなり背後に強い衝撃を感じた。振り向くと、大きな黒い傘の布地が見えたが、その傘が重力に任せて道路の上に落ちると、そこにあったのは、鼻に包帯を巻いた結城の顔だった。
結城は包帯の下で不気味に微笑んで垣田を見つめている。
腰が痛い。手を当てると、雨ではない何かで腰のあたりがびしょ濡れになっている。その手を自分の目の前に持って行くと、真っ赤な血が手のひらにべっとり付いていた。
「うっ!」
もう一度、腰に強い痛みが走った。痛みはそのまま、背中の上部のほうへ移動していく。そこでようやく、垣田は自分が刺されたのだと気付いた。
なるほど、小西の言うとおりだった。幽霊なんかより、人間のほうがはるかに怖い。垣田の前に住んでいて、何ものかに刺殺された夫婦というのも、こういうことだったのか。
「950万でも、高すぎだぜ。もう事故物件なんかには、ぜったい住まねえ」そんなことを思いながら、垣田は繁華街の道端で絶命した。
(了)
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