少年の名前 I
どこか不揃いだが、確かな祈りが教会に響いている。
今日は町の皆が集まり、讃美歌を歌う日だが、少年は不機嫌そうにどこかへ行ってしまった。
私は天井や壁から跳ね返る音を聴きながら、何か少年がやらかしてはいないだろうかとはらはらしていた。
台所に置いた麦、芋やトウモロコシ––。
燻製にして保存してあるベーコン––。
地下室の寝かせてあるワイン––。
何が怖いかというと、食べ物をダメにされることだ。
今までかなり余裕があった備蓄だが、少年が来てから少々厳しくなってきている。
(とはいえ、1年は十分もつかな……。)
どうしようもなくなったときはワインを売ろう。
酒はあまり好きではないし。
教会で貯蔵しているワインは高く売れる。
感情で力の制御が出来なくなること考えると、何かの弾みで壁一枚吹っ飛んだり物が消し炭になるらしいから、食糧難に陥ることもなくは無いような気がする。
首都から審問官や監査官が来た時を考えると胃が痛くなるが、それはそれ、だ。
「神父さま、今日お元気ないね……。おうた、そんなに上手にうたえてなかったから?」
茶色のお下げ髪の小さな子が、心配そうに聞いてきた。
よっぽどうわの空だったらしい。
「そんなことはないよ。とっても上手な歌だったから、神様はきっと君のことを見てくれるだろうって、そう思ってたんだ。」
讃美歌を歌っている時に食べ物のことを考えるのは、確かに不謹慎だった。
これからは絶対にやめよう……。
後でドリーおばあさんにも釘を刺されてしまったし。
誰もいなくなった後の教会を見てまわる。
時たま少年!と大声を出しながらたくさんある部屋の扉を開けていくが、どこにもいない。
『少年』
私は彼のことをずっとそう呼んでいる。
少年というには子供すぎる。が、それ以外の呼び方がないのだ。
林の中で倒れているところを見つけて、食事や水を与えた。
親の元へ帰そうとしたが、仲間に"天"から落とされたという。
それではしばらくここにいて良いから、取りあえず名前を教えてくれ。そう言ったら、彼はこう答えた。
「ぼくね、なまえがないの。」
それでは不便だから名前をつけようとしたが、要らないと言われた。
絶対に名前なんかつけないで!と念まで押されてしまい、仕方なく『少年』と呼んでいる。
名付けを嫌がる理由はわからなかったが、何か事情があるのだろうと納得している。
何せ彼は人間ではない。
『悪魔』なのだから……。
「あくま、ねぇ。」
透き通るような金髪の髪。
深いのに澄んだ海のような瞳。
細く華奢で真っ白な体。
それはまるで……
「天使、だよな。」
「だれが天使なの。」
頬を膨らませた少年が、いつの間にか目の前にいた。
「今日来ていたお下げ髪の女の子がだよ。今までどこにいたんだ?」
「……ぼく、讃美歌きらいだもん。」
「悪魔だからか?」
「ちがうっ!!」
聞いたことがないような声の
廊下を照らす燭台の蝋燭の火が大きくなったような気がする。
「ぼくは!ただ祈ってるような歌はだいっきらいだ!!」
「……確かに、讃美歌は祈りや願いを歌っているようにも聴こえる。歌うことで救われたいと思うんだろう。」
熱い……。もうじき冬が来るというのに、体の内側から汗が滲みでてくる。
蝋燭の炎はどんどん大きくなる。
レンガの壁をつたい天井にススをつける。
「だからきらいなんだ!祈ってるだけで救われると思ってるんだ。人間は身勝手すぎる!!」
長い時をかけても、いつまでも変わらない怠惰に、争いに、人間に諦めを感じているのか。それはもう、絶望へと変わってしまっているのだろうか。
––考えるだけで、途方もなく、哀しく辛い。
ぐにゃりと足元が沈むような感覚を無視し、少年の前で膝をつき目を合わせた。
この子の気持ちを共有することは、一生かけてもできないだろう。それでも、聞き分けのない子を諭すことくらいは、出来損ないの神父にでもできる。
「だけど、讃美歌は祈るだけのものじゃない。皆で歌って生きている喜びを感じたり、日々の感謝を声に出すことが大事なんじゃないかと、私は思うよ。」
「な、に……それ。そんなの、わかんないよ……。」
少年の怒りが戸惑いに変わる。
そうか……少年も人の全てを理解しているわけじゃない。
「人は弱いからね。きっかけがなきゃ、思いを伝えることもままならないのさ。……さぁ、お腹が空いただろう?私もぺこぺこなんだ。」
蝋燭の炎は、いつの間にかおさまっていた。なんとか落ち着いてくれたみたいだ。
手を握りながら2人で食堂へ向かう。
人には人の生き方があるように、悪魔には悪魔の生き方があるに違いない。
理解は難しいだろう。
死に際の老人ですら、わからないまま
少年の言葉で言うならば、『帰って行く』なんだろうか。
「少年、聞きたいことがあるのだが……。」
「なに。」
随分とそっけない返事だな。まだ怒っているのか?
また怒り出すかもしれないと思いながらも聞かずにいられないのは、私の性分なんだろう。
「少年は、なんのために生まれてきたんだと思う?」
「そんなの決まってるよ。地獄におちそうな人間をゆうわくするため。」
考えてた以上に恐ろしい答えが返ってきた。
え、これ本当なのか?
そういえばこいつ悪魔だ。
「そうか。私は堕ちそうか?」
「……ヨハンは絶対、おちないよ。」
「なら、精々好きなように生きるとしよう。」
冗談のつもりなのだが、少年は嫌そうな顔をした。
そんな顔をするほど拙いことを言っただろうか……。少年の怒るポイントが未だによくわからない。
「ヨハンは……、他の神父とはちがうんだね。」
「そうか?まぁ……田舎という事もあるし、
少年はいやいやをするように首を振る。
「そうじゃないよ。ぼくが知ってる神父は、なんにも見えてない人ばっかりだもん。信仰深かったり、良い人なんだけどさ……。きっと、ヨハンみたいに悪魔が近くにいてもへいきって人は、いないんじゃないかな。」
「……?」
もしかして、私は神父らしくないと言われているのか……?
だとしたら結構傷つくのだが。
まぁ、確かに、私が中央で教壇に立ったらヒイラギの枝で叩きまわされるだろうな……。
きちんと説法出来てるわけじゃないし。
日々やってることは主に、無駄に広い教会の掃除だし。
正式な神父かどうかも怪しいってのに……。
「ねぇ、ヨハン。あした町に行ってみたい。ぼく、ここに来てから一度も人がたくさんいるとこに行ったことないよ。」
「え……。あ、あぁ、わかった。」
広いとはいえ、教会ばかりでは気が滅入るのだろう。他のところへ行きたいに違いない。
「それじゃあ、朝は少し早く起きて町へ下りよう。たまには昼にご馳走でも食べたいしな。」
「ごちそうっ!?」
子供っぽく、目をキラキラさせている。
私は海を渡ってきた料理や甘い焼き菓子の話を聞かせながら、明日の予定を考えていた。
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