堕天悪魔の生活譚

玻璃Si

不思議な少年

 私の朝は早い。太陽が地平線から顔を出す前の薄暗い時間に起き、ベッドの横にある洗面器で顔を洗う。

 庭にあるハーブや野菜に水をあげ、今日食べる分を採る。

 ニワトリも少し飼っているから、餌をやる。

 卵を産んでいるときは牛乳や肉と交換してもらったり、ごくたまに自分で食べたりしている。

 教会の椅子や燭台を掃除し、今日の礼拝を確認する。


 明るくなり始めたころ、ドタドタと騒がしい足音が廊下から響いてきた。

「ヨハン!おはよっ。」

「おはよう、少年。顔は洗ったかい?」

 うんっ!と返事をする可愛らしい少年。

 帰れないということで、教会において1週間になるが、悪魔だということが信じられないくらい良い子だ。

 たまに度が過ぎた悪戯をするが……。

 朝食の黒パンをかじりながらもう一度やらなければならないことを頭の中で思い返していく。

 朝と夕方の礼拝、お昼にやってくるおばあさん、懺悔室ざんげしつの解放……。

 元々孤児院も兼ねていた教会は広く、毎日のように掃除をしなければならないほど広い。

 コーヒーをぐっと飲み、立ち上がろうとした時だった。

 ぐるんっ。と視界が180度回転した。

「!?!!??!」

 あまりのことに声も出せない。

 転んだわけではない、ちゃんと立っている!

 見ている物が上下逆になっているのだ。

 その証拠に、テーブルについた手や首に掛けた十字架が上からぶら下がっている。

「!ンハヨよいどひ。?のるてし顔なんそとっずでんな、にのるてっ座にここがくぼ」

 少年が何を言っているのかもわからず、込み上げてきた吐き気をこらえ必死で部屋の扉を開ける。

 どこをどう走ったかわからないまま庭に出て、そのまま胃の中のものをぶちまける!

「うぐえぇっ!オゲェエッ!!」

 茶色い液体と一緒に、細かくグチャグチャになった黒パンが出てきた。

 顔を上げると、空が下に、育てている野菜の青々とした葉が上になっている。

 ……どうしたらいいんだ。

 逆さになった景色を呆然と見ていると、どんっ。と腰のあたりに何かがぶつかった。

 と同時に視界が元に戻っていた。

「ごめんなさい……。ほんの、いたずらのつもりだったんだ。ごめんなさい……。ごめんなさい……。」

 繰り返す言葉がどんどん小さくなっていく。

 あぁ、この子は……。

 どうしてこんなにも、愛おしい。

「いや、私が悪かった……。そうだな、確かに一緒に食事をしている人がいるのに、失礼だった。すまない。」

 大きな青色の目で不安そうに私を見る。

 ここに来た頃、怒ってない?追い出さないで、と繰り返し言っていたことを思い出す。

 少年は、こういった悪魔の力を上手く制御できないらしい。恐らくだが、仲間から天界を追い出されたのはこれが原因だと思われる。

 頭を軽く叩き、抱きしめる。わたしも昔、シスターによくやってもらったように。

「安心しろ。ここはお前の家だ。しゅに仕える仲間がお前の住処を奪ったとしても、地獄のサタンがお前を要らないと言っても、ここはお前の家でしゅに仕える家だ。好きなだけいればいい。」

「うあぁ、ああぁっ!アァああぁっっ!」

 大声で泣き叫ぶ声を聴きながら、まだ小さい体にいったいどれだけの物を抱えてきたのかと、少年の背中をなぐさめるように、あやすようにトン、トン、と叩いていた。


 朝の礼拝が終わり、教会の幾つもある部屋を掃除していく。

 誰も使ってはいないが、住んでいる家は掃除をしたり手入れをしなければすぐに傷んでしまうからだ。

 少年はずっと一緒に後をついてきて、掃除を手伝ってくれる。

「そういえば、少年は今年でいくつになるんだ?いつまでもすぐ泣くようじゃ、立派になれないんじゃないか?」

 はたきで埃を落としながら、茶化すように聞いてみた。

 場合によっては、読み書きくらいでも学ばせてやりたい。

「えーとね。5000さいくらいだと思う!」

「そ、そうか……。」

 見た目はどう見ても6歳くらいだぞ!?

 年相応とは言わないが、もう少し大人の姿でもいいだろう!

「やはり、悪魔は寿命が長いのか?」

「うーん……。そうでもないと思うよ。ぼくが3番目くらいに年上なんだけど、もっと短い年で帰る子もいるよ。」

「帰る……?とは、なんだ。」

「いのちの泉!全部のいきものがそこから生まれて、また帰ってくの!」

 聞けば笑いながら色々と教えてはくれるが、嘘か本当か見当がつかないのが困ったものだ。

 そういえば、ここに来たときに言ったことも、始めは訳がわからなかった。

 なぜこんな嘘をつくのだろうと首を傾げたくらいだ。

『ぼくは天使に、ぼくのツノをあげたんです。天使はいたずらをしすぎて、怒った神様に輪っかを取られちゃったから。天使がつけてる輪っかはだいじなもので、それがないと天使の証明ができないんです。ぼくは、ぼくの悪魔のツノをその天使につけました。かわいそうだったから……そしたら、その天使はほんとうの悪魔になっちゃったんです。ぼくたちは御使みつかいの悪魔なのに……。』


 一旦休憩しようと庭に出たときだった。

「ああっ!神父様!やっと見つけました。もうせっかく野菜を持ってきたのに、帰っちゃうとこでしたよ!」

 いつもジャガイモやトウモロコシを持ってきてくれるドリーおばあさんが、太い体を揺すりながら近寄ってきた。

「こんにちわドリーさん。今日はお渡しできるものがなくて……。」

「いいのいいの!一昨日卵を3つも頂いたんだもの!今日は豆をもってきたの、スープにでもしてちょうだい。」

 そう言って小さな麻袋にぎっしり入った、緑の豆をくれた。

「あれま!この子どうしたんです?随分と可愛らしい。」

 横に立っている少年に今気づいたようだった。

「どうやら孤児のようなので、1週間前から一緒に教会の仕事を手伝ってもらっています。」

「へぇ。そうなの……。東の方では芋が取れなくなるし、それで流れてきたのかしら。でもそれにしては綺麗な金の髪をしているし、ねぇどこに住んでたの?」

 少年は人見知りなのか、わたしの後ろに隠れてしまった。

 おい5000歳。

「どうもすみません。まだ落ち着かないようで……。また改めてご挨拶させてもらうので。豆ありがとうございました。」

「いいのよぉ。また明後日来るから、まきでも用意しててくれるとありがたいわ。」

 それじゃあ、と主に少年の方に手を振りながら丘を下りていった。

「さて、少年。今日は何をしようか。」

 懺悔室ざんげしつの扉を開けるまで、あと2時間ほどある。

 この時間を使って、周りの道や土地の歴史を教えるのが最近の日課だ。

「じゃあ、この間行った湖で魚とりたい!他にもいろんな魚がいるんだよねっ!」

「湖か……。帰ってこれるかな。」

 行くだけでも結構時間を使ってしまう。魚を釣る時間はあまりないだろうが、仕方ない。

 教会は大きいとはいえ田舎町では懺悔室に来る人は滅多にいない。

 最悪、今日は開けなくてもいいだろう。

 そう決めつけた時だった。

 いきなり強い風が吹き、耳元を風が横切っていく。

 なんとか目を開けて少年を見ると、青い目がユラユラと妖しく揺らめいて……。

(なんだ!?何を––?)

 ゴゥッ!!と風が鳴ったかと思うと、私たちは湖のほとりに立っていた。

「なんだ……これは……。」

 少年がやったのか……?

「ヨハン!早く魚捕まえようよ!」

 無邪気な少年の顔を見ると何を言うにも気が引けてしまうあたり、やはりこいつは悪魔なんだと思う。

「このままじゃ服が濡れるだろ。ちょっと待ってろ。」

 いつかこの少年は帰って帰ってしまうのだろうか、帰るとしたらどこに行くのだろうか。

 そこに、私もいつか帰るのだろうか––。

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