ナイフを突き出した

 昨日とは別の路地裏。やはり人気の無い場所――この角の向こうに、奴が居る。そう、気配で分かった。


 昨日の悍ましい光景が蘇ってきて、吐き気を催す。なんとか堪え、呼吸を整える。


 この角を曲がったら、また昨日のような光景を目にするかもしれない。覚悟して覗こう。そっとだ。ばれないように。ちらっと覗いて、あいつが居ることを確認したら、すぐに走って逃げるのだ。大丈夫だ。昨日は追ってこなかった。


 ――よし。


 僕は覚悟を決め、ゆっくりと角から顔を出した。


 ――そこにはやはり、いた。不完全な形をした人間らしき何かが。人間になり切れていない、人間以外の何かが。歪な形。不自然な手足。覚悟をしていた分、昨日よりはましだったが、やはり吐き気が込み上げる。


 しかし――気のせいだろうか。昨日見た奴と微妙に違う気がする。はっきり覚えているわけではないが……いや、今にも崩れてしまいそうなほど不完全な形状の生物なのだ。昨日と形が変わっていてもおかしくは無いし、たとえ同じだとしても、見るたびに違って見えるかもしれない……そう、思おう。この生物の個体が複数いるなんて、他にも仲間がいるなんて、考えたくもない。


 今日は人間の下半身を持っていないようだ。あのような惨状を見ずに済んだ。


 化け物は、バランスの悪い両足を数センチづつ前にずらしながら、ゆっくりと歩いている。非常に遅い。あれ以上速く動けないのかもしれない。だとしたら、たとえ見つかっても、走って逃げればまず追いつかれることはないだろう。


 だからといって、わざわざ見つかる必要もない。もう用は済んだのだ。僕の感じる気配の正体は、間違いなくこいつである。それが分かった今、僕の安全は保証されたようなものだろう。僕はもう。こいつに二度と出会うことなく生活が出来る。僕がこいつをどうにかする必要はない。気配がわかるからと言って、そんな責任は無い。あとは警察にでも任せればいいのだ。日本の警察は優秀だ。これ以上被害が出る前に、きっと何とかしてくれるだろう。僕は僕自身の身を守るだけで精一杯なのだ。他の被害者のことまで考えていられない。


 ――そう、自分に言い聞かし、その場を離れようとした時、衝撃の光景が視界の端に写った。


 化け物が向かう先、そいつからほんの数メートルの距離に――清水さんと、ツバサくんがいた。


 昨日、あの光景を見た時よりも強い吐き気が込み上げる。この世で一番見たくないものを見てしまった感覚。二人が何をしているかなんて、言葉にするまでもないだろう。言葉になんてしたくもない。付き合っている関係の男女が、二人きりで人気の無い路地裏にいるのだ。やることなんて決まっている。


 しかし、今僕が見ている状況では、少なくとも二人きりでは無い。二人の数メートル前に、とてつもなく悍ましい姿の化け物がいるのだ。それなのに、二人はそれに気づいた様子がない。


 このままだとおそらく――食べられる。


 昨日見た惨状が、また再現されてしまう。はやく逃げなければいけないだろう。あいつは二人に向かって歩いているのだ。獲物として捉えているに違いない。


 早く逃げろよ二人共! 気づけツバサくん! 自分の身は自分で守らなければいけないけれど、清水さんの身を守るのはお前だろう! それぐらいの責任は持てよ!!


 ――と、心の中で叫んでみたものの、一向に二人は気づく気配が無く、目を背けたくなるような行為を続けている。 じわじわと、化け物との距離が縮まる。


 ……おかしい。これはさすがにおかしい。もうあいつのと距離は3メートルほどしか無い。いくら行為に夢中になっているからといって、視界に入っていないはずが無い。


 ――これはやっぱり……あれなのか、あれしかないのか。本当に、ひょっとしたことが、ひょっとしてしまったのか……いや、そうなのだろう。認めるしかないだろう。分かったよ、認めてやるよ。つまり、こういうことなんだろ。


 ――清水さんを守れるのは、僕だけなのだ。


 僕は内ポケットから素早くナイフを引き抜くと同時に、角から飛び出した。清水さんとツバサくんが驚いた顔でこちらを見る。化け物も、未完成な顔をこちらにゆっくりと向けた。こちらは表情が読めない。しかし、あまりにも醜悪で、恐ろしい姿だった。


 それでも僕は、怯まない。


「うおおおおおおおおおおおおお!!!」


 叫びながらそいつに向かって走り、思いっきり振り上げたナイフを振り下ろす。奴の胴体に亀裂が入る。血しぶきが舞って顔にかかる。


 ――構いやしない。


 奴の動きは遅い。僕は立て続けにナイフを振り回して、奴の体に傷を付ける。しかし、致命傷にはならない。そいつはゆっくりとこちらに体を向けた。無防備な体を――。


 僕はナイフを引き、奴の左胸、心臓の位置目掛けて、まっすぐナイフを突き出した。


 ドスっと、鈍い音。肉と骨を貫く嫌な感触。


 ナイフを引き抜く。するとまた、すごい勢いで血しぶきを浴びてしまう。思わず顔をしかめた。


 そして奴は――ゆっくりと倒れた。身動き一つ、しなくなる。


「はぁ、はぁ……やったか……?」


 自然と復活フラグっぽいセリフが口からこぼれたが、奴が起き上がる気配は無かった。


 急に体から力が抜け、膝が落ちる。手から滑り落ちたナイフが高い音を立てる。


「お、お前……何やってんだよ」


 ツバサくんが戸惑いながらも、強い口調で話しかけてきた。いつの間にかズボンを履いている。


「もしかして、見てたんじゃねぇだろうな……」


 清水さんを見ると、顔を真っ赤にしていた。可愛い。


「俺達の事、付けてきてたのか……!?」


 ツバサくんは、僕が質問に答える前に、次々と質問をぶつけてくる。


 二人のこの態度を見る限り、僕の考えは当たっていると見ていいだろう。


 ――二人には、この化け物が見えていない。


 そして、僕が浴びている返り血も見えていない。目の前に気持ち悪い死体と、返り血を浴びている僕がいるのだ。その状況で、恥ずかしがったり、尾行を疑ったりするのは不自然だろう。


「いや、たまたまだよ。邪魔してごめんね」


 僕はふらつく足を無理やり動かして、その場を去った。二人は追ってこなかった。

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