タッタッタッ
氷丘
──タッタッタッ──
「なぁ。あいつの母ちゃん、●●で働いてるんだってよ!」
「うげぇー! まじかよ!!」
入学式が終わって一週間も経たないうちに、そんな噂が起こった。いかにも中学生らしい純粋な悪意は瞬く間に広まり、そこから少年=カイへのイジメが始まった。
カイは最初にその言葉を耳にしたとき、子供ながらに怒りで震えた。
「そんなわけない、ふざけるな」と。
しかし、この情報化社会の中において、裏どりはいともたやすい。
一人のませた小学生が探偵気取りでカイの母親が新宿で働いていることを突き止め、写真まで撮ってきたのだ。そして、探偵気取りの生徒は遊び半分でそれを学校中に広めてしまった。
瞬く間に生徒達に広まったその情報は、当然のごとく保護者まで伝播した。
生徒の親達は口々に言った。
「あぁ、やっぱりそうなのね。おかしいと思ったのよ、あそこのお家」と。
カイは成績優秀な子供だった。家庭が裕福ではなかったが、学区でも指折りの私立中学校に入学したのだ。授業料の半額免除を勝ち取り、残り半分は無利子の奨学金を申請することで賄う予定になっている。
しかし、そのような私立中学の親は皆、裕福だ。
どこからともなくわいたその情報は、貴族気取りの保護者とその子供達の恰好の標的となり、カイを入学一週間でスクールカーストの最下層に追い込んだ。
カイは一週間、その状況に耐えた。一人で必死に耐えた。当然、母親にそのことは告げなかった。
「そんなわけない。根も葉もない噂だ」カイはそう信じている。
「お母さんは工場で働いている」カイはそう聞かされていたからだ。
「母親は、未だに自動化が難しい人でないとできない工程で頑張って働いている。前に表彰もされたと言っていた。だからそんなところで働いているわけはない」カイはそれを何度も唱えながら耐えた。
日に日にカイに対する周囲の生徒達の行動はエスカレートしていった。
最初は、陰口、無視から始まった。そして定型パターンの内履き隠し、画鋲、机へのバカ・クソなどという落書き、イスの上に汚物の嫌がらせ。
雨の日にイスが中庭に放置されていることもあった。更に、髪を鷲掴みにして引っ張る、トイレでプロレスの実験体にさせられる、アルコールランプで髪を燃やされる、理科実験用の塩酸を足の指にかけられる、瞼を無理やり開かせられてレーザーポインターを照射させられる。
トイレの流し台にいっぱいに溜めた水に頭を無理やり突っ込まされ、息止めの練習。ロープでの首つりの練習、屋上からの飛び降りの練習、……カイが受けたイジメ──を超えたもはや〝犯罪行為〟は、あげればキリがない。
カイは見る見るうちに衰弱していった。顔はニキビだらけ、頬はこけ、頭はボサボサ、服に隠れて周囲からは分からないが、体もアザだらけ。ひどい体臭も漂わせている。
生徒を守るべき立場にある教師はというと、カイに与えたのは、〝無言〟と〝蔑視〟の表情のみだった。
教師のその態度は、悪いことに生徒達にある種の〝お墨付き〟を与えてしまった。そう〝あいつはイジメてもいいんだ〟というカイにとって最悪のお墨付きを。
カイのこのような変化は、ますます年頃の純粋な悪意を刺激した。
日頃生徒が抱える受験へのプレッシャー、親からのプレッシャー、教師からのプレッシャー、将来に対する漠然とした不安、イライラ、それら全てのはけ口にカイはなってしまった。
入学してから一か月、ついにカイは一人では耐えられなくなった。
──母親に相談することにしたのだ。
カイの母親は特別優しいわけではない、それどころか、客観的に見てカイに関心を持っていないと言ってもいい。
朝は決まって前日の夜に買っておいた賞味期限間近のコンビニのおにぎり、オレンジジュース。夜はテーブルの上に千円の紙一枚だけ置いてある。それすらも日によってはないこともあった。
そんな母親でも、カイがテストで一○○点をとって見せると、少し笑顔を見せて決まってこう言う。
「私の子供なのに、すごい」と。
カイはそれが堪らなく嬉しかった。
「もっとお母さんを喜ばせたい」カイは母親の僅かの笑顔を見るのがこの上なく幸せだったのだ。
一か月の壮絶なイジメの中でも、カイは必死に勉強した。
「絶対一○○点とって、お母さんを喜ばせる」それだけを糧に、希望に、目標に、カイは必死に勉強した。
──そして、三科目全てでカイは一○○点をとった。
周囲はどよめいた。「なぜあいつが?」と。
当然のごとく、学年一位のカイを認める気配は全くない。むしろ逆に、「生意気だ!」と更に生徒達の反感を買う結果をもたらすことになった。
だが、カイにはそんなことは、もはやどうでもよかった。
カイはただ、その結果を早く早く母親に見せたかった。見せて笑顔を見たかった。そして、見せたうえでイジメについて少しでも慰めてほしかった。話を聞いてほしかった。
終業のチャイムが鳴ると、カイはとにかく家に急いだ。走れば、母親はギリギリ出勤前で家にいるからだ。
辺りは夕暮れで赤く染まっている。
「大丈夫間に合う」カイは激しく息を切らして家に駆けこんだ。そして、素早くカバンからテスト用紙を三枚取り出して「どうだ」と見せんばかりに高く高く掲げた。カイは玄関で大声で言う。
「お母さん! 僕またテストで一○○点とったよ!」
……しかし、シンとして反応はない。
カイはげんなりした。
「ああ、間に合わなかったんだ」と。あんなに急いだのに、お母さんはもう出勤してしまったのだと。
カイはいつものようにリビングに向かった。
いつもように千円札が置いてあるはずだ。それを持ってコンビニに行こうと。またいつもように、パスタとオレンジジュースでも買おうと。
しかし、今日のリビングには千円札はなかった。
「あれ、お母さんまた今日忘れたのかな? どうしよう、夕飯……」シンはそうつぶやいて困った顔を浮かべた。
カイは視界に浮かぶ画面の【残金:¥1240】という文字を確認すると、再び玄関に向かった。
そのとき、カイは物音に気付いた。
ほんの微かの物音だった。〝タッ〟という。
音はリビング横にある部屋から聞こえた。母親の化粧台と雑多に物が置いてあるだけの六畳もない部屋だ。
カイは「あぁ、まだいたんだ」と途端に笑みをこぼした。そして、勢いよくドアを開けて叫ぶ。
「お母さん! 僕また一○○点とったよ!」
──瞬時に、カイの喜々とした笑顔は、得体の知れない何かによって内側から破れんとばかりに膨らみ、カイの顔の皮膚はゾッゾッゾッとあちこち波打ちながら絶望に歪んだ。
カイの瞳は、ただ、ロープの上のうっ血して膨れた母親を映した。
血とも糞尿とも分からない液体が〝タッタッタッ〟と音を立てて滴り落ちている。
カイは、しばらくの間、そのまま膨れた母の顔を眺めた。
* * *
数時間後、カイはゆっくりと立ち上がり、自身を残して身勝手な死を遂げた母に侮蔑の表情を向ける。そして、顔を歪めて一言つぶやいた。
「ふ、ひゃ、ひっ、へ、へ、なんなんだよ、お前……」──次の瞬間、カイは狂ったように叫び出す。
「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねアヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャ」
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