25

 洞窟の入り口に張られている『KEEP OUT』の黄色いテープを潜り抜け、わたしたちは洞窟内に入った。普段なら観光で小学生でも入れるような洞窟だ。危険な箇所なんて殆どなく、あったとしても『頭上注意』などという看板がついていた。が、しかし、今は異様な雰囲気が漂っている。

 懐中電灯で照らしながら進むが、奥に行けば行くほど、濃い草の臭いと生ぬるい空気に辺りが包まれているのがわかる。暫く歩いたところで、わたしは何かを踏んだのに気付いた。「ちょっと」そう言って懐中電灯で照らしてもうらうと、それが靴だということがわかった。男性用の革靴だ。サイズは27センチ。


「あ……」


 地面にわたしの膝が付いた。心臓が恐ろしい速さで鼓動し、全身から汗が噴き出す。嫌だ、認めたくない、もうこれ以上わたしにどうしろと言うのだ。震える手が、靴を抱える。

 根拠、理由、勘違いである可能性? そんなものはどうだっていい。わたしの勘が、何よりも強く叫んでいる。この靴は兄のものなのだと。この先にいるのは、わたしと同じ血を持つ人なのだと。粘液の擦れる水音、地響きのような唸り声。懐中電灯に照らされる生き物。


 洞窟の天井まで届くほどの、巨大なシャン・プランツ。光に反応して蠢く蔓。ハイドと同じような姿だけれど、そうじゃない。生理的な嫌悪。荒い息を吐く口から涎が垂れる。


 あ、と思う暇もなかった。


 すさまじい速さで伸びてきた蔓が、迷うことなくわたしの首に絡みついた。


「ぐっ、がああっ!」


 地面に擦れる背中に、蔓に揺さぶられる頭。咄嗟に蔓を掴むと、ぶちぶちと嫌な音を立ててそれは引きちぎれた。リゼが走ってわたしのところまで来る。


「ソウエン!」


 ちかちかする視界。バチッ、と電気の爆ぜる音がした。シャン・プランツがもがき苦しむように蠢き、わたしの視界がまともに戻るころには、おとなしく沈黙していた。

 首に絡む蔓がするりと勝手にほどけて地面に落ちる。わたしの手にはべっとりと粘液がついていた。


 下がれ! というアレクサンダーさんの指示が飛ぶ。わたしはリゼに捉まり、足を引きずりながら移動した。手の平を擦りむいていたけれど、首に痛みはない。リゼが真っ青な顔でわたしの首元を懐中電灯で照らす。しゃべろうとすると咳が出た。酷いガラガラ声だ。


「ッ、ケホッ……大丈夫、蔓が刺さったりは、していないわ」


 わたしの言葉に、リゼは深いため息をついた。おろおろとわたしの周りをうろついていたケインも、涙目になりながら「よかった」と呟く。アレクサンダーさんが、申し訳ない、とわたしに謝罪する。「危険な植物であることはわかっていたのに、警戒が足りなかった」わたしは首を振る。「わたしが油断しただけです」他の人が襲われなくてよかった、とまでは言わなかった。本心だけど、嫌味にしか聞こえないだろうから。

 真っ先に自分が襲われた理由を、わたしはなんとなく理解できているつもりだ。腕にはめたままの時計を見る。


「篠田さん、あなた、とっくにわかってたんじゃないですか」


 わたしの問いかけに答えるべき人は、じっと洞窟の奥を見つめていた。沈黙が降りる。どういうことだい、とケインが小声でわたしに聞く。「ハイドの研究をするために、篠田さんは来たのよね」けれども特設チームは最初から作られる予定だった。


「篠田さんから、研究所に依頼が来たのはいつ?」


 アレクサンダーさんが答える。「ハイドの事件があってすぐだな」じゃあ、DNA検査の結果が出たのは? 続けて言った私の言葉に、何かに気付いたように、リゼが言う。「事件のずっと前ね。……報告してすぐには、篠田くんから返事はこなかったわ」だったらどうして、今更になってハイドのことを研究したいだなんて言ってきたの。

 住宅地で発生したシャン・プランツがハイドだなんてことは、上層部もさすがにすぐには外部に漏らさないはず。ニュースで得られる情報は、シャン・プランツの発生とそれから傷害事件のこと。犯人の名前と顔写真は全国に公開された。行方不明になったことも。


 十分と、数秒のロス。


「そうだな、ユーヒェン」


 答えは短かった。篠田さんはスタンガンを手に、洞窟の奥へと走って行った。アレクサンダーさんが慌てて懐中電灯の光でそれを追う。青い光が激しい音を立てて暗闇に弾ける。


 ギャアアアアア――と、わたしの耳がおかしくなっていないのなら、確かに叫び声がする。ケインがわたしに引っ付いて震えながら、「シャン・プランツって鳴くのかい!?」と誰に聞くでもなく叫ぶ。「鳴かないわよ馬鹿!」という怒声に近いリゼの答え。

 そうだ、シャン・プランツになっていたときのハイドだって、ずっと無言だった。意志疎通は蔓の動きで判断するしかなくて。「……待って、ブツクサはどこ?」見渡すけれど、暗くてよく見えない。ケインがどこからか篠田さんの持っていた鞄を引きずってきた。開けると、実験道具のようなもの。それからノートが何冊かと手紙が数枚。「これ、わたしが篠田くんに出したやつだわ……」手紙を見たリゼが言う。

 ブツクサは説明書と一緒に鞄の奥にあった。スイッチを入れると青い光が伸びる。それをシャン・プランツの方へ向けた途端、そこからスタンガンが飛んできて地面に転がった。ブツクサの画面には、【通信中】の文字が浮かんでいる。


 アレクサンダーさんがわたしの手元を照らしていた懐中電灯を、そちらに向ける。


 無残にちぎれた蔓が、辺り一面に広がっていた。飛び散った粘液が、天井からぽたぽたと垂れている。「篠田くん……?」呆然とするリゼの声。倒れている人影は、ぼろぼろの白衣を着ている。

 わたしは鞄を漁り、予備の懐中電灯を照らした。篠田さんの横に、もう一つ横たわっているものがあった。わたしは立ち上がり、それに近づく。ふらつく体を、リゼが支えてくれた。顔を見合わせて頷く。

振り返ると、ケインとアレクサンダーさんも付いてきていた。もう洞窟の奥にシャン・プランツはいなかった。そこにいるのは篠田さんと、


「……哥哥にいさん


 泥だらけのスーツにところどころ血が滲んでいる、兄が、横たわっていた。青いというより真っ白な顔をしていて、口の周りには乾いた血がこびりついていた。指で触れると、頬は固い。腹からは、蔓が生えていた。緑色のそれは、びくびくと痙攣するように動いている。手で払うと簡単に蔓はちぎれて、けれどもすぐにまた腹から生えてくる。


「嘘……」


 わたしは兄の体を揺さぶる。反応はない。胸のあたりに耳を当てると、グチッ、という奇妙な音がした。それは蔓の出す粘液が擦れる水音とそっくりだった。手を首に当てる。脈動はない。唇から空気は漏れてこない。固く閉じられた目。なにが、おこっているの?


 物音がして横を見ると、篠田さんが起き上がるところだった。頭から血が垂れていて、片目が開いていない。篠田さんは「いいか、」と短く聞いて、兄の体に触れた。わたしははじかれるようにそこから離れる。篠田さんが兄の胸の上に両手を置いた。

 ぐっ、と強く兄の胸が押される。篠田さんが胸を強く押すたび、腹から出ている蔓が暴れる。リゼは見ていられないとでも言うように、視線を逸らした。瞬きすると、わたしの目から雫が落ちた。


「勝手にくたばるなと、前に言っただろう……。なあ、起きろよ! 起きろと言っている!」


 篠田さんの声は洞窟内に虚しく響いた。蔓が伸びて、篠田さんに絡む。篠田さんはそれを払いのけるでもなく、ひたすら兄の胸を押し続けた。肋骨の折れる嫌な音が鳴る。

 わたしは篠田さんの腕に触れた。篠田さんが呆然とわたしを見つめる。


「もう、やめて……」


 喉の奥から絞り出すようにわたしは言った。篠田さんはがっくりと肩を落とし、俯いた。

 放り出されたままのブツクサを拾い上げると、通信中だったはずの画面に文字が表示されていた。わたしは無言で篠田さんにブツクサの画面を見せる。


 篠田さんは長い溜息をつき、ブツクサのスイッチを切った。薄い横縞の残像のあと、フッ、と【愛】の文字が消えた。

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