23
研究室に戻ると、リゼが窓際で煙草を吸っていた。わたしが入ってきたことに気付くと、振り返って手を振る。他の人は誰もいなかった。仮眠中よ、と問うまでもなくリゼが言う。
「全員? アレクサンダーさんも?」
「あの人だってサイボーグじゃないわ」
「そりゃ、そうですけど」
灰皿に灰が落ちる。わたしはブツクサに充電器を指し、電源が入ったままのパソコンにつなげる。ケインのパソコンを勝手に使ったけれど、別に充電するくらい、いいだろう。煙草が蛇腹にひしゃげる。窓からは月の光が入ってきていて、リゼの淡い金髪が光る。わたしはハイドが人間体に戻ったことを話すつもりで口を開く。「あの、」「五時よ」リゼの言葉が被った。わたしは一旦口を閉じ、リゼの言った台詞を反復する。「五時?」リゼは頷く。
「朝の五時にここを出るわ。寝られる気がしないから、わたしはずっと起きてるつもり」
「……シャン・プランツのところへ、行くの」
「ええ。ソウエンは、どうする?」
「えっ」
「特設チーム全員で行くことが前提になってしまっているけれど、私はソウエンには行って欲しくないのよ。現場は軍が封鎖している。中に入る許可が下りているのはシャンウェイ博士のチームだけだから、私たちが中に入るには強行突破するしかない。危険なことになるのは必至だわ。アレクサンダーさんは軍を説得するって言っているけれど、まあ無理でしょうね。国の命令だもの。……私たちが敵に回しているのは、シャンウェイ博士ではない。もっと大きくて――恐ろしいもの。私は友達を、危ないことに巻き込みたくないわ」
「そしたらわたしは、友達が危険なところへ行くのに黙って見送ることしかできないの? そんなの……嫌よ。わたし馬鹿だから難しいことはわからないけれど、大切なものが何かくらい、わかってるつもり。リゼ、わたしを止めるなら、あなたたちも行かないで」
「……そうよね。あなたならそう言うって、わかってた」
それに、とわたしは続ける。窓からはあの山にぽつぽつと光る人工的な明かりが見えた。
「わたし、個人的な理由もあって、あの山に行かなくちゃいけないんです」
「お兄さんのこと? 確かに、シャン・プランツに襲われた可能性もあるけど……」
ああ、そうか。普通に考えたらそっちの可能性のほうが高いのか、と思う。けれども、何の理由もなくシャン・プランツが突然発生したということのほうが、わたしには不自然に思えた。ハイドから聞いた情報だけで疑念を事実を思い込むのはどうかと思うけれど、脳裏にちらつく赤と金がわたしの不安を煽り、疑念を否定する材料と冷静さを奪っていく。
「リゼ。わたし、ハイドから聞いたの。わたしが刺されたとき、ハイドはわたしを守ろうとして、シャン・プランツの蔓を伸ばして……兄を襲った。おぼろげに、わたしもそのときの光景を覚えているんです。そしてここからはわたしの想像なんだけれど……兄は、シャン・プランツの蔓を体に埋め込まれた状態で、山に逃げ込んだんじゃないかしら」
「……どういうこと」
「突然発生したシャン・プランツなんて、いないってことです」
わたしの言葉に、リゼが俯きながらブツクサを見る。ハイドが人間体に戻ったことは、もう言わないことにした。なんだかタイミングを失ってしまった気がするし、言ったところで事態をややこしくさせるだけだ。
わたしは研究室の壁に張られた新聞の記事を見る。南半球で大繁殖しているシャン・プランツ。そこに暮らしていた人々は、どうなったのだろう。報道されない現実が、何者かが隠蔽している事実が、そこにあるのは確実だろう。
「わかってます、根拠も証拠もないってこと。けれども胸騒ぎがするの」
「もしあなたの予想が当たっていたとして、……そしたら、どうするつもりなの」
「シャン・プランツに寄生された動物は、もう元には戻らないんですよね」
「……ええ。元に戻った例は、一つもないわ」
「どうするかなんて、わかりません。わたしはただ、兄にもう一度会いたいだけなのかも」
リゼの、痛々しいものを見る視線が突き刺さる。自分がどういう表情をしているのかはわからないけれど、まあきっと酷いものなのだろう。わたしの言ったことは本心だけれど、この思いばかりが全てではない。
重なってゆく不幸に、それでもとわたしは前を向く。そうしていないと折れてしまうから。自分が産まれた意味を、疑って泣いてしまうから。
「五時まで、ハイドのところにいます。リゼも少しは寝たほうがいいよ」
研究室を出る。地下三階フロアの鍵は一つしかない。わたしは内側から鍵をかけてしまう。緑の絨毯の上で眠っている可愛い息子の横、わたしはじっと朝が来るのを待った。
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