18
地下三階に行くと、昨日よりもさらにハイドの体は大きく成長しているようだった。今まで部屋の扉が閉じられていたぶん、成長が抑制されていたのかもしれない。
「そのうち地下三階全体が蔓に覆われそうだな」
アレクサンダーさんがそう言い、リゼが頷く。確かにこの成長速度だと、そうなってもおかしくないどころか、研究所全体がハイドに覆われてしまうのも時間の問題な気がする。
ハイドはわたしがやってきたのに気づくと、真っ直ぐに蔓をわたしのところまで伸ばしてきた。「おはよう、ハイド」そう言って撫でると、わたしの腕に何本も蔓を絡ませた。リゼのところにも同様に、蔓を伸ばしている。リゼが「なんだか昨日より粘液が少ないわね?」と呟く。確かに、言われてみれば少ない。手についた粘液も、擦るとすぐに乾いた。
ハイドの蔓は無数にあり、それぞれいろいろなところに伸ばせるようだった。一部の蔓はわたしやリゼに絡みついているが、奥を見ると、トイレの扉を開けて中に入っているのもある。アレクサンダーさんにそのことを言うと、「見てくる」と言ってトイレの中に入っていった。戻ってきて、「水を飲んでいるようだ」と言う。
篠田さんはハイドの様子やわたしたちの行動を見ながら、ノートにメモを取っているようだった。そして一通り書き終ると、肩にかけていた鞄から注射器やシャーレ―といった検査道具を取り出しはじめた。
「採取を開始するぞ。まずは蔓の中の細胞を取る」
そう言って篠田さんが注射器を構えた、その途端、わたしやリゼに絡んでいた蔓が一斉に部屋の奥へと戻っていった。篠田さんは小走りで蔓を追いかける。しかし注射器が近づくと、蔓は嫌がるように逃げる。アレクサンダーさんが、「痛覚があるのか?」と呟いた。
「シャン・プランツに自由意志があるのは判明していますが、痛覚はなかったはずです」
「しかしハイドは通常のシャン・プランツではない。痛覚がある可能性はあるな」
リゼとアレクサンダーさんは真面目にそんなことを話している。その横ではハイドが篠田さんの持つ注射器を奪おうとしていたり、篠田さんが床に溜まっている粘液を踏んで転んだりしている。誰一人としてふざけてなんていないのに、まるでコメディである。
わたしは奥の部屋の前まで進み、「ハイド」と呼びかけた。篠田さんから逃げていた蔓たちが一斉にわたしの元へとやってくる。「ふっ、ふふ」首筋を撫でられると、少しくすぐったい。
「注射器怖いの? そうね、ハイドは注射嫌いだもんね」
そう言うと、ハイドはわたしの額を蔓で撫でた。その通り、といったところだろうか。
「大丈夫よ。前に健康診断で採血してもらったとき、我慢できたじゃない。そのときのハイド、かっこよかったな」
そうハイドに語りかけながら、篠田さんに手招きする。注射器を持った篠田さんが近づくと、ハイドはますます蔓をわたしに絡みつかせてきた。力がこもっているようで、ちょっと苦しい。わたしは首に巻きついている蔓を、なだめるように優しく撫でる。篠田さんがわたしの手を取り、わたしの腕に絡みついている蔓に注射器を向ける。腕に蔓が食い込んで痛いが、注射器の針は無事、蔓に刺さった。緑色の液体が吸い上げられていく。
「二本分、取っておきたい。構わないか」
ハイドは抵抗するようにわたしの背後に蔓を隠したりしたが、結局きっちり二本分、体液は採取された。篠田さんが「蔓の一部をナイフで切り取ってもいいんだぞ」と言ったからかもしれない。針の刺さっていた部分は、体液を吸い取られたせいか少ししぼんでいた。
篠田さんは体液の入った注射器二本をアレクサンダーさんに渡し、「先に戻って成分を調べておいてくれ」と言った。アレクサンダーさんがコルネリウス研究員も一緒に連れて行っていいかと聞く。篠田さんはこくりと頷いた。リゼはアレクサンダーさんに言う。
「どうして私まで?」
「助手をしろ。あのロクデナシの代わりだ」
リゼは釈然としない顔をしつつも、アレクサンダーさんと一緒に地下三階から出ていった。そう言えば、昨日もアレクサンダーさんはリゼを研究室に残らせていたなあと思う。
「わかりやすいなあ……」
わたしがそう呟くと、ハイドがわたしの目の前で蔓の先を曲げた。頷いてるみたいだ。
「やっぱりハイドもそう思う? そうよね、リゼは全く気付いてないけど」
ハイドの蔓の動きから、わたしはハイドの言いたいことをある程度予測できた。もしかしたら行き違いやわたしの思い込みもあるだろうけれど、おおむね合ってると思いたい。篠田さんは鞄から体温計のようなものを取り出し、蔓に握らせている。わたしはハイドに痛覚があるのか否について考えていた。あの注射器の嫌がりようからすると、あってもおかしくはない。しかし、ハイドは元々注射嫌いだから、そのときの習慣というかクセで逃げただけであって、実際のところは、今はもう痛覚はない、という可能性もある。わたしはハイドに、「さっきの注射、痛かった?」と聞いてみた。ハイドは蔓の先を左右に振る。
「そっか、痛くはなかったのね」
そう言いつつも、わたしはハイドと言葉が交わせないのを不便に思った。ピピ、と体温計が鳴る。篠田さんに見せてもらうと、34度だった。以前のハイドよりも2度ほど低いことを篠田さんに言うと、篠田さんはノートを開き、『34度。人間体より2度程低下』と書き込んだ。わたしは『人間体』という言葉に、以前のハイドの姿を思い出す。体温計を箱に入れ、鞄に戻している篠田さんの背中に、わたしは以前から思っていたことを聞く。
「ハイドが以前の……人間の子供の姿に、戻ることはあるんでしょうか」
時計を見る。十分、待たなければいけない。わたしはハイドに、「人間の姿に戻りたい?」と聞いてみた。ハイドがどういう理由でシャン・プランツに変化したのかはわからない。わたしが兄に刺された、そのショックで変化したのではないかという仮説をリゼは立てているし、わたしもそうだと思っているけれど、本当はどうなのか。
ハイドはわたしの質問に、蔓をくねらせる。さっきのように蔓の先を曲げたり振ったりはしてくれなかった。難しい質問をしてしまったか、と思う。戻りたくても戻れないのだとしたら、さっきの質問はとても残酷なものになる。わたしはハイドに、「今の姿のままでも、わたしはハイドが好きよ」と言った。ハイドはわたしの体に何本も、何十本も蔓を絡ませる。
「可能性はある」篠田さんが話し始める。腕時計を見るとやっぱりちゃんと十分だった。
「動物がシャン・プランツに寄生された例はもう既に何十件もある。寄生されると自然的に元に戻るのは不可能であることも判明した。しかし、ハイドは寄生されたわけではない。シャン・プランツと人間とが交配して産まれた生物だ。前例が他にないから確定できることは何もないが、通常のシャン・プランツでないことは明らかだ。人間体に戻る可能性もあれば、このままシャン・プランツの形状のままである可能性もある」
「……なるほど」
「お前は、ハイドに人間体に戻って欲しいと思うのか?」
「え」
篠田さんが真っ直ぐにわたしの目を見る。返答に詰まるわたしに、篠田さんが言う。
「人間が最も幸福な生き物だとは限らない」
そうですか、と返すのがやっとだった。私の体に巻きつくハイドの蔓に、力がこもる。それを優しく撫でながら、わたしは篠田さんの言葉を何度も心の中で繰り返した。
わたしは、いや、人間は無意識に、人であることに驕っているのではないか。地球上でもっとも優れた生物だと思い込み、他の生物を見下しているのではないか。愚かなことだと思った。それぞれの生き物としての生き方に、優れているも劣っているもないのに。
それでも、とわたしは思う。生物としての大きな区分で考えるのではなく、個人の、つまりハイド個人の意志として考えたとき、幸せとはどこにあるのか。ハイドがどういう状態でいたいと思っているのか。
つい一カ月前まで、ハイドは人間として暮らしていた。そのときのハイドは、確かに幸せだったとわたしは断言できる。今はどうか。シャン・プランツに変化したことで地下三階に閉じ込められ、自由に話すこともできない。ハイドはこの状態に、どう思っているのだろう。せめて、ハイドの意志がもっと明確にわかれば。
篠田さんが蔓の生えている根本、茎の部分を観察している。わたしは廊下の壁にもたれながら、じゃれついてくる蔓を撫でたりつついたりして、ハイドと遊ぶ。暫くそうしていると、廊下の奥から誰かが階段を下りてくる音がした。ドアのほうを見ると、ぼさぼさの髪をしたケインが慌てた様子で地下三階フロアに入ってくるところだった。こちらに走ってきて、「アレクは?」とわたしに聞く。研究室だと答えると、「はー!」と息を吐いた。
「寝坊しちゃったんですか」
「ああ、そうさ。ちょっと昨日の夜中、人と電話していて……って、そう、そのことなんだよ! ビッグニュースさ。僕の友達のお兄さんの知り合いが、あの間部さんだったんだ!」
「……間部さんって」
「発明家だよ! すっごいビッグな人なんだ。その人が、この前、植物と話せる機械を発明したんだ。そして僕は、友達のお兄さんを通じて、その機械を借りられそうなんだよ!」
ケインの言葉に、篠田さんが驚いたように振り返る。そしてケインに「本当か?」と聞く。ケインは「もちろんさ!」と力強く言った。篠田さんは持っていたノートを放り出し、すごい形相で地下三階から走って出ていってしまった。残されたわたしとケインは、呆気にとられて奥のドアを見る。「どうしちゃったのかしら」「さあ……」ケインも困惑顔だ。
「とにかく、その機械があったらハイドくんとまたお喋りできるかもしれない」
「そうね。わたし、ちょうどハイドと話せたらって思ってたところなのよ」
「そりゃ、素晴らしいタイミングだったね!」
ケインが嬉しそうに笑う。わたしもつられて、笑顔になった。そのとき、激しい足音を立てながらアレクサンダーさんが地下三階にやってきた。こちらは凍りつくような笑顔だ。ぎゃああ、と叫び声をあげて逃げるケインに、アレクサンダーさんが怒鳴る。
「この役立たずが! 木端微塵にしてマウスの餌にでもなったほうが世のため人のためになるっ! シュレッダーに突っ込まれるか俺に丁寧に解剖されるか選べ!」
「わああ、ごめんなさい! もう二度と遅刻しない! 信じてくれよ、アレク!」
「解剖室へ来い。お前は明日を生きるマウスの血肉となるんだ」
「そんなの嫌だよ! ねえ、ソウエンさん、君も僕がマウスの餌になったら嫌だよね?」
「え? あ、はい、そうですね。それはちょっと嫌かもしれませんね?」
「だってさ!」
「バカをかばうことはない」
「あの、ケインさんもこの通り反省していますし、遅刻にもちゃんとした理由があるので、今回は許してあげても良いのではないでしょうか」
「……ふむ、そうだな。こいつの肉を食ったマウスが白目を剥いて死んでも困る」
「僕の肉は青酸カリか何かかい?」
ケインはしょんぼりとしながら、アレクサンダーさんに遅刻の理由を話す。友達のお兄さんの知り合いが、というくだりで眉間の皺が増えたものの、間部さん、という人については知っていたようで、「それは」と言うと、顎に指を当て、すごいな、と呟いた。
「こいつの言う間部さんが俺の知る間部さんなら、実にすばらしいんだが」
「アレクが想像する通りの間部さんだよ! その機械は『ブツクサ』って言うんだけどね!」
「ふざけたネーミングだな。しかし、間部さんらしい」
「ユーモアのある人なんだよ」
「変人の間違いだろう」
二人の会話を面白がるように、ハイドの蔓がぴょんぴょんと周りで跳ねている。そこに、篠田さんが地下三階フロアに戻ってきた。ケインの前で立ち止まり、彼の顔を見上げる。
「俺が以前頼んでも断られたのに、どういうことだ」
「へ?」
篠田さんは不機嫌そうに、「今日の夕方に『ブツクサ』が届らしい」と言った。階段のほうからわずかに聞こえてきたチャイムの音に、わたしは腕時計を見る。お昼休みの時間だった。
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