17

 次の日。始業時間十分前に研究室に行くと、篠田さんが窓際の席で煙草を吸っていた。「ここ、禁煙ですよ」と声を掛けるが、反応はない。聞こえなかったのだろうか、と思いつつ、もう一度同じことを注意するのも面倒だった。それにアレクサンダーさんの研究室が禁煙になっているだけで、研究所自体は禁煙ではない。ここが特設チームの研究室になった以上は、別に煙草を吸ったところで何の問題もないのかもしれない。アレクサンダーさんは嫌な顔をするだろうけれど。

 わたしは自分にあてがわれた机の上に鞄を置き、椅子にかけていた白衣を羽織る。どうして他に誰もいないのだろうと思ったが、仮眠室のドアを見ると『仮眠中』と書かれていた。アレクサンダーさんか町子か、もしくは両方か。ケインとリゼは昨日わたしと一緒に晩御飯を食べたあとそれぞれ帰路についたから、仮眠室にはいないはずだ。まさかわざわざあのあと研究所まで戻ってきたりもしないだろうし。

 と、そんな取り留めのないことを考えていると、窓際にいた篠田さんが立ち上がり、吸い殻を入口付近にあるゴミバコに捨てにきた。「禁煙だったか、すまない」そう彼が呟いたのを聞いた、直後に始業のチャイムが鳴る。わたしは慌てて時計を見た。わたしが声をかけてからちょうど十分。そうだ、返答にそれだけかかると昨日聞いていたじゃないか。「へえ……」篠田さんのことを疑っていたわけではないが、本当なんだと思うと少し面白かった。


 研究室のドアが開く。入ってきたのはリゼだった。どうしたの遅いね、と声をかけると、リゼは苛立った様子で「町子がチームから抜けたいんですって」と言った。


「さっきまで残るように説得してたんだけどね。無理だったわ」

「……そう」


 昨日に休憩室で起こったことを話そうかどうか迷っていると、今度は仮眠室のドアが開き、アレクサンダーさんが出てきた。リゼはアレクサンダーさんに町子の件を話す。アレクサンダーさんは眉間の皺をいっそう深くして、「わかった」と低い声で言った。


「貴方の方からも、町子を説得してもらえませんか」

「その必要はない。やる気のないやつは、チームにいらん」

「……わかりました」


 アレクサンダーさんは研究室内にいる人員を見て、「あのバカはどこに行った」と言う。


「まだ来てません。私の携帯電話に『寝坊した』というメールが」

「頭が悪いにもほどがあるな」


 わたしは鞄から自分の携帯電話を取り出す。わたしのところにも、ケインからメールが来ていた。『寝坊しちゃった! アレクにクビにされちゃう!』泣き顔の絵文字つきだ。


「あの、わたしが昨日の夜、遅くまで連れ回したせいなので……」

「阿呆をかばうことはない」

「いや、そんな……」


 アレクサンダーさんは深いため息をつき、「もういい。木偶の坊は放っておいて、さっさと仕事を開始するぞ!」と半ば怒鳴るように言った。その言葉に、窓際の席でぼんやりと外を見ていた篠田さんがノートを片手にこちらにやってくる。ノートを受け取ったアレクサンダーさんは、中身を見て「ほう」と簡単の声をあげた。「興味深い結果が出たな」その言葉に、リゼが「どういったものが?」と聞く。


「昨日に篠田くんがハイドの粘液採取をしただろう。それを調べたところ、通常のシャン・プランツとは異なる成分が発見されたということだ。成分の内容が、これだ」


 アレクサンダーさんがノートを机の上に広げる。しかし専門用語のようなものが多すぎて、わたしにはよく理解できない。一方、リゼは「なるほど、面白いわね」と呟く。


「リゼ、どういうことが書いてあるの?」

「ハイドの粘液にね、まるで人間の血液のような成分が含まれていたのよ。ほら、ヘモグロビンは聞いたことあるでしょう。赤血球に含まれるたんぱく質のことよ。通常の人間の血液に比べたら量は僅かだけれど、少なくとも植物には含まれない成分だわ」

「シャン・プランツにも?」

「ええ。シャン・プランツは特異だけど、体を構成している物質は普通の植物と変わらないもの」

「これはもっと深く調べていく必要があるな」


 アレクサンダーさんがそう言って篠田さんを見る。篠田さんは頷き、わたしたちに言う。


「他の部位から採取した細胞も調べる。早速だが、準備をして地下三階に行くぞ」


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