15

 白衣を着る。特設チームの研究室は、アレクサンダーさんの研究室が使われることになった。メンバーは、アレクサンダーさん、ケインさん、リゼ、町子、わたし。それから、篠田さんだ。研究所に到着した篠田さんは、わたしの記憶の中の印象と変わっていなかった。

 そして、改めて顔を見ると、確かにハイドに似ている。そばかすまで、そっくりだ。篠田さんは研究室に集まったわたしたちを見て、一つ、深々とお辞儀をした。


「俺の研究の目的は、あの生き物。ハイドの、解明だ。生物としてどのような構造になっているかを調べさせてもらう。人権があると聞いた。乱暴なことはしない。そしてこれは俺個人の特異体質なんだが、質問されると返事にきっかり十分かかる。お互いのために、理解と余裕を持ってコニュニケーションを取るべきだと思う。では、よろしく頼む」


 篠田さんの特異体質については研究者の中では有名なことらしく、わたしも、リゼから事前に事情を聞いていた。リゼは篠田さんが自分で自分の体質を説明するとは思わなかったらしく、「篠田くん……変わったわね……」とわたしの横でぽつりとこぼした。


 篠田さんを先頭に、地下三階への階段を下りてゆく。緊張した空気が漂っていた。三階フロアの扉の前に立ち、篠田さんが「鍵を」と言ってアレクサンダーさんに手の平を差し出す。アレクサンダーさんは無言で白衣のポケットから鍵を二つ取り出し、篠田さんに渡した。篠田さんは無言で、一つの鍵穴に鍵を挿し込む。

 ガチャリ、重たい音が鳴る。鉄製の扉がガタガタと揺れながら、ゆっくりと開かれた。生ぬるい空気。そして、濃い草のにおい。篠田さんは何の躊躇いもなく、地下三階フロアに足を踏み入れる。わたしたちは廊下の奥にある扉をじっと見つめながら、歩を進ませた。地下三階は蒸し暑く、壁を見ると雫がついているくらい、湿度が高かった。草のにおいはどんどんと強くなっていく。

 二重構造となっている、その一枚目のドア。篠田さんは先ほどとは違うほうの鍵を穴に挿し込み、開錠する。しかし、篠田さんがドアノブをひねって力を入れても、ドアはびくりとも動かなかった。篠田さんの眉間に皺が寄る。リゼが「見て」とドアと壁の隙間を指差した。

 そこには、緑色をした何かがみっちりと隙間を埋めているのがあった。篠田さんはそれを見て、隙間に指を這わせる。篠田さんのはめていた白い手袋に緑色の液体がついた。


「シャン・プランツ特有の体液の色だ。中で増殖している可能性が高い」


 篠田さんは振り返り、わたしたちを見回して言った。


「アレクサンダー、お前なら力ずくでドアを開けられるんじゃないか」

「ああ、わかった」


 アレクサンダーさんはドアノブを握り、力いっぱい引いた。ギギギ、ときしむ音。ドアの隙間から緑色の液体が溢れ出て、ぼたぼたと垂れて床をこぼした。わたしはごくりと唾をのむ。この室温のせいだけではない、汗が米神を流れる。手が勝手に握り拳を作る。ドアは一定の隙間ができると、一気に開いた。ガタン、と勢いあまったドアが外れる音。


「あ、ああ……」


 漏れたうめき声が、誰のものかはわからなかった。もしかしたらわたしかもしれないし、隣のリゼかもしれない。そのくらい、誰もが口を開いて絶句していた。呆然としていないのは、アレクサンダーさんと篠田さんだけだ。アレクサンダーさんは以前からハイドの様子を見に来ていたから、まだダメージは少ないのだろう。それでも、困惑したように言う。


「私が最後にここを訪れたのは、ほんの二日前だ。まさか、ドアが開かなくなるほど……」


 信じられん。そう呟いて、アレクサンダーさんは口を押えた。わたしは意識的に逸らしていた視線を、再びドアの向こうへと向ける。


 ――――蔓が、満ちていた。自動ドアなんてもう殆ど破壊されてしまっていて、部屋の奥まで見渡すことができる。部屋の中は、全て蔓に支配されていた。新聞やテレビで見たシャン・プランツなんて較べものにならないほど、壮絶なリアルを持って蔓は蠢き、縦横無尽に動き回っている。「ヒッ」という誰かの短い悲鳴に、床を見ると、靴の底が粘液に濡れていた。蔓からは薄くて透明な緑色の液体が、どろどろ、ぬるぬる、出続けている。わたしは口を手で覆い、壁にもたれかかった。ケインと町子も反対側の壁、同じような状態だ。リゼは目を見開いて、立ち尽くしている。

 篠田さんは口の端を変な風に歪ませながら、蔓の中へと足を踏み入れた。すると蔓は、一斉に束になって篠田さんに向かってきた。アレクサンダーさんが「危ない!」と言って篠田さんの腕を掴むが、篠田さんは冷めた目でアレクサンダーさんの手を振り払った。蔓が篠田さんの体を覆う。

 篠田さんはその蔓を、宥めるように優しく撫でた。いつの間にか篠田さんの手袋は取り払われていて、彼の白衣のポケットに無造作に突っ込まれている。蔓はやがて篠田さんから離れて、部屋の奥へと引っ込んでいった。部屋の奥に勉強机やらクッションやらがあるのを見て、ああ、ここはハイドの部屋だったのだと思う。

 そしてこの蔓は……シャン・プランツと成り果ててしまった、ハイドなのだ。わたしは震える足を叱咤し、歩き出した。「ソウエン」とリゼが咎めるようにわたしの名を呼んだので、わたしは振り返って彼女に微笑みかける。「大丈夫、平気よ」わたしの心は、とっくに凪いでいた。


「ハイド」


 そう呼びかけながら、わたしは部屋の中へ入る。蔓がするすると伸びてきて、わたしの頬や首や手足を撫でた。皮膚の上を液体が滑って行く。ぬるついていて、生温かい。わたしは目を閉じ、そっとわたしの手に絡む蔓に頬ずりした。ぽろぽろ、ぽろぽろ、涙があふれてきて止まらない。蔓はそんなわたしの頬を何度も撫でる。涙を拭っているのかしら。


「優しいね、ハイド」


 目を開くと、蔓はわたしの体全てを抱きしめるように覆っていた。息苦しさは全くない。

わたしはドアの前にいるリゼに手招きをした。戸惑いながらもリゼは部屋の中に入り、そっと蔓に手を伸ばした。それに答えるように、一本の蔓が伸びてきて、リゼの手に絡む。


「ハイドなの? わかっているの?」


 リゼがそう言うと、蔓はリゼの手首にするすると絡まった。「わかるのね」とリゼが感動したように言う。リゼの横顔にはもう、恐怖や戸惑いといった感情はなかった。

 篠田さんが、「これはすごいな」と呟いた。アレクサンダーさんが頷く。「こっちに」と言うと、二人は部屋に入ってきた。ハイドは迎えるように、二人の手足に蔓を絡ませる。


「ハイド、ちょっとね、あなたの身体を調べさせて欲しいんだって。怖いことは何もないから、大丈夫よ」


 わたしは優しく語りかけるように、ハイドにそう言った。ハイドは興味深そうに篠田さんの体に蔓を幾本も絡ませる。篠田さんは白衣から透明な丸い小さな皿を取り出し、ハイドの蔓の前に出した。粘度の高い液体が、皿の中に落ちる。篠田さんは皿に蓋をして、再び皿をポケットに入れた。そして、まばたきを繰り返しながら、言う。


「まさかこれほどまでに意志の疎通が図れるものとは思わなかった。こんなことならもう少しそれなりの検査道具を持ってくるべきだったな。しかし、これだけでも今日の成果としては上々だ。ソウエン、協力を感謝する。お前のおかげで円滑に研究ができそうだ」

「えっ、あ……どうも……」


 篠田さんはさっと部屋から出ると、真っ直ぐ廊下を歩いて行った。アレクサンダーさんがそれを慌てて追う。「鍵!」そうアレクサンダーさんが叫ぶと、篠田さんは廊下の奥からアレクサンダーさんに鍵を投げてよこした。「まったくあいつは」と珍しくアレクサンダーさんがぼやく。そして、壁ももたれかかったまま放心しているケインの肩を強く叩いた。


「起きんか、この役立たず」

「へっ、あ、いや、眠ってなんかいないさ!」


 放心状態から戻ってきたケインは、ハイドの蔓に絡まれているわたしを見て、「うわお」と声をあげた。わたしはこっちに来る? と言ってみたが、ケインはゆるやかに首を振る。「すまない、その……ハイドくんだってことはわかってるんだけど、あまりにも姿が変わってしまっているものだから、戸惑ってしまって。失礼なことだね、ほんとにすまない」申し訳なさそうにそう言われると、わたしも怒れない。ハイドのこの状態に戸惑う気持ちは、当たり前のものだと思った。わたしだって最初はショックを受けたのだから。


 アレクサンダーさんが床に放置されたままのドアをチェックしている。しかしどうやら元通りにはならなさそうだと思ったのか、「困った」と額に手をやる。リゼが笑いながら、「もういらないんじゃないですか?」と言った。「そうだな」というため息交じりの同意。

 部屋を出て、研究室へと戻ろうとしたところで、わたしは町子がいないことに気がついた。どこにいったのかと残りのメンバーで探すと、部屋の端に倒れ、気を失っていた。彼女にはショックが大きすぎたようだ。

 アレクサンダーさんが町子を背負い、「先に戻る」と言ってリゼに鍵を渡した。残されたわたしたち三人は、最後に挨拶しておこうとハイドの部屋まで戻る。ハイドは遠慮しているのか、ケインには蔓を伸ばさなかった。その様子を見て、ケインが決意したように腕を広げる。


「僕はもう怖気ついたりしない! ハイドくん、おいで!」


 するとハイドは一遍に蔓を伸ばし、ケインの腹に絡みついた。ケインが「おおう!」と叫ぶものだから、わたしとリゼは声を出して笑ってしまった。

 リゼが時計を見て、「終業時間五分前」と言ったので、わたしたちは地上に戻ることにした。「また明日、来るね」と声をかけると、ハイドは嬉しそうに蔓をぶんぶんと振った。

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