12

 てっきりアレクサンダーさんだと思っていたので、変な風に緊張が解けてしまった。わたしは椅子を押し出し、机の下から出て立ち上がった。……アレクサンダーさんじゃなかったのは不幸中の幸いだけど、だからって不法侵入が見つかったのには変わりない。


「えっと……ごめんなさい」

「は、えっ、いや……あの、ソウエンさん……?」


 ケインは目を擦りながら、「僕の幻かな」と呟いた。わたしは「いや、実在です」と返す。ケインは首を傾げながら、わたしの肩に手を触れ、すぐに手を離した。見開いた茶色い目が飴玉みたいだ。ケインは「本当だ」と呟き、「あっ、勝手に触ってごめん!」と言った。


「いや、ぜんぜん気にしないですよ?」

「ぼ、僕は普段はそんな、急に女性の体に触れるようなブシツケな奴じゃないんだ!」

「で、でしょうね」

「信じてくれ!」

「え? ああはい、信じてますが」

「ならよかった!」


 ケインは安心したように息を吐き、服の袖で赤くなっている鼻の頭をこすった。ついさっきまで寝ていたのだろう。白衣は着ていなくて、よれた長袖のTシャツを着ている。


「あのう……ケインさん」

「なんだい?」

「わたし、不法侵入なのですが……」


 こんなこと自己申告するのはどうなのかと思いつつ、言わずにはいられなかった。だってこのまま「それじゃあ」と言って去るわけにもいかない。なんだかケインが相手だったらそれで済むような気がするが、それは流石にケインのことを甘く見過ぎているだろう。


「ふほーしんにゅー……あっ、本当だ! 一体どうして君がここに?」

「えっとですね、地下三階の鍵を探しておりまして……結局まだ見つかっていないのですが。その、まかり間違っても悪意があったわけではないので、許して頂けると……」

「地下三階? ああ……そうか、ハイドくん……」

 ケインは俯き、「許すもなにも僕がアレクに言わなければバレないよ」と言った。

「言わないでくれるんですか?」

「もちろん。だって、ソウエンさんが悪いことするなんて、僕は思わない」

「ありがとう」

「でもね、鍵はここにはないんだ……」


 手伝ってあげられなくてごめん、とケインは項垂れた。わたしは慌てて、「いやいや、黙ってていただけるだけで有りがたいですので!」と言いながら首を振る。

 しかしそうか、鍵はここにはないのか。だったらもう、心当たりは上層部しかない。上層部の誰かなら必ず鍵を持っているだろう。けれども上層部の人達は滅多にわたしたちと直接話したりしないし、そもそもわたしが研究所内で彼等を見ることも滅多にない。こうなると他の研究室をひたすら探しまわるしか……一回目の侵入で見つかってるくらいなのに……?


「あっ、その、ソウエンさん、そんな落ち込まないで……」

「ごめんなさい、あの、内緒にしてくれてありがとう……さようなら」

「待って! 鍵はここには無いけど、でもあの、もうすぐ地下三階は開きそうなんだ!」

「え……?」

「ほ、ほんとはまだ機密情報なんだけどね、でもソウエンさんは知っといたほうがいいと思う。ハイドくんの研究が始まるんだ。特設チームを作って……」

「研究? どうして……」

「ハイドくんは人間とシャン・プランツのハーフって、これまでずっと確定ではなかったんだけれど、それを立証するものが見つかったんだ。シャン・プランツに変化しちゃわなくても、ハイドくんの体を調べる予定はあったんだ。それが二カ月前で、でもシャン・プランツになってしまって、上層部は危険だからってハイドくんを閉じ込めてしまった。けれども先日、ハイドくんを調べたいって、偉い研究者の人が外部から連絡してきたんだ」


 ケインは椅子を移動させ、わたしのすぐ横に置いた。有りがたく座らせてもらうと、ケインはほっとしたように短く息をついた。「それで?」とわたしは会話の続きをうながす。


「ハイドくんの情報はある程度もう研究者の中では公開されていたんだ。だからって、住宅地でシャン・プランツが発生したってのとすぐには結び付かないと思うんだけど……その研究者は、気付いたんだ。だからつまり、シャン・プランツになったハイドくんを調べたいって、その研究者は言ってきたって、そういう話なんだと思う。その研究者はほんとに世界的に凄い人だから、上層部も断れなくて……それで、その研究者さんを含めて、ハイドくんを調べる特設チームが組まれることが決定したんだ。だから、地下三階は研究のために、解放される。奥の部屋にハイドくんはいて、今はアレクだけが様子を見に行ってる。ぼくは見たことはないよ。……鍵は、そのときしかアレクも渡してもらえない」

「そ……そう、そう、なの」


 情報が多すぎて、咄嗟にわかったのはアレクサンダーさんでも自由に地下三階には行けないということだけだった。そして徐々に、ハイドのことで周りがどれだけ動き出したかを理解する。特設チーム。アレクサンダーさんがハイドの様子を見に行っているということは、アレクサンダーさんもチームに入るのだろう。リゼも入る可能性は高い、と思う。だってハイドがまだ実の中にいたころから、ハイドに関わっているのだから。そして、外部の偉い研究者の人……。上層部が依頼を断れないほどの人物とは、一体どういう。


「ケインさん。これも機密なんだって思うんですけど、外部の研究者さんって……」

「ああ、有名な人だから、君ももしかしたら知っているかもしれないな」


 ケインの口から出たその人の名前を、わたしは随分前のことだからもう忘れていて、けれども酷い胸騒ぎに、必死で記憶を探す。あれじゃない、これじゃない。そうだ、兄に関わっている人。どんな人だった。思い出せ、家の前に止まった、トヨタ・カローラ……。


「篠田丞って、いうんだけどね」


 そうだ、まるで何も欲しがらなかった兄が唯一執着した。あの人の、名前だ――――。


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