10

 ライスヌードルの屋台に着く。あまり大通りに面している店ではなかったが、一軒家の一部を改装しているような感じで、店内は割に広かった。机とイスは木でできていて、カントリーでかわいらしい。ネコのクリップで留められているメニューを、リゼが開く。


「ネギは平気?」

「え、うん」

「大好き?」

「好きなほうではあると思う……」

「じゃあこれがオススメなんだけど」

「鳥ネギ塩ヌードル……? うん、じゃあそれにする」

「オーケイ。私もこれにするわ」


 リゼが厨房にいる店員に大声で伝え、手元の水を一口飲んだところで、わたしは気づく。このお店、机に灰皿が置いてない。さっと見回すが、客の誰も煙草を吸っていなかった。


「ねえ、リゼ」

「そうなの。ここ、美味しいけど灰皿がないのだけが欠点なの。なんか最近禁煙の店が増えててねえ、肩身が狭い限りだわ」

「よかったの、ここで」

「鳥ネギ塩ヌードルが美味しいんだもの」


 そっか、と短く返して、水を一口飲む。この店の看板には『体に優しい滋養スープ』と書かれていた。つまりはそういうことだろう。優しいな、と思う。わたしの周りにいる人たちは、みんな優しい人ばかりだ。上司も、同僚たちも。研究員の人達だって。ハイドは研究所のマスコットのようになっていたから、シャン・プランツになってしまったハイドのことをみんな気に病んでいる。

 なのに誰も、わたしを責めたり、冷たい視線を向けたりしてこない。それどころか、心配そうに「大丈夫?」と声をかけてきてくれたりする。


「リゼ」

「なあに、ソウエン」

「どうしてみんな、わたしのこと、気遣うのかしら」

「そんなの」

「わたし、ハイドを殺しかけたのよ」

「違う、それは違うわよ」

「違わない……違わないの! わたしが悪いんだ、もっと、わたしが注意してればよかった。哥哥にいさんのこと、なんだかちょっとおかしいなって……思ってたのに、どうしてっ……!」

「ソウエン、不可抗力よ。あなたのお兄さんなのでしょう、身内を疑うなんてそんなの出来るもんじゃないわ。自分を責めないで」


 目の前に、赤いチェックの布。リゼがハンカチでわたしの瞼を拭って、ああ泣いていたのかと知る。自覚してしまうと、ぼろぼろとまた涙がこぼれた。

 「ごめんなさい」リゼの手からハンカチを受け取り、閉じた瞼を強く抑える。泣きやもうと躍起になっても、喉からしゃっくりが出てくるばかりで、涙は止まらない。わたしの頭を撫でる、冷たい手の感触。


「落ち着いて。大丈夫よ、泣いたっていいのよ、一番辛いのはあなたなのだから」

「で、でもっ、泣いたって、なんにもならないじゃないっ」

「そんなことないわ。人がなぜ泣くのか、それにはちゃんと生物学的に理由があるもの」


 諭すようにそう言って、リゼはわたしの頭を撫で続ける。そうなるともう、止まらなかった。張り詰めた糸がプチリと切れるように、全身から力が抜けていく。手のひらの付け根に吐息と生ぬるい水が溜まる。

 開いたままの口を閉じると、舌が渇いてザラついていた。コト、と机に陶器の置かれる音。ハンカチを目から外すと、琥珀色のスープと白い湯気。


「食べなさい。少しは顔色もマシになるわよ」

「うん……いただきます」


 テーブルから箸を取り、手を合わせた。陶器の器の中、スープに麺が浸っている。薄いハムみたいなものと、細いネギがいっぱい入っている。箸に麺をひっかけ、口に運ぶ。咀嚼して、飲みこむ。器の横に置かれたレンゲを左手に持ち、スープを飲む。ネギと麺を一緒にすくって、食べる。口の中でシャキシャキとネギが鳴る。ハムは箸で簡単に切れるほど柔らかい。スープと一緒に口に含むと、濃厚な出汁の味が広がった。


「おいしい……」


 思わずそう漏らすと、リゼは満足そうに「そうでしょう」と言って笑った。わたしは食べるのが遅いから最後のほうになると麺は伸び切ってしまっていたけれど、不思議なことに器はずっと熱いままで、スープを飲むたび胸のあたりがじんわりと温かかった。


 泣くだけ泣いて。お腹も満たされて。そうするとなんだかわだかまっていた不安感が解けて消えてしまった。悩みも苦しみも全て解決、というわけではないけれど、こう、切り替わったような感じだ。悔やんでも仕方がないといくら言い聞かせても駄目だったのに、こんなに簡単にいって良いのかと戸惑うくらい、頭がすっきりしていて気持ちが軽い。


「リゼ、そのう……ご飯って、大事なのね」

「ええ。どんなときだって、人間は生きていく限りものを食べ続けるのだから」


 屋台を出ると、外は綺麗に晴れていた。リゼもわたしも特に何を話すでもなく、ゆっくりと研究所までの道を歩く。相変わらず吹いている風は海の匂いがして、でも涼しくて心地よかった。

 わたしの前を導くように歩くリゼの背中を見て、わたしはまだ少し濡れている目をハンカチでぬぐった。赤いチェックのそれは、端の処理が甘くて糸がほつれている。練習で作ったやつかなあ、そうなのだろうなあ、と思うと、可笑しくて愛しかった。


「ハンカチ、洗って返しますね」

「気にしなくていいのに」

「そういうわけには」


 研究所、地上一階の階段前。リゼは「軍の関係者がうろついてて研究に集中できないの」と溜息を付きながら地下に続く階段を下りていった。わたしは事務室に戻り、ハンカチを鞄に入れた。机の端に座っている金色のカエルを指で突くと、どういう仕組みかぴょこんと跳ねる。始業再開のチャイムが鳴り、わたしは仕事を再開させる。

 隣にハイドが居なくても、わたしの時間は過ぎていく。決して止まったり戻ったりはしない。だからこそ、まだ終わりじゃない。じたばたせねば。やれるとこまで、やらねば。そう強く、思う。



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