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 退院してから一週間後、わたしは研究所の事務員として仕事に復帰することになった。リゼの助手、つまりハイドの世話係に関しては、ハイドの状況が状況なので保留となっている。一応まだ免職されたわけではないらしいが、今後の上層部の判断によってはクビになる可能性もあるだろう。ハイドを危険に晒し、シャン・プランツに変化させた、そのきっかけを作ったのはわたしだ。世話係失格と言われても仕方がない。

 原因が自分にある以上、きちんと後処理……というのでもないが、責任を取りたいとわたし自身は思っているけれど、わたし個人の意志をどれだけ上層部が配慮してくれるかはわからない。そもそも、あれだけの騒ぎを起こした身だ。事務員として復帰できるだけありがたいと思っておかなければ。

 復帰初日、タイムカードを切ってすぐにわたしは上司の机へ向かう。上司はわたしの顔をちらりと見て、「傷はもういいの」と、いつも通りクールな無表情で言った。


「はい、もう大丈夫です。ご迷惑をおかけしました」

「迷惑はかかってないわ。このまま辞められるほうが困るもの」

「……それなんですけど、やっぱり、わたしがクビにならなかったのって」

「傷害事件の被害者を解雇ってなったら外聞が悪いでしょ。私はただ上層部にほんの少しアドバイスをして差し上げただけ」

「そう……ですか。あの、でも、ありがとうございます」


 上司は口元だけで少し笑い、手元の書類に視線を落とした。

 わたしは一礼して、自分の席に座る。机の上は一カ月前と何も変わっていなかった。埃すら積もっていないから、きっと誰かが掃除し続けてくれていたのだろう。ふっ、と隣の机を見る。そこには金色のカエルが一匹、真ん中にちょこんと乗せられていた。わたしはその机の引き出しを開ける。色鉛筆や落書き帳、色々な形に折られた色紙……。それらの遊び道具が、一カ月前と変わらずそこには入っていた。プラスチックの小さな定規を手に取る。歪な文字で「ハイド」と持ち主の名前が書かれていた。

 わたしはこみあげてきた熱を無理に飲みこみ、目じりにたまった雫を払った。引き出しを閉じて金色のカエルを自分の机の端に乗せる。始業開始のチャイム。わたしの仕事は一ヶ月前と何も変わらない。


 昼休憩の時間がやってきた。いつものクセで隣の席を見てしまい、溜息をつく。わたしの生活がいかにハイドを中心に回っていたのか、思い知らされてならない。席から動けずぼんやりとしていると、新調したばかりの携帯電話が鳴った。リゼからの電話だった。


「もしもし」

『ソウエン、今日から仕事復帰したのよね。昼、付き合いなさいよ』

「いいけど……そっちは、大丈夫なの」

『あと五分で自由の身よ。ちょっとだけ待ってて』

「ん……わかった、二階の休憩所にいるね」


 事務室を出て左。廊下の奥にある階段へ向かう。二階に上がろうとして立ち止まり、地下を見やる。この下に、ハイドがいるのだ。わたしは引き寄せられるようにして、地下への階段を下りていった。けれども地下三階の扉は固く閉じられていて、ノブをひねっても開かない。扉に耳を付けてみても、何も聞こえてこなかった。

 わたしはまた溜息をつき、階段をあがる。地上二階の休憩室は静かだった。空調さえついていないことに気付き、もうそんな季節になってしまったのかと思う。ほんの一カ月前まで、夏真っ盛りだったのに。


 ソファに沈むようにもたれ掛っていると、休憩室の入り口付近に人影が見えた。リゼだろうか、と思ったが、それにしては中に入ってくる気配がない。ちらちらと見える髪の毛は茶色で、身長もリゼより高い。男の人だろうか。立ち上がって声をかけようか迷っていると、その人がそっと休憩室を覗き込んできて、わたしと目が合った。

 濃い緑の目。なんだか見覚えがあるな、と思ったら、ハイドが遊んでもらっていた三人組のうちの一人だったことを思い出した。確か、アレクサンダーさんのいとこ。何と言う名前だったか……。

 彼はわたしと目を合わせたまま、動く様子がない。どうしよう、と思ってわたしが彼から目を逸らすと、ボスッ、という軽い衝撃音と共に「わっ」という驚いた声が聞こえた。


「なにしてんのよケイン。入口の前でぼんやりしないでくれる」

「ス、スイマセン……」


 見ると、リゼが入口に立っていた。茶髪の彼――ケインは、リゼに謝りながら、ちらりとわたしの方を見た。リゼが首をかしげ、「何、あなたたち知り合いなの?」とわたしに聞いてきた。

 「どうかな……」と言って曖昧にわたしが笑うと、リゼは胡乱気な表情でケインを見た。ケインは慌てて「違うんだ! 僕はハイドくんのフレンドなんだよ!」と言う。わたしは二人の傍に寄り、「ほんとう?」と聞くリゼに「うん、それは本当」と言った。ケインは「誤解は解けたね! バーイ!」と真っ赤な顔で言って、廊下を走り去って行った。


「なにあれ」

「わたしに何か聞きたいことでもあったんですかね……」


 何か気になっていることがあってわたしに訊ねようとしたのだとすると、それはきっとハイドのことだろう。けれども直接的に事件に関わったわたしに訊くというのは勇気がいるはずだ。それで休憩室に入るかどうか迷っていたのだろう。気を使わせてしまったか。


「お昼、どうする?」

「そうですね……ちょっと、あんまり食欲なくて」

「軽いものでも食べたほうがいいわよ。そうね、ライスヌードルでも食べる?」

「食べたことないです」

「フォーって言ったほうが分かりやすいかしら」

「ああ……あの担仔麺モドキ……」

「スープに麺が浸かってる、という意味では同じようなものね」


 二人で研究所を出て、屋台が軒を連ねる大通りへと向かう。鞄を右肩に掛けていると、皮膚が引きつるように痛んだ。歩きながら、左肩にかけ直す。リゼの気遣わしそうな視線。


「平気よ」

「ソウエン、無理しないで」

「いいの。こんなの、どうってことないです」

「やめて、そんな風に笑わないでよ」

「……そんな風って、どんな」

「辛くて堪らないって顔。なのにそれを、隠そうとしてる顔」

「そう……困ったわ。自分がどういう顔をしているかもわからないの。何かしなくちゃって思うのに、何もできることがなくて……わかってるのよ、わたし、わかってるの……」


焦ってもしょうがないって。……わかってるのに。

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