8

 リゼが帰ったあと、いかにも仕事帰り、という感じの伯父がお見舞いにきてくれた。実はわたしが眠っていたときにも一度訪れていたらしい。わたしを刺した犯人が兄であることは、誰も知らない。目撃者がわたしと犯人の関係を知るわけがないし、まだ警察の取り調べもわたしは受けていないからだ。

 伯父には、わたしが外出中に何者かに刺された、という情報しか伝えられていないらしい。ハイドのことも、機密情報だから一般人には知らされていない。もちろんあの場にシャン・プランツがいた、という噂は広まっているが。伯父は右上半身を包帯でぐるぐる巻きにされた上、心拍数を計る管だとかその他の管だとかに繋がれているわたしを見て、眉間に皺を寄せる。

 「見た目より、元気ですよ」とわたしは言ったが、伯父は難しい顔のままだった。何度か躊躇うように口を開き、しかし何も言わない。伯父の気持ちを察するのは、難しかった。しかし病室に来てくれた以上、きっと心配をかけたのだろうと思い、わたしはただ「ごめんなさい」とだけ謝る。伯父は首を振り、「無事でよかった」とだけ言って病室を去っていった。優しい人、なのだ。きっと。


 わたしが運ばれた病院は、母と一緒の病院だった。この辺りの病院と言えば、大きいところはここしかないから当たり前なんだけれども。

 ……母には、わたしが入院したことは伝えていない。医者に、言わないように頼んだのだ。母の病状があまり良くなくて、精神的なショックは与えないようにしなければいけなかったから。……と言うのは建前かもしれない。

 知られたくない、というわたしの独りよがりな思いのほうが強かった。まさか母もわたしが死んでいれば良かったとまでは思わないだろうし、思っても口には出さないだろうが、それでも、今のわたしに母と接することは不可能だった。そんな元気がない。起きてから一日も経っていないのだ。頭の中はごちゃついていて、しかも整理する気が起きない。考えるべきことは沢山あるのだけれど、今、何か物事を考えたらパンクしてしまう。


 疲れに任せて、目を閉じる。眠気はなかったけれど、起きているのも億劫だ。そうしているうちに、消灯時間がやってきて、瞼の中が暗くなる。わたしはいつの間にか眠り、悪夢にうなされて起きて、なのに内容は全く覚えていなくて。そしてまた眠って。それを繰り返し、次の日、また次の日。昼間は警察に事情を話したり(それはなぜかとても客観的に語れるのだ。たぶん、無意識に感情のスイッチを切っている)、お見舞いにやってくるリゼや研究所の仲間――町子とかユカリとか、事務員のメイファンとか上司とか――とたわいもない話をしたりして。夜は痛み止めが切れてしまうこともあって、かなり辛かった。


 そんな風に過ごしているうちに、怪我というのは勝手に癒えていくものだ。管も点滴も必要なくなり、普通のご飯が食べられるようになり、痛み止めの量が減り、包帯の面積が小さくなりやがてガーゼ一枚になり……。事件から一ヶ月。わたしは無事退院が決まった。

 もうそのころになると、頭の中の混乱はいくぶんか落ち着いていた。もちろんまだショックはあるし、わたしの混乱が落ち着いたからって事態が何か動くわけではないけれど。


 兄について考える。どこに行ってしまったのか。兄とハイドの間に一体どんな繋がりがあったのか。兄がハイドを刺そうと……殺そうとした理由とは何なのか。わからないことだらけだけれど、兄の犯行が計画的なものであることだけは確かだった。あのときわたしの携帯電話にかけるために兄が使った携帯電話は、わたしの注意をハイドから逸らすために、事前に用意されていたもののはず。衝動的な犯行だとは、どうしたって思えなかった。

 そもそも兄は、何の理由は動機もなく人を殺すような人ではない。兄の性格から考えると、携帯電話のことを含め、迷子になったというメールからそのメールを送ってくるタイミングまで、謀ってやったものだとするほうがむしろ自然だ。わたしとハイドのことをどれだけ調べたのかとか、行動をどれだけ予測していたのかとか、考えるとゾッとするけど……。


 兄に対して今のわたしはかなり冷静だった。刺されておいて怒りも憎しみも沸かないのはどういったことかと自分でも思うけれど、兄だってまさか自分の妹を刺してしまうとも思ってなかっただろう。わたしが刺されたのは事故であり、つまるところ私の勝手な自業自得でしかない。

 そんなことよりむしろ、ハイドを殺そうとしたことのほうが問題だ。理由や動機云々はともかく、人殺しはいけない。私怨は置いといて、倫理的に、法律的に、人道的に、駄目なものは駄目である。まあ結果的にハイドは助かったし、わたしも死んでないし、だからこんな冷静でいられるんだけれど……。

 早く兄が見つかって、ハイドを殺そうとした理由が明らかになればと思う。兄をどうすればいいのかそれはまだわからないし、感情の落としどころだって見つかってないけれど。


 退院の日。伯父が車で病院までわたしを迎えに来てくれると言ってくれたので、それに甘えることにした。伯父が来る時間まで余裕があったので、荷物を整理した後、母のお見舞いに行くことにした。入院していたことを話す気はないから、寝間着から私服に着替える。服なんかも伯父が家から持ってきてくれたのだ。また改めてお礼をしなければと思う。


 母の病室へ行くと、ベッドの周りのカーテンは閉められたままだった。そっと端を持ち上げて覗いてみる。母は眠っているようだった。わたしはイスに座り、白いカーテンを見上げる。


 言いたいことがたくさんあるような気がした。けれども具体的にそれが何なのかは、わからない。わからないまま口を開き、白いカーテンの向こうで眠る母に話しかける。


「母さん。……わたし、まだもう少し、頑張らなきゃいけないね」


 時間がきた。わたしはイスから立ち上がり、病室を去った。


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