5
「もしもし、
「ソウエン。お前、携帯は常に見ておくべきじゃないかな」
「ごめんなさい、こっちにも事情があるのよ。ところで迷子って何なの」
「いや、伯父さんの家に行こうとしたんだけれど……ここがどこかわからなくてね……」
「調べてこなかったの? らしくないわね」
周りに何の建物があるのか聞くと、ここからそれほど遠くないことがわかった。うろうろしないように指示して、通話を切る。さて、どうやらわたしは兄を迎えに行かなければいけないようだ。時計を見る。わたしの休憩時間はハイドの面倒を見るぶんが考慮されているので、他の従業員たちよりも長く設定されている。つまり、迷子らしい兄を見つけて伯父の家に連れて行くくらいはできそうだった。
けれども、とわたしは不安そうにわたしの服を掴んで俯いているハイドを見る。できればハイドを研究所に戻してからのほうがいいだろう。人権を獲得したとはいえ、機密情報の塊と言っても過言ではないのだ。しかしここからだと、伯父の家と研究所とは真逆の位置になる。研究所に戻り、一人で兄を迎えに行き、伯父の家まで兄を送って、また研究所に戻る……となると、時間的に微妙なところだった。
もっと早く兄からの連絡に気付いておけばよかったのだけれど。少し悩み、わたしはハイドも一緒に連れて行くことにする。友達の弟だとかそういうことにしておけばいい。それに、兄がなぜ今になってこの街にやってきたのか真意がわからない以上、一人で会うのは不安だった。どんな顔をして、どう話せばいいのか、困ってしまう。
「ハイド、ちょっとこれから人に会いに行くのだけれど……」
「だれ?」
「わたしのお兄ちゃん。初めてこの街に来たから、迷子になっちゃったんだって」
「ソウエンにもきょうだいがいたんだ」
「うん……久しぶりに会うから緊張するな。一緒に来てくれる?」
「まかせろ!」
大通りを抜けていく。だんだんと、喧騒が後ろに後ろに下がっていき、聞こえなくなっていく。兄が居たのは、静かな住宅地にある小さな教会だった。この辺りで目印になるようなところなんてそれしかないから、見つけやすいようにそこで待つようにしたのだろう。相変わらず気の利く人だ。久しぶりに見た兄はスーツ姿で、ごつい肩掛け鞄を持っていた。
「
「二年ぶりに再会していきなりそれか」
「久しぶりね大好きなお兄ちゃん。とっても会いたかったわ」
「勘弁してくれ。ぼくが悪かったよ」
いざ会ってしまうと、さっきまで不安だったのが嘘のようにすらすらと言葉が出てきて安心した。やはり兄は兄で、わたしはわたしだ。空白期間を得ても、関係性は変わらない。再会した兄は、心なしかわたしの記憶の中の兄の姿よりもがっしりしたように見えた。
「ソウエン、その子は?」
「ああ……ちょっとね。預かってる子なの」
ハイドは兄の姿を見たときから、わたしの背後に隠れてしまっている。人見知りしない子なのにおかしいな、と思いつつ、研究所の人達とは雰囲気が違うから警戒しているのかもしれないと思い直す。そう言えば、ハイドは研究所の人達以外と接するのは初めてだ。兄は人好きのする笑顔を浮かべ、腰をかがめる。わたしの太腿にハイドの爪が食い込んだ。
「こんにちは。ぼくはソウエンの兄の、ユーヒェンです。はじめまして」
「……」
「ハイド、怖がらなくても大丈夫よ」
ちゃんとご挨拶して、と促すと、ハイドはおずおずとわたしの後ろから顔を出し、言う。
「……こんにちは」
「君はハイドって言うのかい? いくつ?」
「ごさい」
うわお。そうだ、外見年齢は十歳だけど実際には実から産まれてまだ五年だ。しかしこんな大きい五歳児がいてたまるものか。兄も「そうか、五歳かー」と言いつつ困惑顔だ。
わたしは慌てて「違う、十歳」と言う。兄は声を出して笑い、だろうね、と頷いた。そしたら今度は、本当のことを言ったのにわたしに違うと言われたハイドが、困惑顔だ。わたしは「この辺りは人が少ないね」と言って兄が周囲を見渡しているすきに、
ハイドの耳元で「ごめん、ちょっとわたしの言うことに合わせてて……」と囁く。察しの良い子だからなんとなく従ってくれるだろう。ハイドは無言でこくりと頷く。あああ、良心が痛む……。
「で、あんまり時間がないんだけれど? 昼休憩中なのよ」
「ああ、ごめん。この辺の道、ややこしくってさあ……」
どうして急に来たの、と兄にたずねると、仕事のついでだと言われた。
「官僚にも出張があるの」
「そりゃあ、あるさ」
「官僚ってどんな仕事してるの」
「詐欺師みたいなこと」
「最低ね」
「冗談だってば」
他愛ない話をしながら、伯父さんの家へ向かう。ハイドはときどき上を見上げてわたしと兄の様子を伺っているが、自分から何かを話そうとはしてこない。あたりさわりのない話の種はすぐに尽きてしまい、とうとう気まずい沈黙が降りる。
早く伯父さんの家に着けばいいのに、と思って歩いていると無意識に早足になってしまっていたらしい。「ハイドくん、大丈夫?」という兄の言葉に、ハッとして足元を見ると、歩き疲れたハイドがしゃがみこんでしまっていた。
「ごめん、ちょっと休もうか」
あと少し歩けば伯父さんの家につくから、急ぐ必要はないだろう。他に通行人もいないことだし、道で休んでいても大丈夫だ。わたしは鞄から水筒を取り出し、ハイドに渡す。立ち止まると一気に汗が噴き出してきた。
わたしは半そでのシャツだからまだいいが、しっかり背広まで着こんでいる兄は見るからに暑そうだ。ハイドから水筒を受け取ると、まだ中身の烏龍茶は半分ほど残っていた。「いる?」兄は首を振る。わたしは一口だけ烏龍茶を口に含み、飲みこんだ。研究所の給湯室で入れてきたやつだが、少し煮出しすぎたらしく、苦い。
「なあ、ソウエン」
「何」
「どうだい、最近は。その、母さんのこと、とか」
「相変わらずよ。……そっちは、どうなの」
「まあ、おおむね、元気に生きてるよ」
「そう」
離れて暮らした数年間だけど、そこには積もるものなど何もなかったらしい。歳の離れた男女のきょうだいなんてこんなものだ。友達がどうとか恋人がどうとか、そんな話を共有して喜んでいられるのはせいぜい中学生までだ。
もしくは、もっと大人になればお互いに語ることも増えるのかもしれない。あの時はこう思っていただとか、実はその時こんなことがあった、とか。今はまだ、思い出話をするには思い出が近すぎる。例え一緒に暮らしていたとしても、兄とわたしの心の距離感は今のこの現状とそう変わらなかっただろう。
「ハイド、そろそろ」
歩けそう? と聞こうとしたところで、胸ポケットに入れていた携帯電話が震えた。なんでこんなところに入れていたんだっけ、と思い、兄を探している途中で兄から電話があったときにすぐに気付くためだったと思い出す。携帯を開くと、知らない番号からだった。出ようかどうか迷っているうちに切れてしまうが、ほっとしたのもつかの間、同じ番号から再び着信が来る。
仕方ないので兄とハイドの「ごめん、電話」とことわり、通話ボタンを押した。
「もしもし?」
しかし、電話の向こうの相手は無言だった。イタズラだろうかと思いつつ、もう一度呼びかける。「もしもし、どちら様でしょうか」――布の擦れる、音。
『「ごめん、ぼく」』
電話の向こうと、すぐ隣と。同じ声に同じセリフが、わずかなズレを生じさせながら聞こえた。
「えっ……?」戸惑いながら振り向くと、兄はそれはそれは綺麗に微笑していた。兄の右手には、銀色の危ないもの。真っ直ぐに向けられている、その先にはハイドがいて、
瞬間、ぶれる視界。胸を貫く衝撃と、激しく擦れる体。
視界の端に輝いたのは、金色と真っ赤な――。
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