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 数学のドリルをやり終わったハイドに国語の勉強をさせ、そしたら時計はもう九時半。わたしはハイドと一緒に地上一階まで階段を上がる。事務室へ行き、わたしはタイムカードを押す。半年ほど前から、わたしは事務員の仕事を再開していた。というのも、わたしの代わりに雇われた女の子が半年前に寿退社してしまったのだ。新しい人を雇ってもよかったと思うのだが、上司はわたしに戻ってきて欲しいと言ってくれたのだ。「あんたほど真面目な事務員もいなかったわよ」とのことだ。

 ハイドも大きくなってあまり手がかからなくなり、「これで給料もらっていいのか?」と思うことも多くなっていたから、わたしは喜んで事務職に復帰した。つまり、リゼの助手と事務員とを兼業している形である。労働基準法的にどうなっているのか、自分のことだというのにわたしは理解していないのだが、まあこの研究所のことなのでギリギリ法に触れないラインで上手くやっていることだろう。


 事務員は自分を含め全部で四人。全員未婚の女性だ。別に育児休暇が取りにくいとか職場復帰が難しいとかそういう事情があるわけではなく、たまたま、偶然である。ハイドが元気よく「おはようございます!」と挨拶すると、事務室にいた人達の顔がパッと明るくなった。

 「今日も元気だねえ」「ちゃんと牛乳飲んだ?」「そのTシャツおっきくない?」と口ぐちにハイドは声をかけられ、律儀に全部返している。そして一通りそれが済むと、わたしの隣の机でイスに座る。ここが、わたしが事務職をしている最中のハイドの定位置である。ドリルをやり終えたハイドはここで、お絵かきをしたり色紙を折ったりして遊ぶ。飽きると事務室内にある本棚から好きな本を取ってきて読んだり、たまに地上二階の休憩所に行く。そしてそこでいろんな人にいろんなことを吹き込まれて返ってくる。


 わたしは書類やパソコンに向き合い、真面目に仕事をする。ときどき本を読むハイドが言葉の意味や読み方を聞いてくるのに、小声で答える。もちろん、上司にはばれている。

 事務作業は割とルーチンワークだ。各プロジェクトチームの経費計算、給料管理、たまに上司のお茶くみ。会議の資料をコピーしたり、他研究施設に渡す資料の添削をしたり。研究所全体の総務も兼ねているので、割と多岐にわたってやることがある。電話対応も事務の仕事だ。プルルルルル。赤いランプだから、これは内線。


「はい、事務室です。了解です、アレクサンダー研究室に繋ぎますね。少々お待ちください。……え? ユカリさんとアレクサンダーさんが? いや、噂話でしょう……」


 ちょっとした雑談も仕事のうち、かな?


 お昼休みのチャイムが鳴る。隣の机の上には色紙のツルとカエルとアサガオがあった。そして製作者は不在。向いの机にいる後輩――メイファン、というシナ人なのだが――が、「三十分前くらい前にカエルをいっぱい持って出ていきましたよ」と教えてくれた。彼女にお礼を言い、タイムカードを切る。

 「休憩、いただきます」と上司に言って事務室を出ると、廊下はじっとりと暑かった。窓の外は快晴だ。春は雨季だから毎日雨ばかりだったけれど、夏になると夕方のスコール以外では滅多に降らない。二階の休憩室まで行くと、ハイドは数人の男性研究員と一緒に机の上でカエルを飛ばして遊んでいた。


「すごいね、ここを押すと飛ぶんだ。実にグレイト!」

「そうだろう。まちこがおしえてくれたんだ」

「町子女史は器用なんだな」

「金色のカエルとは斬新だが、野生だと生き残れんぞ」

「このカエルはどくがあるんだ。たべるとおなかをこわす。それをトリはわかってるから、こいつはくわれない。そしてこのどくは、かんぽーになる。にんげんがらんかくしたから、このカエルはぜつめつのききがせまっている」

「そりゃ大変だ。一刻も早く条例で取り締まらないといけないな」

「ハイ坊、妙に生態系に詳しいじゃないか」

「そら、リゼ博士の一番弟子だからな! おい、見てくれ、こいつの飛距離すげえぞ!」


 ハイド以外、誰が何を言ってるんだかわからない。いや、約一名、妙にテンションの高い米国人らしき人だけすごい目立ってるけど。全員、あまり見慣れない研究員たちだった。普段はあまり休憩室にやってこない人達なのだろう。カエルで盛り上がっているところにどう声をかけたものか悩んでいると、ハイドがわたしの姿に気付き、手を振ってきた。


「ソウエン! もうおひる? チャイムなった?」

「とっくに鳴ったよ。……そちらの紳士たちはお友達?」

「さっきしりあったんだ。みんないいやつだぞ」

「いい人達、ね。ちゃんとした言葉を使いなさい。リゼに怒られるよ」


 わたしが近寄ると、男性研究員三名は何故かハイドの後ろに立って整列した。取りあえず「こんにちは、ハイドがお世話になりました」と言うと、一斉に首を振られる。近くで顔を見るとなんとなく全員覚えのある人達ではあるけれども、名前はさっぱり出てこない。


「い、いえいえ、あの、こっちが遊んでもらったんで」


 さっきのハイテンションが嘘のように、米国人(仮)が顔を赤くしてもごもごと俯く。わたしは曖昧な笑顔で会釈し、ハイドと共に研究室を出る。階段を降りる途中で、ハイドが「さっきの人、アレクサンダーのいとこ。ケインっていうらしい」と教えてくれた。


「そうなんだ……アレクサンダーさんとなんか全然ちがうね」

「アレクサンダーはクールだからな」

「クールというか、何考えてるのかよくわからない人だよね。いつも眉間に皺寄ってるし」

「でも、アレクサンダーもいいやつ……いい人だ」

「そうだね」


 リゼを呼ぶために地下に続く階段を下りている途中で、白衣のポケットに入れていた携帯電話が震えた。画面を見ると、リゼからのメール。「ムリそう」という簡潔な内容。どうやら仕事は一区切りつかなかったらしい。残念に思っていると、メールの他に着信があったことに気付く。履歴を見ると、驚いたことに兄からだった。二時間前にかけてきている。


……なんだろう。電話なんて、滅多にかけてこないのに。

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