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 地下三階。かつての『檻』は、すっかり『部屋』になった。二枚の扉にはもう鍵も番号もいらない。わたしは鞄から今日の朝ごはんの入った袋を取り出し、自動ドアをくぐる。落書きがいくつも書かれた薄いクリーム色の壁紙。茶色い絨毯。勉強机に、木製の二段ベッド。目覚まし時計を握った手が、盛り上がったブランケットから覗いている。わたしは思わず笑顔になりながら、ブランケットをそっと剥がす。


 天使がいた。……冗談だ。そんなに親ばかじゃない。しかし五歳児から成長して、外見年齢十歳くらい? になったハイドは、なかなかの美少年に育っていた。元から美形になる気配はあったが、長い睫に整った目鼻立ちは、まるで童話の王子様のようだ。成長と共に出てきたそばかすも、キュート。まあ口から涎出てるけどね。王子様は爆睡中らしい。


「ハイド、朝だよ。起きないと鼻にちゅーしちゃうよ」


 耳元でそう言いながら肩を揺さぶると、ハイドは思い切り顔をしかめて薄目を開けた。瞳は濃い黒。ときどき、お日様の光の元だと髪の色とそっくりな緑がチラッと混じる。わたしが剥がしたブランケットを再び被り、ハイドは「やだー」とぐずる。わたしは枕元に放り出されていたリモコンを操作し、部屋の照明を最大にする。ちょっとびっくりするほど明るくなるから、普段は最大になんてしないのだけれど、ハイドを起こすときは別だ。

 わたしは再びブランケットを剥がしにかかる。かなり強い力で抵抗されるものの、まだまだ十歳児には負けない。「こらっ、お寝坊さんめ。これ以上ごねるとくすぐり攻撃するよ!」そう言うと、ハイドはしぶしぶブランケットから手を離し、起き上がった。最大になっている照明に、目をしぱしぱさせる。わたしは照明を元に戻し、ブランケットの皺を伸ばして綺麗に畳んでしまう。ハイドは目をこすりながらベッドから降り、大きな欠伸をした。それにつられたのか、わたしも欠伸が出る。仕事を始めてからは早起きになったが、わたしも元々はあまり朝に強くない。中高の引き籠り生活のときは夕方に起きたことすらある。

 だからハイドも、元々はあまり早起きさせていなかった。幼いときの生活習慣が将来の健康を左右するのだとリゼに言われてから、きちんと早起きついでに早寝もさせるようになった。そしてわたしの就業時間は伸びに伸びまくり、たまに研究所に泊まることもある。


「ソウエン、あさごはん、なにー?」

「今日は卵とハムのサンドイッチ。あとリンゴ。飲み物は牛乳」

「えー、おれ、ぎゅうにゅうきらい」

「おっきくなりたいなら飲みなさーい」

「ぎゅうにゅうのんでも、おっきくなんない。ほねが太くなるだけだって、まちこが言ってた。いじょうのりゆうにより、おれはぎゅうにゅうをのまない。ろんじゅつせいこう」

「してません。骨が太くなることにより体が丈夫になり運動能力があがる。運動するとおっきくなる。よって、ハイドは牛乳を飲む。はい、論破しました。牛乳飲みなさい」

「へりくつだ」

「そりゃこっちの台詞だわ」


 リゼの尽力により見事人権を獲得したハイドは、研究所の皆さんに可愛がられたおかげでいつの間にかいっぱしの口を聞くようになってしまった。絵本を片手に言葉を教えていたころが懐かしい。あのころは可愛かった。生意気なことばかり言う今だって可愛いけど。


 それにしても、だ。研究所の人々は案外簡単にハイドを受け入れたものだと思う。上層部がハイドの人権を認め、リゼは研究所で働くすべての従業員にハイドの存在を明かした。シャン・プランツの実から産まれたということも含め全ての事情をわかりやすく説明したことにより、ハイドがただの人間の子供ではないことは周知の事実となっている。ハイドのことを気持ち悪く思う人だってもちろんいるが、それでもかなり柔軟に、ハイドは受け入れられた。人間はどんな異常現象にも慣れる生き物だからね、とはリゼ談である。


「ハイド、トイレで顔洗ってきな」


 研究所の地下二階には簡易的なシャワー室があるが、そこまで行かせるのはこっちが面倒なのでトイレで妥協する。ハイドが戻ってくる前に、わたしは折り畳みの机を組み立て、朝食の準備をする。赤いチェックのランチマットは、リゼのお手製だ。自主的な花嫁修業らしい。縫い目が大雑把で変なところから糸が出てしまっているが、形にはなっている。戻ってきたハイドがサンドイッチに手を伸ばすのを止め、先に服を着替えさせる。ハイドの服はいろんな人のお下がりだ。今日はよく知らないミュージシャンのライブTシャツ。誰からもらったのか忘れてしまったが、ハイドには少し大きい。ズボンはリゼの弟のやつ。


「ほら、ちゃんと座ってから食べなさい」

「はーい」


 食前のお祈りはしない。代わりに、ニホン風の挨拶はする。「いただきます」便利だし、いい言葉だ。作ってくれた人に感謝。パンに感謝。ハムに感謝。玉子に感謝。すばらしい。ハイドはサンドイッチにかぶりつき、ほっぺたを膨らませる。朝から食欲旺盛だ。しかし、がっつくように食べるのは、二年前にわたしがハイドの世話を始めたときから変わらない。ハイドがどう考えているのかはわからないが、まだ『美味しい』に飢えていたときの習慣がついたままなのだろうと思う。

 こういうのばかりはいくら言葉で諭しても……誰も取らないよ、とか、ゆっくり食べていいんだよ、とか言ったところでそう簡単には変わらない。


「おいしい?」

「うん。おれ、たまごすき。どうぶつせいたんぱくしつだから」

「牛乳も動物性蛋白質だよ」

「さきほどのはつげんはてっかいする」


 ハイド専用の青いマグカップに牛乳を注ぐと、露骨に嫌そうな顔をした。わたしはそこまで嫌なものを食べさせるのは気が進まないのだけれど、好き嫌いを許していると健康的になれないとリゼが言っているので、心を鬼にして牛乳を飲ませる。

 子育てに関しては、年下のきょうだいの多いリゼの意見のほうが尊重される。わたしに全てを任してしまうと、我儘し放題になってしまうと自分でもそう思うので、リゼの意見にはおおむね従っている。


「牛乳が飲めたらリンゴを食べてよしとする」

「ぱわはらだ」

「誰からそんな言葉教えられてくるのよ」

「ユカリがアレクサンダーのこと、そう言ってた。ユカリが高いとこに手がとどかないのはユカリのせが低いのがわるいって言ったんだって。そんでユカリ、ぱわはらだっておこってた。アレクサンダーはじぶんのせが高いから、ユカリがこまってるのわからないんだ」

「あー、なるほどねえ……」


 ハイドは牛乳を一気に飲んでしまったあと、リンゴにフォークを突き刺した。リンゴはもちろん、カットフルーツの店で買ったやつだ。わたしにリンゴは剥けない。この街が外食文化で本当によかった。母には怒られそうだが、苦手なものは苦手なのである。


 食事が終わったら、ひとまず勉強の時間だ。牛乳は嫌いなハイドだが、勉強することは嫌がらない。折り畳み机を片付けていると、自分から勉強机に座り、ドリルを広げる。ハイドの知能は偏っていて、理数的なことは得意だが文系の教科は苦手だ。元々そういう傾向があったのか、周りの環境に影響されたのかは不明。取りあえず、わたしの影響ではないことは確かだ。わたしはそろそろハイドの解く算数の問題が解けなくなりつつある。そしてハイドにもそのことはバレてしまっている。算数でわからないことがあると、わたしではなく町子やユカリに聞きに行くのだ。リゼは忙しいのであまり構ってくれないらしい。


「ソウエン、ここ、よめない」

「ええと……証明せよ。しょ、う、め、い」

「しょ、う、め、い、せ、よ……わかった」


 今やってるのは数学のドリルだが、こうして時々文章問題が読めないので、いつでも教えられるように部屋の中で待機している。ただ、それだけだと暇なので、わたしは小説本を読む。

 今日の本はヘルマン・ヘッセの『車輪の下』だ。リゼの助手になってから額の上がった給料の行方は、ほぼ本を買うために使われていた。ハイドの使う文房具だとかノートだとかは経費で落ちているし、わたしは読書以外の趣味がないのであまり本以外にお金を使うことはない。貯金は意識せずとも溜まって行く一方だ。母の入院代はもちろんかかっているが、それは兄が払っている。そろそろ折半にしてもいいとは思うが、兄が嫌がるので保留中。次の手紙が来たら、もう一度相談してみるつもりだった。


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