ソウエン8(第二章・完)


 地下の六階。研究所の最下層の一番奥で、わたしはハイドを抱えて立っていた。リゼが小さな扉の鍵を開ける。懐中電灯で照らしても、奥の方は真っ暗だった。ごく、と唾を飲みこむ。腕の中、ハイドはわたしの体にしがみつき、きょろきょろと当たりを見回している。このままおとなしくしててくれよ、と思いつつ、リゼに促されて通路に入った。


「これ、どのくらい続いているの?」

「そう長くはないわ。真っ直ぐ十分も歩けば、外に出る扉があるはず」

「わかった」


 通路には元から照明はついていないらしい。片手だけでハイドを支えるのは難しいから、リゼが後ろから足元を照らしてくれる。空調もないので、通路は少し肌寒かった。時間の感覚はよくわからなくなっていたが、それでも思ったよりも早く扉に着く。


「この扉を開けたら、垂直に立った梯子があるわ。通路は上向きの斜面になってたから、六階分よりかは短いけれど、それでもハイドを抱えて上り切るのは大変だと思う」


 リゼはそう言って、扉を開けた。人一人分ほどの小さなスペースに、鉄製の頑丈そうな梯子が備え付けられていた。リゼが懐中電灯で照らすが、一番上までは光は届かない。


「そうね……ちょっと、ハイドが自力で梯子を上れないか、やらせてみます」


 慣れない状況にきょとんとしているハイドを、梯子の前に置いてみる。意味がわかっていない様子なのは当然だ。わたしは自分が梯子を上るところを、ハイドに見せてみた。


「できるかな。無理だったらいいけれど」


 ハイドはわたしの真似をするのがうまい。だから、もしかしたらもしかするかも。そう期待を込めてみる。すると、梯子を昇ったわたしの下、ハイドが梯子をつかんだ。ぐらつきながらも、上手に昇ってくる。梯子を昇るのは四足歩行に似ていると、そこで気づく。


「ソウエン、そのまま昇って行ったら蓋みたいなのがあるわ。鍵とかはないから、力づくで開けて頂戴。私は懐中電灯で上を照らしながら昇っていく。ハイドが落ちそうになったら、何とか支えてみせるわ」

「了解です。もしそうなったら、わたしも上からハイドを引っ張りますから!」


 息が荒くなりながらも、地上まで必死で上り続ける。ハイドも、頑張っていた。ここまでの激しい運動なんて今までしたことないだろうに、かなり一生懸命昇っている。それでもハイドが大分と体力を消耗しているのを見て、わたしは途中からハイドの手を掴み、引っ張りあげるようにして梯子を昇った。


 やがて、地上に出る蓋のようなものに辿りつく。


「ぐっ……」


 力付くで、といっても、かなり重い。というか固い。そういえば海辺でさびてるかも、ってリゼが言っていたな。悪戦苦闘していると、ハイドが横から手を伸ばしてきた。わたしの真似をして、蓋を押している。リゼが下から大丈夫かと聞いてきた。ギギッ、と蓋から音が鳴る。


「もうちょっとで開きそうです!」


 力を振り絞り、蓋を押し上げた。錆と砂がパラパラと顔の上に落ちてくる。ガコン、と蓋が震えた。「横に、ずらすみたいにしてみて!」リゼの指示に従い、押し上げた蓋を横に移動させる。すき間が出来ると、そこに指を入れてすき間を押し広げた。半分以上開くと、ビュウッ、と潮風が入ってきた。


「やった……」


 わたしは先に地上に出て、ハイドの上半身を抱えて引っ張りあげた。抱っこする力は残っていなくて砂の上にハイドを下ろすと、一緒になって浜辺に倒れこんでしまった。リゼも地上に出てきて、荒い息を吐いている。波の音が行ったり来たりして、心地よかった。


「外だ……外に出たよ、ハイド」


 ハイドは波の音に反応しているのか、海のほうをじっと見つめている。月の光がハイドの顔を照らしていて、長い睫の影が頬に落ちていた。帽子から覗く緑と金の髪も相まって、神秘的な印象さえ受ける。

 荒かった息が整うと、わたしはハイドを抱えて立ち上がった。海のほうまで歩いていくと、おあー、とハイドが興奮したように声をあげた。


「リゼ、ちょっとこの辺りを散歩してもいいかしら」

「そうね……防波堤に囲まれてて、この時間には入ってくる人もいないし……いいわよ」


 わたしはハイドを抱えたまま、浜辺をゆっくりと歩いた。ハイドは海が気になるようで、海に近づくと手足をバタバタと動かして喜ぶ。暫く歩くと流石に疲れて、ハイドと一緒に浜辺に座り込む。ハイドが四つん這いで海に近づくとするので、手を掴んで阻止する。


「うー、ううー!」

「まだ海は冷たいよ。というか、海に入ったら危ないよ」


 ハイドが暴れるので、仕方なく立ち上がり、再び抱っこしようとした。するとリゼが、よかったらだけれど、と前置きして言った。


「私にも、ハイドを抱っこさせてくれない?」

「わたしはいいですけど……ハイド、どうかな。このお姉ちゃんに抱っこしてもらう?」


 ハイドに聞いてみるが、まあわかってるのかどうかもわからないので、取りあえず一旦わたしが抱っこして、リゼに渡してみた。リゼは思いのほか上手に、ハイドの体を支える。


「うーん、軽いわね。身長は五歳児くらいなのに」


 ハイドは嫌がりはしないものの、緊張しているのか固まってしまっている。


「怖くないわよー」


 リゼはそう言い、ハイドの体をあやすように揺さぶった。だんだんとハイドは緊張もとけて、リゼの髪で遊び始める。リゼは「やめてー」と言いつつ、楽しそうに笑う。


「小さい子の世話はね、したことあるのよ。きょうだい多いから」


 リゼは慈しむような、でも少し悲し気なような、そんな目をしていた。


「ねえ、ソウエン。私、ハイドのこと、上層部に訴えかけてみる。この子を人間として認めて欲しいって……無碍にされるだろうけれど、もう仕方がないって諦めるのは、やめる」

「リゼ……」

「きっかけをくれてありがとう、ソウエン。私、上層部ととことん戦ってやるわ。この腐った体制を変えてやる。私がやりたいのは誰かのためになる研究だし、私と志の違う研究員だって、人の道を外れてはならないって、そう思うから……」


 リゼの言葉は、わたしの胸に重く響いた。「すごい」と思わずわたしが呟くと、リゼは照れくさそうに笑い、「もうそろそろ時間よ」と言った。一時間なんてすぐだ。海の向こうから、うっすらと空の色が明るくなってきている。耳をすませば、海鳥の声も聞こえた。


「戻ろうか、ハイド」


 来たときと同じルートを通り、研究所に戻る。通路を歩いている途中で、ハイドはわたしの腕の中で寝てしまった。リゼとときどき交代しながら階段を上がり、ハイドの部屋までたどり着く。クッションの上にハイドを横たわらせると、わたしとリゼは長い息を吐き、床に座り込んでしまった。


「疲れた……誰にもバレてない……ですよね?」

「人影はなかったわ。大丈夫なはず」


 ぐったりと壁にもたれていると、ハイドが目を覚ましてこちらにやってきた。わたしの膝に頬を摺り寄せるハイドの頭を撫でる。随分と懐かれたわねえ、とリゼが呟く。


「かわいいでしょう、うちの子ですよ」

「ふふ、若いママね」

「ママって柄じゃないですけど」

「いいえ、立派なママよ。ハイドを人間にしたのは、あなただもの」

「だったらいいですけど……まだ、これからですよ……」


 お喋りするわたしたちを見て、ハイドが首をかしげる。そうか、部屋にわたし以外の人がいるのも、この子にとっては珍しいことか。そう思っていると、ハイドがわたしの顔をじっと見て口を開き、「まー?」と言った。


「……え、ちょっと。聞きました? ママって言いました?」

「落ち着きなさいよ、『まー』よ。ママじゃないわ」

「まー、まあー」

「ママですよ! これ、絶対にママって言ってる!」

「落ち着きなさいって」


 初めて単語のようなものを喋ったハイドに大騒ぎし、ハイドの初外出の日は終わった。


 三日後、ハイドがはっきりとした発音で「そうえん」と言ってきたことにより、この「ママ」発言が本当に「ママ」だったのか微妙なことになった。わたしは毎日ハイドと過ごし、半年が経ったころにはハイドは二足歩行も喋ることもできる立派な子供になった。


 リゼは長い時間をかけてじっくり上層部を説得していった。そしてハイドがすっかり少年らしくなったころ、ついに上層部はハイドの人権を認め、ハイドは檻から解放された。


 そして三年が経つころ。世界はすっかり変わってしまっていた。この国の大衆紙の見出しは、地球の南半球を殆ど支配してしまったシャン・プランツについてこう語っている。


 ――――人類の脅威、シャン・プランツ。もはや地球はこれまでか―――、と。





第二部『ハイドロイドに通ずる』・完

→第三部『リンネの螺旋』に続く。

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