ソウエン8


 その日の終業時間後、わたしは地上二階の休憩室でリゼを待っていた。当然だが、ハイドを外に出すのは禁じられている。バレなければいいわけだが、これまでやってきたことより、かなり難しくなる。少なくともわたし一人では不可能だ。


「ごめん、待った?」

「いえ、それほど」


 報告書を提出したとき、リゼはなんだか忙しそうだった。他の研究員たちも。わたしは集まって会話している彼女たちの中から、町子さんだと思われる人を見つけた。結局、晩御飯も就業中にハイドと食べるようになったので、コルネリウス研究室の皆さんと晩御飯を食べに行くというのは叶っていない。まあ彼女たちもそういうことをしている暇がなさそうだ。休憩室にやってきたリゼは疲れてはいたが、すっきりとした表情をしていた。


「仕事、忙しいんですか」

「ええ。でも、もうすぐ何かがわかりそうなの。前進してる手ごたえさえ感じることができれば、忙しさなんて気にならないわ。研究者にとって怖いのは、停滞することだから。で、相談したいことがあるって聞いたけど、何? やっぱりハイドのこと?」

「はい。……単刀直入に言いますね。ハイドを、あの部屋から出したいんです」

「そっか、いつかはそうなると思ってたけれど……予想より早かったわね」

「難しいのはわかってます。禁則事項ですし、誰かにバレる可能性も高い」

「出すって、どういうレベルで?」

「えっ」

「一度きりでいいの? それとも、これから先、自由にハイドが部屋を出入りできるようにしたい?」

「できることなら……あの部屋にずっと閉じ込めているのはあんまりなんで、出入りできるようにしたい、ですよ、それは。でも取りあえず、一度だけでも出してあげれたらと」

「そうねえ……一度だけって言うなら、可能性はあるわ」

「ほんとですか!?」

「ええ。……ちょっとまだこの研究所、人がいるわね。移動しましょう」


 研究所を出ると、いつものように警備員さんが扉の前に立っていた。ハイドを外に連れ出すなら、この人達にもバレないようにしなければいけないということか。なんだか思っていた以上に難易度が高そうだ。リゼの言う可能性とは、どういうことだろう。


 繁華街。屋台ではない、個室のある店に入った。リゼは晩御飯を食べていないので、料理を頼むが、わたしは杏仁豆腐だけ頼んだ。リゼは「いい?」と聞いて煙草に火をつける。


「困ったことにね、夜にもあの研究所は機能しているのよ。適当に切り上げて帰ればいいのにねえ。あいつらの給料、時給換算すると4$に満たないんじゃないかしら」

「た、大変ですね……でも、夜が駄目となると、いつに……まさか昼は無理ですし」

「早朝よ。夜通し研究してるやつらも、朝くらいになると仮眠を取り始めるから。こっそりやればきっとバレない……。それにハイドが地下三階にいるのを知っているのは、研究所の上層部と私の部下たち……あとは、私たちの研究に関わっている他のプロジェクトの研究員が数名。案外少ないのよ。何も知らない研究員にバレても、上層部まで伝わる可能性は低い。ただ、普通は研究所に子供なんて出入りしないから、外に連れ出すときに見られて、子供がいるって噂が広まるとそこから上層部の耳に入る可能性がある。特に警備員に見られたら、彼等には不審人物の報告義務があるから、危ないわね。適当に言いくるめたり金銭で回収するって方法もあるけど、現実的じゃないわ」

「じゃあ、どうすれば……」

「……今から話す話は、極秘中の極秘ね。あの研究所、地下から外に出るのに、隠し通路があるのよ。私はその鍵を持っている、数少ない人間。そこからならば、誰にもバレずに研究所から出られるわ。ただ、もう数年は使っていないから、地上に出る扉が開くかどうか。古いタイプの扉だし、出る場所は海辺だからかなり錆びついてるはず」

「そうですか……でも、出来ることは出来そうですね」


 料理が届く。麻婆豆腐と回鍋肉。いろんな種類の点心がいくつか。それから大盛りの米。わたしの杏仁豆腐もある。乗っているクコの実をいつものようになんとなく避けていると、リゼが「それ嫌いなの?」と聞いてきた。「好きでも嫌いでもないです」と言うと、リゼは笑って「変なの」と呟いた。確かに自分でもなんか変なことしているなあ、と思う。


「前から思ってたけどあなた、変わってるって言われない?」

「友達がいないんで言われたことはないですね……」

「じゃあ私が言うわ。変な奴ね、あなた」

「失礼な」


 わたしが杏仁豆腐を食べている間に、リゼの大盛りの米が半分以上減っていた。驚くべき食欲である。わたしが変なのを認めるとしても、リゼも大概変だと思うんだけれどなあ。食事を終えたあと、リゼは再び煙草を吸い始めた。副流煙が個室の中に籠る。


「どこに連れて行くか、決めてる?」

「取りあえず海にしようかと。街中は人も多いですし、ハイドの髪が目立つと思うんで」

「事前に短く切っちゃって、帽子でも被せようかしらね」

「そうですね。その方がいいと思います」


 緑色に金が混じったあの独特な髪は、多国籍国家でいろんな人種がいるこの国でもかなり悪目立ちするだろう。大人ならちょっとアーティスティックな人かなって思われるだけですむが、ハイドは五歳児に見える子供だ。アーティスティックじゃ説明はつかない。


 「始業時間の三時間前……六時くらいには戻ってきたほうがいいわね。四時に動き出すとして、行って戻ってくる時間を考えれば外にいられるのは一時間てとこかしら」

「短い……ですね。仕方ないですけど」

「そうね」


 リゼはサービスで運ばれてきた温かい香片茶を啜り、溜息を付く。


 「上層部が、ハイドの人権というか……そういうものを認めてくれればいいんだけれど。頭の固い連中だからね。研究対象として扱うとか言ってるけど、研究対象ならむしろもっと大切にされるべきなのよ。貴重なサンプルなのだから。でも、そういうこともしない。生き殺しの状態で放置して……ほんとに腐った連中よ。金儲けのことしか頭にない」

「なんか……研究者ってもっとストイックというか、真面目なイメージがあったんですけど、上層部ってなるとそうでもないんですね……この国の政治家みたい」

「偉い立場になるとどうしてああも馬鹿になっちまうのかしらね」


 退店するとき、リゼはわたしの杏仁豆腐の代金まで払ってくれてしまった。また奢らされてしまったと思いつつ、「先輩は後輩に奢るものよ」と言われてしまったらそう強く反論もできない。年上の人の面子は守るべきである。

 計画決行の日は、三日後に決まった。その日は他の研究施設との会議があり、上層部の一部がこの研究所からいなくなるからだ。あとは、天気予報が晴れだからというのもある。雨が降るとやりにくくなることも多いだろうし、晴れるに越したことはない。


 計画実行一日前、わたしはハイドの髪を切り、汚れてもいい服を着せた。二足歩行できないハイドを抱えて歩くことになるので、試しに抱っこもしてみた。重たいが、大丈夫そうだ。

 ハイドはわたしに抱っこされるのが嬉しいのか、声を出して笑った。

 かわいいな、と純粋に思う。


「ね、ハイド。大好きよ。ハイドもわたしのこと、好きかしら?」


 ハイドは無邪気にわたしの髪を引っ張って遊ぶだけだ。けれどもそれが何よりの答えだと、自惚れてもいいだろうか。この世にはいろんな家族の形があって、愛にもいろいろある。


 わたしとハイドの奇妙な関係も、そのいろいろに含めてたって、いいだろう。

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