ソウエン7
久しぶりに会った母とは、多少ぎくしゃくしたものそれなりに会話することはできた。母の病気は慢性的なもので、治る、とかそういうものではない。調子がよければ自宅で過ごすこともできるが、わたしは仕事で日中にいないし、伯父夫婦に頼るわけにもいかない。結局、何かあったときにすぐ対応できる病院にいるのが一番なのだ。けれどもそれは母の意志で決まったものではない。母も理解はしても感情面で納得していないだろう。
「ユーヒェンはどうしてるのかね。あの子ももういい歳でしょう。結婚とか、するのかしらね。あの子はどうもそういうことに疎いから……。いい人がいればいいのだけれど」
「ん……きっといるわよ。
「そうね、あの子はしっかりしてるし、あなたとはぜんぜん違うものね」
どうして母はこうもわたしのことを悪く言うのをやめないのだろう。わたしのためを思って言っているのだとしても、さすがに言葉の棘が鋭すぎるのではないか。これでも以前よりかは丸くなったけれど。学校に行くのを辞めたときはひどかった。自分が悪いのだけれども。『どうしてあんたみたいな子を産んでしまったんだろう』と言われたときは、さすがにきつかった。そんなことを言われて、よくもまあ、のうのうと生きてきたものだ。
「
「冷たい子ね。いいわ、伯父さんに迷惑かけないのよ」
「うん、母さん。わかってるわ……」
仕事という言い訳が使えるように日曜日にしか来ないわたしに、母は気づいているだろう。けれどもそのことを嫌味に使ってきたりしないってことは、やはり母もわたしに会いたくないのではないだろうか。わたしの一方的な決めつけではなかったのだ。どうしてだろう。母に拒否されていると思うと、悲しいけれども同時にひどく安心してしまう。そんな自分が、余計に悲しい。
わたしがハイドの世話を始めて一ヶ月が経った。ハイドはわたしが部屋に入ってももう驚きも怯えもしない。トイレもすぐに覚えた。ちなみにトイレは、リゼが廃材を使って作ってくれた。それから床も、冷たいし固いからマットを敷いた。動物のゲージの中のようだった室内は、それなりに人間の居住空間に近づいていた。
食器の使い方はすぐに覚えたし、自分で自分の体を拭いたりして清潔に保つこともできるようになった。リゼが言っていたとおり、知能は高い。五歳児の知能がどの程度のものなのかはピンとこないが、徐々に人間らしい行動にはなってきたと思う。だが、基本的には四つん這いでしか行動しない。
人間の子供が『はいはい』の状態から足だけで『立つ』ようになるには、誰かが教えなければいけないということかもしれない。『立つ』というのは自然的に備わっているものではないのかも。人間の社会性がどのように培われるものなのか、ハイドを通して学んでいっている気がする。それは結構、いやかなり、楽しい。
「おはよう、ハイド。今日の朝ごはんはパンとカットフルーツ。飲み物は烏龍茶だよ」
朝。部屋にやってきて声をかけると、ハイドは毛布の中から出てきてわたしに近づいてくる。大きなものはバレずに持ち込むのが難しいから、ベッドとかそういうのはない。クッションだけ二つ置いてある。一つはハイド専用に、もう一つはわたし専用に。並んで座って、壁にもたれる。袋からパンを取り出すと、ハイドが手を伸ばしてきた。表情の変化は少ないが、それでも嬉しそうにしているのはわかる。
お腹がすいていたのか、ハイドはパンを渡すとすぐにかぶりついた。わたしはコップに烏龍茶を注ぎ、ハイドの前に置く。最近はもう毎日のようにハイドと一緒に一日三食ご飯を食べている。少し前までわたしは面倒だという理由でたまに食事を取るのを怠けていたため、ハイドと過ごすようになってから体重が増えてしまった。リゼには「やっとソウエンが健康的になった」と言われたけれど。
「ハイド、散らかさないようにして」
わたしは床に散ったパンくずを拾う。マットを敷いてから掃除が面倒になってしまった。備品として掃除機が購入できればいいのだが、マットはわたしが勝手に敷いたため難しい。
フルーツはあまり好きではないらしいが、できるだけバランスの良い食事をさせたいため、フォークにグレープフルーツを刺して無理やり手渡す。ハイドは不機嫌そうにフォークを握っていたが、わたしが何でもない顔をしてカットフルーツを食べているのを見て、渋々口に入れた。バランスだけで言えば例の小麦粉と枯れ葉の味がする固形ペレットがばつぐんに良いのだが、なるべくならもう食べさせたくなかった。ハイドも、ペレットより美味しいものがあると知ってからは、エサ入れに入れてあっても食べようとしなくなった。
きちんとご飯を食べるようになってから、ハイドの顔色はかなり良くなり、肉付きもよくなった。最初の衰弱ぶりが嘘のようである。ハイドはカットフルーツを二、三個食べ終えると、毛布を被って横になった。頭をぴっとりとわたしの膝につけている。穏やかな寝顔だ。わたしはハイドの頭を撫でる。この胸の奥から湧き上がってくる感情に名前を付けるとしたら、母性じゃないだろうか。真偽はともかく、わたしはそう呼びたかった。
食事を終えて、ハイドも寝てしまうと、やはりやることがない。わたしはハイドの生活をよりよくするためにこれから何をやっていくべきか考えることにした。二足歩行できるようにはしたい。それから、言葉も喋れるように。
……でも、それは、ハイドにとって幸せなことなのだろうか。
美味しいご飯を食べさせて、部屋の環境を整えて。それだけで十分なんじゃないか。人間らしくすることがハイドにとっての幸せに繋がるとは必ずしも限らない。今はまだいい。五歳児かそこらの知能と、身体能力だから。けれども一年後は? 三年後は? このまま成長して行って、そうしたらどうなる? ……漠然としていて、怖い。
「やっぱり、ずっとこの部屋に閉じ込めたままなんて、駄目だ」
人間ではないハイドがどのくらい生きるのか、本当のところはわからない。けれどももし人間と同じように生きていくとするならば、一生をこの部屋で過ごさせるのはあまりにも非人道的ではないのか。いや、そんな固い理由というより、そうだ。わたしが、ハイドに外の世界を見せてやりたいのだ。世界には美しいものも汚いものもあるけれど、少なくともここよりかは、広い。外に出れば楽しいことがあるかもしれない。美しいものに出会えるかもしれない。とても大切なものができるかもしれない。その可能性は、誰かに勝手に潰されてしまっていいものではない。
わたしが、できること。やるべきこと。ハイドの『今』を救うことができたのならば、これからは『未来』を。切り開いていかなければ。
一時間ほど経って、ハイドが目を覚ました。わたしは絡まっているハイドの髪を手でほどきながら、目をこすってふにゃふにゃ不明瞭な声を出しているハイドに聞いてみた。
「ねえ、ハイド。外に出よう。ここじゃないところに、行ってみようよ」
ハイドはわたしの顔をじっと見て、首をかしげた。言葉はまだ完全に伝わっているとは思えない。けれども、全く伝わっていないわけではなさそうだ。
さあ、これからどうしようか。ハイドを外に出すのは簡単には行かないだろう。計画を練らなければ。
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