ソウエン6


 地下三階に戻るころにはもう昼休みは終了していたので、ひとまずメモのことは置いといてハイドのいる部屋に戻る。いちいち二枚の扉を開けなければいけないのは少し面倒だ。


 「最初に言っておけばよかったわね。あの部屋、チャイム聞こえないのよ。まあ地下三階全体がそもそも聞こえにくいんだけどね。そういうことだから、時間に気を付けて」


 リゼはそう言って、研究室まで戻って行った。地下三階は時間の進みがわかりにくい気がする。人工的な照明しかないからかもしれない。二枚の扉を開けて、ハイドの部屋に入る。ザッ、という床を蹴る音がした。視界の端に、緑の塊。


「そんなに慌てて隠れなくても」


 部屋の隅で、ハイドは毛布を頭からかぶり、しゃがみこんでいた。毛布の隙間から、こっちを伺っているのがわかる。午前中よりかは怯えている感じはしなかった。わたしは少し離れたところに座り、スープの器を取り出す。蓋を開けると薄く湯気が出た。まだ十分温かくて、おいしそうだ。トマトスープには豆がたくさん入っていて、コンソメスープには大きく切ったキャベツやにんじん、じゃがいもがごろごろ入っている。わたしはひとまずコンソメスープの方をハイドの前に置いてみた。毛布がびくりと震える。


「ハイドはあったかいもの、食べたことないかな。おいしいよ」


 一応だがスプーンも前に置いておいた。使うとは思えないが、なんとなくだ。わたしはエサ入れに入っている固形ペレットを一つ手に取って観察してみる。うん、まずそう。人間の食べるものではないよなあと思いつつ、どれほどのもんか一口かじってみた。


「小麦粉の塊に……枯葉を混ぜたみたいな味がする……」


 わたしは口の中に入っている分だけを何とか飲みこむ。口の中の水分が一瞬にして消えた。不味いというより、間違えた、って感じだ。ハイドはこんなものしか食べさせてもらえていなかったのか。可哀想とか腹立たしいとか、そういうのを超えて虚しさを感じる。

 わたしはあえてあまりハイドのほうを見ないようにしながら、トマトスープを食べた。食は人間の三大欲求の一つだ。わたしはどちらかと言うと睡眠のほうを大切にしているけれど、リゼは食欲のほうを重視しているらしい。どこの屋台が美味しいかとか、〇〇という肉の部位が美味しいとか、そういうことをよく知っている。そしていくら食べても太らない。ちら、とハイドのほうを見ると、ハイドは毛布から顔を出してスープに鼻を近づけていた。匂いを嗅いでいるらしい。声をかけるかどうか迷ったが、びっくりされてはいけないので黙ってトマトスープを食べる。するとハイドが一瞬だがこちらを見た、気がした。わたしがトマトスープに目をやる。ハイドがこちらを見る。わたしがハイドを見る。ハイドは視線を逸らす。なんだか警戒心の強い野良猫に餌をやったときみたいだ。わたしはハイドに全力で関心を向けつつ、いかにも気にしてない体を装ってトマトスープをゆっくりと食べ続けた。

 そして、そろそろ食べ終わる、となったとき、視界の端でハイドが動いた。気付かれないようにそっと横目でハイドを見る。驚いたことに、スプーンを手に持っていた。そしてそのスプーンをコンソメスープに入れた。しかしうまくスプーンを使えず、周囲にコンソメスープが飛び散った。ハイドはあっさりとスプーンを諦め、スープの中に手を入れた。「熱いよ」と思わず声をかけてしまった。ハイドがパッと振り返りこちらを見る。びっくりした様子ではあったが、怯えはない。刺激しないようにじっとしていると、ハイドは再びスープに手を伸ばした。そういえばもう時間が経っているから、熱くはないのか。

ハイドはスープからニンジンを出し、恐る恐るといった様子でそれを口に入れた。


「食べた……」


 最初の人参を食べ終えるともう抵抗感がなくなったらしい。お腹もすいていたようで、あっという間にコンソメスープの中身はなくなった。ハイドの口の周りやら、床やら、飛び散ったスープで大変なことになってはいるが。

 わたしは肩から下げていた鞄からハンカチを取り出し、そっとハイドに近づいた。中腰にして、あくまで穏やかに。自然な笑顔ができていればいいが、意図して笑顔を作ることなんてないから上手くできているかはわからない。ハイドは警戒したような目でこちらを見ているが、毛布に隠れたりはしなかった。まずは床を拭き、ハンカチを折って綺麗な面を出す。


「ハイド、ちょっと触るね」


 優しい声を意識して話しかける。意味がわかっているのかいないのか、ハイドはおとなしくじっとしている。ハンカチでハイドの口の周りを拭く。改めて顔を見ると、痩せていて痛々しい。肌も荒れていてカサついているし、唇の端は切れて血が固まっていた。わたしがハンカチを仕舞ったのを確認すると、ハイドは再び毛布を頭から被ってしまった。


「やっぱそう簡単にはいかんか」


 しかしまあ、初日にしてはかなりいい感じではないだろうか。ちょっとした満足感を得つつ、ハイドが反応してくれなくなるとやることがなくなることにも気づき、さあ残りの時間をどうしようかと思う。ノートの、まだ読んでいない部分に目を通しておこうか。

 一時間くらい経っただろうか。わたしはもう既にノートを全て読み終えてしまい、鞄に入れていた小説本を読んでいた。慣れてしまえばこの部屋にいるのも落ち着くもので、結構集中してしまっていた。そして気がつくと、部屋の中がアンモニア臭かった。ハイドのいるところを見る。毛布の周りに黄色い水たまりができていた。


「そ、そうか……そりゃ、そうだよな、そういうこともあるよな……」


 この部屋、見渡してみればトイレすらない。ノートには部屋の掃除の仕方が書かれていた。つまり排泄物は垂れ流しということだ。とことん動物扱いである。薄々思っちゃいたが、この研究所の上層部はかなり冷酷というか……あんまりにも、あんまりである。

 掃除用具を外に取りに行き、戻ってくるとハイドは横になって眠っていた。自分の排泄したものから遠く離れて。やりやすくて助かるが、もしかしたらこいつ、掃除してもらえることを理解しているのではなかろうか。毛布は体の半分にしかかかっていなくて、顔もちゃんと見える。さっきよりも顔色が良くなっていた。やはり食べるって大事だ。

 雑巾でちゃちゃっと床掃除してしまう。こんなこと、二年前の震災のとき、トイレに溜まった他人の排泄物をゴム手袋をはめた手でゴミ袋に詰めていったことに比べれば、なんてことはない。水道が復活するまで、ボランティアの人達と共にそうやって汚物を処理していたのだ。もっとも、嫌がってやりたがらない人だって沢山いた。わたしがそういうことを率先してやっていたのは、震災から助かったという変な罪悪感を消したかったからだ。


「でも……やっぱトイレは必要だろ。ヤーイーですらトイレにしてたんだもの」


 ヤーイーは数年前に家で預かっていたハムスターだ。普通のハムスターの二倍くらい大きかったそいつはなかなか賢くて、きちんと決められた場所で糞も尿もしていたのだ。しかしトイレとか簡単に設置できるもんじゃないだろうし、だいたい頼んでも作ってくれないだろう。

 不本意だが、代わりになる箱とかを持ってくるしかない。禁則事項には不必要なものを入れるな、とある。今までなかったものを入れるのはいけないのかもしれない。しかしトイレは不必要なものではない。独断だが、わたしがこう思うのは変じゃないはず。


「ふっ、ふふふ……。いいわ、とことんやるって決めてるんだから」


 上層部が何だ。研究者の立場が何だ。わたしはただの元事務員だ。この研究所の決まりだとかそんなことは知ったことではない。わたしはただ、リゼの頼みごとを叶えればそれでいい。つまり、好きなようにやってやるのだ。もうハイドはわたしの中の大切なものにすっぽりはまってしまった。元々わたしには大切なものなんて本当に少ないから、新しくはいってきてくれても大歓迎である。余裕たっぷり、キャパシティー十分だ。


「待っててね、ハイド。絶対に君を救って見せるから。約束するわ」


 終業時間の一時間前に、わたしはハイドの部屋から去った。研究室に戻り、今日から自分の席となったところで報告書を書く。提出すると、リゼはそれに目を通して微笑んだ。


「期待以上よ、ソウエン。まさかここまで上手くいくとは」

「はあ……報告書に思いっきり禁則事項破ってること書いちゃいましたが……」


 この研究室に居る人たちはリゼの味方だろうけれど、それでも誰が聞いているのかわからないので小声でリゼに言う。リゼもわたしの耳元で、囁くように言う。


「これは私しか見ないから大丈夫。上に出すのは私が適当に書くわ」

「いいんですかそれ」

「バレなきゃいいのよ。……さあ、今日は私も早く帰れるわ。晩御飯、一緒にどう? 他の研究員たちも一緒だけど」

「それはちょっと……また誘ってください」

「また誘っていいの?」

「いいです。そのときまでにわたし、心の準備しておきますから」


 今すぐにとはいかないだろうけれど、わたしも少しずつ変わっていかなければいけない。上司、リゼ、ハイド。伯父家族に、兄。それから、母……。少ない人間関係で生きるのはとても楽だけれど、怠惰でもある。ずっと自分を変えることから逃げていたけれど、ハイドと接することで思ったのだ。わたしだって誰かを支えられる強い人間になりたい、と。

 一人で研究所から帰る途中、わたしは病床の母を思った。仕事を言い訳にろくにお見舞いに行かなくなってどれだけだろう。母だってわたしの顔なんて見たくないに決まってる、なんて勝手な言い訳をして。このままじゃ駄目だ。このまま、逃げるだけなんて。


「次の休日には、お見舞い、行く……」


 決意が鈍らないように、声に出してそう言った。屋台の光が、いつもより眩しかった。

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