ソウエン5
「性別はオスであると思われる。……思われるって何だ。外見的特徴から判断するに、人間のオスが持つ生殖器に似た……あー、はい、わかった。この子は男の子ってことね」
男の子の名前って、どんなのがあったっけ。タイワン人ならハオユーとか一般的だけど。米国人名だと、ジョンとかヘンリーとか? ニホン人名だと……シノダ……は名字か。あの人、実際のところ兄とはどういう関係だったんだろう。綺麗な金髪をしてたなあ……。
「駄目だ、また余計なこと考えてる。名前名前……おおい、隠れてないで君も考えてくれよー。せめて顔を見せてくれたらインスピレーションで決まるかも……」
毛布の上から頭に触れてみる。するといつの間にか眠っていたのか、手の力が抜けていてパラッと頭の上から毛布が落ちてしまった。ラッキーだ、これでじっくり顔を見れる。
「わあ、睫毛ながーい……。成長したらこれかなりハンサムになるんじゃないの」
顔の掘りは割と深くて、どちらかと言うと欧州か欧羅巴系の顔立ちだ。だったらそっちの国の名前のほうがいいだろう。しかしジョンとかヘンリーって感じではない。他に何かいい名前はないだろうか。考えながら、ノートをめくる。すると途中のページから、ぱらりとメモが落っこちた。拾って見てみると、走り書きのような文字が書いてあった。
「ミス・ユカリに本を返す。『ジキルとハイド』 忘れないこと。……なんだこりゃ」
誰かの個人的なメモだろう。忘れないこと、とか書いてるのにこのノートに挟まってたら意味がないんじゃなかろうか。しかしこれは何とも都合がいい。ありがたがっておこう。正直名前のことでこんな長いこと悩んでるという状況にわたしは疲れているのだ。もう、ジキルかハイドのどちらかでいいだろう。どんな内容の本だかちっとも知らないが。
「どちらかと言うとハイドかな。さっきからずっとハイド(hide)してるし」
……洒落かよ。適当に決めたら駄目だとか言っていたのは誰だ。でももう、とりあえずハイドと呼ぶことに決めてしまおう。だってあんなに都合よくメモが挟まっていたのだもの。偶然とはいえ、こうなるともう神様からの啓示か思し召しとしか思えないし。
「今日から君はハイドくんだよ。よろしく」
眠っているのを起こさないように小声でそう言って、床から立ち上がった。ずっと座っていたせいでお尻が痛い。ふと時計を見ると、もう昼を過ぎていた。昼休みを告げるチャイムはこの部屋には届かないらしい。
これは時間内には外で食べて帰ってこれないだろう。テイクアウトでいいか、と思い、ハイドに「また後でね」と言って部屋から出た。退出用の数字を押し、自動ドアを開ける。閉じるときは何もしなくてよくて、鍵も勝手にかかるらしい。一体どういう構造になってるんだか、わたしにはさっぱりわからない。
携帯電話にリゼからのメールが二通入っていた。【もう昼よ。一緒に外に出る?】【メール見てないでしょ。昼の内に気づくかしら。私は昨日と同じ店にいるから、よかったら来なさいよ】昨日はスープ・デリの屋台だったはず。わたしは急いで階段を駆け上がり、研究所を出た。地下三階から走って地上まで出るのはなかなかきつかった。スープ・デリの屋台につくと、リゼがカウンター席の端で煙草を吸っていた。灰皿に五本も吸い殻がある。
「ごめんなさい、携帯見てなくって」
「ソウエン、何も食べてないでしょう、これ、あげるわ」
「ええっ」
リゼに、袋を渡される。中を見ると、持ち帰りようの紙の器に入ったスープが入っていた。トマトスープっぽいものと、コンソメスープっぽいのと二種類入っている。
「一人分にしては明らかに多いのですが、これってもしかして」
「うん、あれにあげて。食べるかどうかわからないけれど……」
「禁則事項破ってますよね」
「あなたが自己判断であげたことにするから大丈夫」
「わたしのせいになるじゃないですかそれ……。でも、ありがとうございます」
「……あの子のこと、ほんとは研究対象になんてしたくないのよ。そう思っているのは私だけじゃなくて、他の研究員もそうなの。少なくとも私の部下はそうよ。研究所だと誰が聞いているかわからないから、自由に動けないけれど……」
「ジレンマってやつですね。わかりました。わたし、リゼのためだけじゃなくて、他の研究員の人達の分も、ハイドと交流するようにします。ハイドが受け入れてくれるかどうかはわからないけれど……」
「ハイド? あの子に名前をつけたの?」
「はい。あ、そうだ、ノートにメモが挟まってましたよ」
白衣のポケットに入れていたメモをリゼに渡す。それを見て、リゼは吹き出した。
「ジキルとハイド! これから名前を取ったの?」
「はい。あと、ずっと毛布に隠れてたんで、シャレです」
「なあんだ、面白いわね。このメモ、たぶん
「じゃあそれ、町子さんに返してあげてください」
「そうねえ」
リゼは笑顔でメモをわたしのポケットに戻した。ちょっと、と思わず声をあげる。
「自分でお渡しなさいな。町子なら研究室にいるわ。日系で、眼鏡をかけた女の子。歳はあなたと同じか一つ下。お節介かもしれないけど、ソウエンももっと私以外の人と仲良くなるべきだわ。大丈夫よ、町子、良い子だし理系のくせに明るいもの。気が合うと思うわ」
「でっ、でも……わたし、自分から友達とか作ったことないし……」
「ハイドと仲良くなるよりかは簡単だと思うんだけれど」
「それはー……そうかも、しれないですけどー……」
わたしは悩んで、結局、研究所に戻る途中でリゼにメモを再び渡してしまった。リゼの言うことだから、本当に町子さんはいい人なのだろう。けれども、友達になるなんて無理だ。同年代の子ならなおさら。
学校に行かなくなったのは学校の体制が自分に合ってなかったからで間違いないのだけれど、きっかけは同級生からの他愛ない嫌がらせみたいなもので……。そんな小さなことを引きずっている自分が情けないのはわかっている。
「ごめんなさい、リゼ。心配してくれたのに」
リゼは「いいわよ」と軽く言ってメモを自分のポケットに入れた。わたしがリゼと仲良くなったのは、彼女のほうから声をかけてきてくれたからだった。
無愛想な言葉しか返せなかったわたしに、親しく話しかけ続けてくれた。リゼには感謝してもしきれない。
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