ソウエン4

 予定通りの二週間後。地下三階のリゼの研究室で、わたしは支給された白衣を身にまとった。ちらちらと、リゼの部下であろう研究員たちの視線がこちらに向かっているのが分かる。うん、自分でも場違いだと思う。しかし今更逃げるわけにはいかない。半ばリゼに流された感は否めないが、最終的には自分で決めたことだ。


「リゼ、ともかく……わたしは何をすればいいんでしょう」

「表向きには、あの生き物の世話係ってことになるわね」


 リゼは一冊のノートをわたしに渡した。開くと、一ページ目にメモ用紙が貼りつけられている。それには十桁の数字が書かれていた。


「鍵番号よ。これで部屋のドアが開くから」

「ノートに、あれの世話の仕方というか……これまでどういう風にやってきたかが書かれているわ。これからあなたがどうやって世話をするかは任せるけれど、まあ参考にして」

「わかりました。……この、禁則事項っていうのは?」

「私はあなたの自由にして欲しいと思ってるんだけれどね……。まあ上がいろいろとうるさくて、あれやるなこれやるなって指図してきてるのよ。出来る限り守ってね」

「出来る限り?」

「だって上からの指示を全部を守ってたら、何一つ事態が動かないんだもの」

「つまり、ルールを破るならバレないようにしろってことですね」

「自分の首を守りたければね」

「了解です。無職になるのはわたしも嫌ですし、気をつけます」

「出来る限り私もあれの様子を見に行くようにするけれど、基本的には一人だと思って。あと、終業時間前にはここに戻ってきて、報告書を書いて私に提出するようにしてね」

「はい。……まあその、上手くいかなくても、怒らないでくださいよ」

「すばらしい結果を期待しているわ」

「ええー……なんてこったい」


 わたしはノートと鍵を持って、研究室から出た。階段を降り、地下三階の最奥へ。廊下を進み、あの子のいる部屋の前で立ち止まる。番号を入力して鍵を開ける前に、ノートに書かれた禁則事項に目を通す。禁則事項は沢山あった。まず、部屋の外に出してはいけない。エサ(ひどい書き方だ)は決められたものしか与えてはいけない。部屋に不要なものを持ちこんではいけない。外の情報を教えてはいけない。いけない、いけない、いけない。「いけない」ばかりだ。確かにこれを守っていたら何もできない。


「必要以上の接触をしてはいけない……必要以上って何さ。ぼんやりしすぎじゃない?」


 わたしが以前にあの子の背を撫でたのは、それは必要以上の接触になるのだろうか。いや、あの子には必要なことだっただろう。わたしのエゴと言えばそれまでだけれども。



 ノートに書かれた暗証番号を入力し、開錠する。ポーン、というインターフォンの音。自動ドアが開き、畳一つ分くらいのスペースを開けて、もう一枚の扉が現れる。この厳重な設備は関係者以外の人が入れないようにする目的……以上に、中にいるあの子が室内から出てこれないようにするためのもののように思えた。まるで牢屋か檻みたいだ。

 室内に入る。あの子は毛布に包まり、奥側の角に体を横たわらせていた。眠っているのだろうか。そっと近づいて見てみると、毛布は不自然に引っ張られていた。中から毛布を握り込んで、毛布を剥がされないようにしているようだ。つまり、起きている。わたしが部屋に入ってくるのに気づいて慌てて毛布にくるまって身を隠したということだろう。


「うーん、どうしたもんか」


 無理に毛布を剥がして怖がられてもいけない。以前ここに来たときの様子を思い出す。人間に対して酷く怯えているような、身体の震え。これはまず、わたしに敵意がないことを示す必要がありそうだ。けれどもどうやって? 意思疎通はできるのだろうか。知能は確か人間の五歳児レベル。

 ……五歳児って何を考えて何を喋って何をするものなの? 小さい子供と接した経験なんてわたしにはない。しかし、そうか。これは見知らぬ子供といきなり交流を図らねばならない、という状況なのか。じゃあまず初めに何をするか。第一声に何て言うべきか……挨拶かなあ。あと自己紹介?


「あの、こんにちは。初めまして……ではないですね。覚えてるかわからないけど……」


 返事はない。毛布もピクリとも動かない。無反応である。しかし取りあえず続ける。中腰で立っているのがつらいので、盛り上がった毛布の隣に座る。床は固くて冷たかった。


「改めまして、わたし、ソウエンと言います。燕の園って書いて、ソウエン。タイワン人だけど、生まれはこの国で、タイワンには一度も行ったことないの。……ええと、趣味は……趣味ってわたし特にないんじゃないかな……あ、読書とか好きです。難しい本は苦手だけれど。最近読んだのは、ノーサンガーアビー……。うん、こんな話しても仕方ないね」


 五歳児とどんな話をすれば、という以前にそもそもこの五歳児は普通の五歳児ではない。生まれてこの方、研究所から……下手したらこの部屋から出たことがないのだ。わたしの出身の話も本の話も通じないはず。ますます何を話せばいいのかわからなくなってくる。


「なんか最近、わからないことだらけというか、わからないことしか起こってない……」


 だんだん、ペットに話しかけている飼い主のような気持ちになってきた。そういえば中学生のころ、兄が家にたくさんの生き物を持ち帰ってきたことがあった。どんな事情があったかは知らないけれど。灰色のリスとかでっかいハムスターとか、いろんなのがいた。どの子にも名前がついていないみたいだったから、わたしが考えてつけたのだっけ。


「あれ、そういえば君、名前は?」


 『生き物』とか『それ』とか。リゼはこの子を代名詞でしか呼んでいなかった。わたしはノートをめくり名前を探すが、どこにも書かれていなかった。研究対象に名前をつける必要はない、ってことだろうか。しかしいくら人間ではないと言ったって、そんな簡単に割り切れるものなのか。他の研究員はともかく、リゼには無理だろう。


……いや、だから、なのかもしれない。名前をつけてしまったら愛着が沸いてしまうから。


 「あの子を助けて欲しい。……私たちは研究員だから、優しくできない……って言ってたっけ。つまり、わたしはリゼにできないことをするのが役割ってことで……そうね、名前をつけてはいけない、なんてことは禁則事項には書かれてないし。書かれてないよね? うん、書かれていない。名前つけよ。何がいいかな。ねえ、君。名前、何がいい?」

「…………」


 いや、わかっていたけれども。ちょっとだけテンション上げて言ってみたのに。まあ本人に聞いても仕方ないか。名前……どうしよう。リスとかハムスターにつけるんだった適当に響きがよかったり可愛いかったりすればそれでよかったけれど、人間に、いや、人間に見えるもの、につけるとなるとちょっと難しい。この子がどういう生き物なのか調べるのは研究者に任せるとして、わたしはあくまでもこの子を人間として扱いたかった。リゼが望んでいるのも、そういういうことだと思うから。


 わたしはノートをめくり、何か名前のヒントになるものがないか探してみる。

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