ソウエン3
二年前に起きた、あの大きな地震。その直後に『それ』は発見された。と言っても今の姿ではなく、最初に見つかったのは巨大な植物の実、と思われるものだった。その実は近くの大学にある研究施設に送られたものの、地震の直後でまともな研究が行えないため、大学研究施設と繋がりの深い、研究所に送られた。
未知なる植物の実は、十年前にシャンウェイ博士によって熱帯雨林で発見された、シャン・プランツと呼ばれる植物の実だと推測された。しかしこれほどまでに大きく育った例は他になかった。実の研究は、この研究所の極秘プロジェクトとなった。
しかしここにやってきて一ヶ月後のこと、実は急激な変化を始めた。実は膨張を始め、ひび割れた。そしてそこから、人間の子供のようなものが、出てきた。様々な研究をしてきたこの施設の研究員でさえ、驚愕せざるを得なかった。
「シャン・プランツについては、知ってるわよね?」
「はい。でも、たぶん、他の一般の人達よりかは知らないと思います。わたし、勉強というのをまともにしたことがないので。テレビのニュースとか新聞とか、見はしますけど」
「十分よ。この研究施設は海洋生物について調べている体になっているけれどね、実はもうそれはほんの一部でしかやっていないの。世界はシャン・プランツで持ちきりだから。当然よね、もうシャン・プランツは発見された土地の半分以上を覆ってしまっている。もう何十種類の植物がシャン・プランツに滅ぼされているの。この国にはまだ脅威は届いていないけれど。……それが問題でもあるの。だって実が発見されてしまったのだから。そこからさらに人間のようなものが出て来るなんて、冗談みたいな話よ。私たち研究員も困ってしまって。あれをどうすればいいのかわからない……研究すればいいってもんでもないのよ。そりゃあ、研究はするけれど、でも、もうわからない……今はただ、地下で生かし続けているだけ。なまじ子供の姿をしているものだから、さすがに辛いわ。人体実験をしてるみたいで、気分が悪い。何より、……誰も言わないけれど、みんな……怖れている」
「怖れ……ですか」
「……知能は高いわ。人間の五歳児と同じくらいか、あるいはもっと。身体だって、出てきたときは胎児のような姿だったのに、たった二年であれだけ大きくなった。私たちのプロジェクトは、あれが何なのか調べて、人類にどういった影響を与えるのか考察すること。シャン・プランツからどのように発生したのか、知ること。けれども何もわからないのよ。あれが何なのか、もうわからないの。藁にもすがりたくなるわ」
リゼは顔を手で覆い、項垂れた。泣いてはいないけれども、彼女が精神的にかなりまいっていることはわかる。わたしは彼女の肩に手を伸ばしかけて、やめる。あの生き物の背を撫でた感触がまだ手に残っているような気がして、なんだか彼女に触れるのがためらわれたのだ。裸の人間の背を撫でたことなんてないけれど、それでも人間と同じ皮膚をあの生き物が持っていることはわかった。いくら人間ではないと主張しても、それが事実だとしても、それでもわたしたち人間は、人間の形をしたものを人間ではないと認識することはきっと難しい。嫌悪感なのか同情心なのか、それとも何か別の感情からか……。
「聞いて良いですか。藁にもすがりたいって気持ちでわたしに助手を頼んだのはわかります。けれども、わたしじゃなくても……良かったと思う。どうしてわたしなのか、こじつけでもいいから理由を下さい。わたし、馬鹿だから……使命感がないと、動けない……」
「こじつけなんかじゃない理由があるわ。ごめんなさい、藁に例えたりして。違うのよ、あなたなら何とかしてくるんじゃないかって思ったの。実からあれが出てくるところを見ていない人間が欲しかったっていうのはそうなんだけれど、それだけじゃない。あの生き物を……あっ、あの子を、助けてやって欲しい。私たちじゃ無理だから。私たちは研究員だから、研究対象のあの子に手を差し伸べられない……優しく、してやれないのっ……」
リゼの両目から、とうとう涙がこぼれた。わたしはそれに、ようやく安心感を得た。ああなんだ、やっぱりそうだったのだ。わたしがあれ……いや、あの子の背を撫でたときにリゼがした、あの痛みを耐えるような顔。あの子の背を撫でたかったのは、誰でもないリゼだったのだ。よかった、わたしが慕うリゼ・コルネリウスは、やっぱり優しい人なのだ。
「まかせて。……とは言い切れないけど、わかったわ。出来る限りのことをする」
リゼにそう約束し、わたしはソファから立ち上がった。窓の外はもう暗く、終業時間はとっくに過ぎてしまっていた。一階まで一緒に階段を下り、踊り場で別れる。リゼは今夜も自分の研究室に泊まるらしかった。地下へ続く階段を下りて行く、ピンと伸ばされた背。さっきの涙は幻だったんじゃないかと思うくらい、リゼの背中はもう何の隙もなかった。
わたしは事務室に戻り、自分の席に置いたままになっていた鞄を手に取る。今日は午前中しか事務の仕事をしていないのだけれど、大丈夫だったんだろうか。周りを見渡すが、同僚の子たちはもう誰もいなかった。奥の席に一人で作業をしているのはわたしの上司だ。もしかしてわたしの残した分の仕事をしているのではないか。わたしは机の上に再び鞄を置き、上司の元へ行く。上司はいつも通りのクールな無表情で、書類に目を通していた。
「……あの、すみません。今日の午後、仕事しなくて……」
上司は視線だけを上げ、わたしの顔を見た。溜息と共に「いいわよ」と言われる。
「コルネリウス女史のお達しじゃ、どうしようもないからね」
「……それなんですけど、わたし、コルネリウスさんの助手になっちまいました」
「そりゃまた、突飛な話ね」
トンッ、と上司は書類をまとめて側面を机の上で叩き、束を整えた。「もうこれで仕事は終わりよ」「あ、はい。すいません、わたしの分、やらせましたか」「それはちゃんと明日のあなたに残してあるわ」「わあ」「急ぎの書類は午前中に全部終わらせてくれてたからね」わたしは明日の自分のスケジュールを考え、少々憂鬱になる。そういえばリゼの助手になると決めたのはいいが、これまでの事務の仕事は一体どうなるのだろう。元々ここの事務員は少ないし、代わりの誰かがすぐに見つかるとも思えない。いつから助手として働くことになるのかもはっきりとしていない。明日にでもリゼにきちんと聞いておかなくては。
「コルネリウスさんくらいなのよね、ちゃんとプロジェクトの運営費考えてくれてるの」
「他の人、けっこう無駄遣い多いですもんね……」
「煙草代を経費で落とそうとしてたりね。小賢しいったらありゃしないわ」
上司と一緒に研究所を出る。晩御飯でも一緒に、と誘われたが母と食べるからと言って断った。ほんとは母は病院にいるわけで、一緒に食べるわけがないのだけれど。上司はいい人だ。物覚えの悪いわたしを、どうにか使えるようになるまで育ててくれた。けれどもどうしてもわたしは母と歳の近い人に苦手意識を持ってしまっていて、距離を縮めることができない。あちらが踏み出してくれているのに、わたしはその度に一歩下がってしまう。
母とわたしとが上手くいかなくなったのはいつからなのだろう。
学校に行かなくなったのが一つの区切りではあった気はするけれど、けれどもそのずっと前から、わたしの中で母は何か重たいものになってしまっていたと思う。幼いころ、わたしは母と同じものでできていた。言いなりと言えば聞こえが悪いけど、でも実際問題、わたしの記憶上では、わたしは母に何かものを主張したりだとか、我儘を言って困らせたりだとか、そういう他の子供たちが家庭でやってきたようなことをしたことがない。
わたしは今更ながら、リゼの助手になったことに不安を感じ始めた。正しい愛を知らない、正しい育ち方をしていない、そんなわたしに、あの子を救うことができるのか。考えても考えても、答えは出なかった。
翌日、上司とリゼとで話し合いが行われた。わたしは二週間後に正式にリゼの研究室でリゼの助手として働くことが決定し、事務所には新しく雇われた十八歳の女の子がやってきた。その子に取り合えずの業務内容を教えながら、わたしはどこか脱力感のようなものを覚えずにはいられなかった。
わたしに替わる人なんて、あっけないほど簡単に見つかるものだったのだ。最初からわたしの居場所なんてなかった。けれども思えばわたしの人生、いつだってそんなものだったのかもしれない。家庭でも学校でも職場でも。結局、大半の人間は確固たる理由を持って存在しているわけではない。唯一のものなんて、ほんとはどこにもないのだ。ましてや、それを自分から掴もうとしない怠惰な人間なら、よっぽど。
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