ソウエン2
研究所に戻るころには昼休みは終わろうとしていた。リゼは事務長、つまりわたしの上司に当たる人に「ソウエンをお借りします。あとで返しますから」と軽く言い放ち、わたしに彼女の研究室まで付いてくるように言った。
流されつつも、わたしはさすがにこれはまずいのではないかと思い、「ちょっと待ってくださいよ」とおざなりに抵抗する。リゼは早足でわたしの前を歩き、地下へと続く階段を下りながら振り返ることもなく言う。
「これでも私、焦ってるのよ。藁にもすがりたいの」
「え、いや、藁ですかわたし」
「その藁が、奇跡を起こすかもしれない。研究者っていうのはあらゆる可能性を考えて、それらを検証していくものなのよ。少しでも希望があるなら、わたしは何だってする」
きっぱりとリゼから放たれたその言葉は、素直にかっこよかった。わたしはもはや何も言うまいと思い、小走りでリゼに着いて行く。事務室があるのは一階で、休憩室は二階だ。だからわたしはこれまで地下に行ったことがない。リゼは地下三階の扉の前で立ち止まったが、階段はまだ下に続いていた。一体どのくらい地下に部屋があるのだろう。上は二階までで、屋上には貯水機が置かれているだけだが。地下三階の扉は見るからに分厚そうだった。
リゼは社員証と共に首から下げていた鍵で扉を開ける。ゴゥン、と、開け放たれた衝撃で鉄製の扉が深い音を立てた。わたしは思わず唾を飲み込む。この先に何かがある、と直感的に分かるような、そんな空気が扉の向こうの廊下から流れてきていた。
「大丈夫?」
リゼがわたしの顔色を見て心配そうに言う。わたしは反射的に大丈夫です、と返したが、いまいち自分が大丈夫なのかそうでないのか、わからなかった。さっきよりも落ち着いた足取りでリゼは歩き出す。廊下に人はいなかった。誰にもすれ違うことなく、廊下の一番奥まで進む。そこにはまた、扉があった。さっきの扉とは違い、鍵穴もなければノブもない。オートロックマンションの玄関にあるような、番号を入力する装置(正式名称不明)のようなものが、扉の横にはあった。
リゼが素早く番号を入力すると、それこそマンションのようにインターフォンみたいな音が鳴った。そして数秒もしないうちに、扉が引き戸のようにスウッと勝手に開いた。SFに出てくる自動ドアみたいだ。まさか実在するとは。
「すごいでしょこれ。この研究所、こんなとこにばっか金かけてるの」
「はあ、なんか、未来ー、って感じがします」
「これが最先端じゃないけどね。本国の技術はもっとすごいもの」
「本国? 米国ですか?」
「まさか。ニホンの方に決まってるじゃない」
自動ドアを抜けると、さらに扉があった。こちらは鍵もかかっていなくて、ノブもある。リゼは扉を開けようとして、少し躊躇うようにわたしを見た。この先に、さっき感じた「何か」があるのだろう。嫌な予感なんてものはしないけれど、そもそもそんな勘なんてアテになるのだろうか。
わたしは分からないなりに、覚悟を示すようにリゼに頷いた。それを見て、リゼは一気に扉を開く。風、が吹いてきた気がした。薬品の、湿った濃いにおい。
室内は薄暗い。地下に自然光なんて入るわけがないから、照明が調整されているのだろう。白い床。実験動物に与えるような固形食が入った容器。その横には水が入った容器。奥には古ぼけた毛布があって、その反対側にあたる部屋の角の小さな空間。
そこに、『それ』はいた。
四肢をたたみ、床に顔を伏せ、怯えるように全身を震わせている、何か。一見したところ、動物のようだった。どんな動物かははっきりしていないけれど、四足歩行する、動物。室内が薄暗いせいでよくわからないが、毛に覆われている。いや、覆われてはいないのか。頭の毛……髪? が長くて、全身にまとわりついているだけだ。
毛色は黒、いや、緑だけれど、ところどころ明るい金色が束になって生えている。四肢に毛はなくて、骨や血管が浮き出ているほど細い。室内は狭いから、『それ』の荒い息遣いまでしっかり聞こえる。
わたしが言葉を失っている間に、リゼはおもむろに『それ』の前にしゃがみこんだ。頭を持ち、顔を上げさせる。やせ細った頬に、涎の垂れる口。瞼は半分ほど開き、よどんだ黒い瞳を覗かせている。リゼが手を離すと力なく頭は床に落ち、緩慢な手が顔を隠した。
「リゼ、あのう……それ、は」
「人間の子供ではないわ。それに似た、異なるものよ」
「異なるものって……。でも、見た目は人間の……幼児に、見えるのだけれど」
「そうね、人間の外見年齢に照らし合わせると、五歳くらい」
冷たい床で蹲り、細い体を小さくして体を震わせている『それ』をわたしは見下ろす。人間のように見えて、人間ではないもの。人間とはされていないもの。人間としての尊厳を失くしたもの。打ち捨てられた死体のようにストリートに転がるいくつもの子供達。行き場所のなかった彼等、ゴミだらけの裏路地。雨に混じる腐臭。生ぬるい吐瀉物――――。
「うぐっ」
「ソウエン? ちょっと、どうしたの!」
「ごめ……違うの、変なこと思い出しちゃって……」
脳裏に散らばるいくつもの記憶のパーツが、突然一体になって再生される。ずっと忘れていて、忘れていることさえ忘れていたものだった。わたしがずっと小さな子供のころ、故郷のあの街は今よりずっと治安も悪くて、アジア人街なんて少し行けばすぐにスラムのようになっていた。そしてそこには、親の居ない子供達だっていた。衛生局が立ち入ることさえ滅多にないそこでは、生き延びれなかった彼らの末路だって、普通に転がっていた。
目の前で蹲る『それ』は、まるでスラムで今にも息絶えそうに転がっている彼等と同じようにわたしには見えた。室内温度は快適だったはずなのに、汗が流れて止まらない。
わたしはそっとしゃがみこみ、『それ』に触れた。身体の表面は冷たく、けれども生きた人間の感触だった。そっと、丸くなっている背を撫でる。最初は指で、そのうち、手の平で。『それ』は何の抵抗もしなかった。振り返って見上げたリゼの顔は、静かに痛みを耐えるような表情をしていた。わたしは何も言わずに、『それ』の背や頭を撫で続けた。やがて『それ』の震えが止まる。
わたしは毛羽立った毛布を手繰り寄せ、『それ』の背にかけた。そっと顔を横に向かせると、瞼は閉じていた。口元に指を寄せると、穏やかな呼気を感じる。
「リゼ。これで良かったかしら」
「あなたが、それを正しいと思うなら、そうね。良いのだと思うわ」
「善悪なんてわたし、考えてないわ。……つい、だったもの。つい、こうしたの」
眠ってしまった生き物を置いて、わたしとリゼは室内から出た。この階にも休憩室はあると言われたけれど、わたしは早く地上に出たくて、二階の休憩室に行くようにリゼを誘った。わたしたちはお互いに口を噤んだまま、淡々と長い階段を上がり続けた。
二階の休憩室は照明をつけずとも窓から入り込む自然光で十分に明るかった。外は快晴のようで、空は嘘みたいに青く、雲も作り物のように白く固まっている。さっきまで自分がいた場所よりも、かえってこちらのほうが非現実的で夢みたいなもののような気がした。
リゼと並んで、ソファに座る。何から話せばいいのか。いや、何を聞けばいいのか、わからなかった。脳裏にはあの、人間のようで異なる生き物の姿が焼き付いている。
黒い瞳が、細い腕が、震える体が。わたしに助けてと叫んでいるように思えた。それでつい手を伸ばした。わかっている、あれは、わたしが勝手にスラムに転がる子供達と重ね合わせて哀れに思っただけなのだ。優しさというより、憐憫のような、エゴイズムなもの。
沈黙の落ちた空気に耐えられなくなって、わたしは「飲み物でも」と言って立ち上がる。リゼに何を飲むか聞くと、「私が買ってくるから」と言ってさっさと自動販売機のあるところまで行ってしまった。わたしは仕方なく、もう一度ソファに座る。そうえば、自動ドアもそうだけれど、自動販売機があるのも相当珍しい。もうすっかり慣れてしまったが、この研究所に勤め出した当初は本当に驚いた。これもニホンの技術なのだろうか。……たぶん、そうだろう。この研究所の運営自体は米国基準になっているが、もともとこの国はニホン贔屓だ。自業自得でちゃんとした教育を受けていないから、理由はよく知らないけど。
「あなた、烏龍茶で良かったわよね」
「ありがとうございます。お金……」
「このくらい、黙って奢らされときなさい」
「……謝謝」
缶入りの温かい烏龍茶を飲むと、全身から力が抜ける感じがした。自分は気づいていなかったが、身体はかなり緊張状態にあったらしい。リゼも紅茶を飲んで、溜息をつく。
「ねえ、私、あれのこと、あなたに話してしまいたいの。でも、この研究所の中でも、かなりの機密情報だから、話してしまうともう取り返しがつかないのよ。だから、私の助手になるのを断るつもりなら、あれが何なのかはもう、話せない。あなたはここの事務員だけど、研究員ではないから。部外者は巻き込めないわ。何が起こるかわからないから」
「それならあれをわたしに見せるのだって、駄目だったんじゃないんですか」
「でも、今ならまだ正体を知らないわ。あなたが何も見てないと言えば、見てないのよ」
「なんて強引な。いいですよ。話してください。わたし、リゼの助手になるわ」
「あなた絶対に後悔するわよ。こんなの引き受けるんじゃなかった、って」
「リゼは……わたしが誰かに、必要とされたいって……思ってるって、気付いてる。優しいから逃げ道を用意してくれているけれど、ほんとは逃がすつもりなんてないですよね。ここでわたしが断ったって、リゼのことだから今度は逃げ道をすっかり塞いでやってくる。だったらもうここで引き受けたほうがいいわ。わたし、リゼのために助手を引き受けたい」
「言うわねえ。そう、でも、嬉しいわ。歓迎する。私の研究プロジェクトに、ようこそ」
リゼはニッ、と笑い、わたしの手を取った。これがもしかしたらわたしの運命とやらが変わる瞬間だったと、後になって思い返すものになるのだろうか。わたしはリゼの手を握り返し、今後の自分がどうなろうと構わないと、そっと覚悟を決めた。
長くなるけれど、と前置きをして、リゼは地下三階の奥の部屋にいた生き物について、説明を始めた。
話を全て聞き終えたころには、もう、休憩室は夕焼けに染まっていた。リゼの語った話はあまりにも常識から外れていて、すぐには信じられないものだった。それでも、事実であることは間違いなかった。だって、わたしはもうこの目で見たのだから――。
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