ソウエン1
六時半の目覚ましが鳴る。わたしはベッドの上、布団の中でもがきながら手さぐりで時計を探した。小指に固い感触が当たり、引き寄せる。しかしうっすら開けた目に見えたのは昨日の夜に読んで枕元に放置していた小説本だった。わたしは諦めて布団から出る。長かった冬が終わり春になろうとしているものの、明け方はまだまだ寒い。
床の上に転がって震えつづけていた時計を止め、深呼吸。今日も朝が来た。窓の外は快晴。波の音も静か。わたしは一旦部屋から出て、顔を洗って戻ってくる。ベッドを整え、仕事用の鞄の中を整理し、化粧ポーチをそこから取り出す。手鏡を片手に化粧をし、スーツに着替える。仕事用の鞄を持って家を出たあとに髪を整え忘れたことに気付き、歩きながら手櫛を入れる。
わたしが暮らしているのは母屋の奥にある離れで、生活形態が違うから伯父や伯父の奥さんと顔を合わせることはない。半年前までは母も一緒に離れで暮らしていたが、病気を患って入院してからはずっとわたし一人だ。降って沸いたような自由だな、とよく思う。こんなことになるなんて、数年前のわたしが知ったらどれだけ喜ぶだろう。まあもちろん、あのころ夢に見た自由とは少し違うけれど。
この街にやってきて驚いたことの一つに『食事は外で食べるもの』という習慣があることだ。繁華街まで行かなくとも、住宅地を少し出るだけでいたるところに屋台がある。わたしは少し迷って、結局昨日と同じ屋台で昨日と同じように『本日の朝定食』を頼んだ。
数分も待たないうちに、小海老のかきあげとお粥が出てくる。お粥の上には赤いクコの実が乗っていた。なんとなくそれを最後に残しながら、お粥を咀嚼する。かきあげの揚げ油が古くなっていたのか、食べ終わるころには胃がむかついていた。昼ごはんは軽いものにしよう、と思いながら会計を済ませ、屋台を出た。時計で時間を確認し、職場へ向かう道を歩き出す。
ときどき吹きさすぶ風は、海の塩気をたっぷり含んでいて、どことなく重たい。
職場に着くと、波の音はよりいっそう大きくなった。高い防波堤に隔てられているせいでわたしの身長では見えないが、建物のすぐ裏手はもう海なのだ。コンクリートの床の上、他の建物から数十メートル離されている四角い巨大な箱。看板もなければ壁や屋根に色さえ塗られていない。最初にここの仕事を紹介されたときは、何か怪しい組織の本部か何かかと思った。もちろん実際にはそんなことはない。いや、組織の本部、というところは合っているけれど。
ここは国の経営する、れっきとした研究施設だ。わたしはそこで、一年前から事務員として働いている。大学も卒業していない小娘としては、なかなか身分不相応に良い職場だろう。こうなるまでにはまあいろいろあったけれど、一言で言えば運がとてもよかった。わたしは裏手のドアから中に入り、受付で警備員さんに社員証を見せる。
さあ、今日もいつも通りの一日が始まる。朝の九時から、何事もなければ夕方の五時まで。安定した日々の歯車は常にかみ合っていて、滞りなくわたしの世界は回っている。
――――はずだった。そう、歯車は実はとっくに軋み始めていた。わたしの預かり知らぬところ、あの人の埋めた悪意の種が地中で芽を吹いた。わたしがそれに巻き込まれないはずがなかった。何故ならわたしはあの人と半分、血が繋がってしまっているのだから。
その日の昼休みのこと。わたしは建物の二階にある休憩室で人を待っていた。窓際にあるソファに座り、『少し遅れると思うわ』というリゼからのメールを読み直す。中学高校とろくに友人の一人もできなかったわたしだが、この研究施設で働き始めてから一人、親しく話せる人ができた。リゼ・コルネリウス。わたしより五つ年上の、聡明な女性だ。この研究施設では数個のプロジェクトが常に動いているが、彼女はその一つのプロジェクトのリーダーをしている。
女性であり、しかもまだ若い研究員がプロジェクトリーダーをしているというのは、理化学の知識が全くないわたしでも、すごく珍しいことなのだと分かる。きっと『天才』と世間から呼ばれる立場なのだろうと思う。わたしとはまるで正反対だ。
「ソウエン。ごめんなさい、待った?」
「あっ。いえ、それほどでも」
ぼんやりしていると、いつの間にかリゼ本人が目の前にいた。わたしは慌てて立ち上がる。隣に並ぶと、彼女のほうがわたしよりも頭一つ分くらい背が高い。東洋系にしてはわたしの背は高いほうなのだけれど、やはり欧州の血には適わない。スタイルやら顔立ちやら、同じ人間とは思えないほどリゼとわたしの外見は違う。
わたしは生粋のタイワン人だが、リゼのルーツは独逸系だ。研究所の名簿では彼女の名前は米国式にリーゼ・コーネリアスと登録されているが彼女はそうは名乗らないし、わたしも独逸風に彼女のことを呼ぶ。
「今日のお昼、どうする? 何が食べたい?」
「わたしは特に……これといってはっきり食べたいものはないです」
「そう、じゃあハンバーガーでいい? 私が食べたいだけだけれど」
「いいですよ」
「ほんとあなた主体性がないわね……」
呆れたようにリゼはそう言って笑う。わたしからすれば常に食べたいものがはっきりしているリゼのほうがすごいと思うのだけれど。わたし以外の人はみんなそうなのだろうか。研究所を出て、屋台の多い大通りを目指しながらわたしは今日の朝、昼は軽いものにしようと思っていたことを思い出す。ハンバーガーは軽く……ないな。まあどうでもいいか。
屋台ではハンバーガーと豆のスープのセットを頼んだ。わたしが食べる半分くらいの時間でリゼはいつも食事を終えてしまう。研究に忙しいときはいつも流し込むように食事しているから、そのクセが日常的にも出てしまうのだと以前言っていた。研究者って大変だ。
「ねえ、煙草吸っていい?」
「はい。というか毎回、聞かなくてもいいですよ」
「こういうのは礼儀でしょう」
リゼは白衣のポケットから白い煙草ケースを取り出した。わたしは煙草を吸わないからよくわからないけれど、リゼの吸う煙草の煙からは微妙にバニラのような甘い香りがする。屋台の中は賑わっていて、昼にもかかわらず酒を飲んでいる人もいた。あまりそのあたり、厳しい土地柄ではないのだ。酒を飲んでいる人達だって、今日が休日の人とは限らない。
わたしがハンバーガーを食べ終わるころには灰皿の吸い殻は二本になっていた。わたしが豆のスープを食べるでもなくスプーンでだらだらとかき回しているのを見て、リゼが眉間に皺を寄せる。食べないならどうして頼むのよ。いえ、セットだったんで。そんな会話。
「つくづく主体性のないソウエンに、とっておきの話があるんだけれど」
「何ですか」
「しかも怒らないし……。まあ私には都合がいいのだけれど。流されてくれるから」
「はあ。流れるままに生きてはいますが」
リゼは三本目の煙草を灰皿に押し付け、真剣な面持ちでわたしに言った。
「私の助手になってくれない? 給料、上がるわよ」
「え、……いや、給料はどうでもいいです。助手って。わたし、事務員なのですが」
「何も頭脳的な面で期待なんてしてないわよ」
「じゃあどういう意図ですか」
「今回のプロジェクトが行き詰っていて。新しい風を入れたいのよ」
「わたし以外にもっと適した人はいないんですか」
「馬鹿が多くて使えないのよ。今年入った研究員も、余所から来てる助手も。どいつもこいつもジジイみたいな脳味噌してて、融通も利かなければこっちの言う事も聞かない」
「だからって事務員を助手にしなくても」
「いいえ、これでいいのよ。わたしの目は狂わないわ」
時間ね、と言ってリゼは立ち上がった。わたしは突然の話に戸惑いつつも、リゼと共に屋台を出る。助手。研究の助手。一体それは何をする仕事なのだろう。
リゼと仲良くなって数か月になるが、彼女はあまり仕事の話をしない。研究施設自体は大雑把に言って海洋生物の研究を中心に行っているらしいけれど、プロジェクトごとに全く違う研究をしていたりするから、リゼのやっている研究が海洋生物に関わるとは限らない。
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