妹2
兄が避難所にやってきたのは、それから二日後の朝のこと。地震発生からは、五日が経っていた。兄はわたしを一目見るなり、「マーケットに売られている鯖の死体のほうがまだマシな顔色だ」と言い放った。意味が分からない上にあまり洒落た冗談ではない。けれどもそのことを皮肉る元気は、慣れない避難所での生活に疲れ切っているわたしにはなかった。
わたしがぞんざいに「ああそう、知ってるわ」と返したら、兄はいよいよ本当にわたしの体調を心配してきた。飯は食っているのか、風邪などひいていないか、熱は。わたしは額に触れてくる厚い手の平をやんわりと押しのけ、私よりかはまだ色の良い顔に言った。
「
母は昨日から体調を崩し、簡易診療所になった保健室で、ベッドに寝かされている。わたしにはもう、弱りきった母の傍にいる精神力がなかった。母だって、わたしが一緒にいたところで何の心の支えにもならないだろう。母が必要としているのはいつも兄だけだ。
「母さんか。……わかった、行ってくる」
兄は溜息を一つ吐き、体育館を出て行った。わたしはなんだか無性に、母のことが可哀想だった。母は兄のことをすごく想っていて、なのに兄にはその愛が重たい枷になっている。何もかも、ままならないのだ。わたしの家族、わたしの家庭は、歪んでいて、けれどもそれに気付いているのはわたしだけで、おまけにわたしにはどうすることもできない。
それから暫くして保健室に行くと、母はさっぱりとした顔で、嬉しそうに兄と話していた。兄は保健室に入ってきたわたしを発見すると、巧妙な微笑を保持したまま手招きした。二の腕をさすりながら兄の元へ寄る。母はわたしの姿を見てさえ、まだ嬉しそうだった。
「ねえ、ソウエン。もう何も心配はいらないわ。お兄ちゃんが全部やってくれたもの」
「……そう、なの。それはよかった」
わたしは母の言葉を適当に肯定しつつ、どういうことだと兄の顔を見た。兄は何も言わず、わたしの肩に手を置いた。わたしは母から視線を逸らしながら軽く頷き、兄の手に触れた。兄の手が肩から離れると、すぐにわたしは保健室を出て行った。閉じたドアの前に立ち、廊下の窓から外を見る。母と兄が談笑している声が背後から聞こえてきて、それがまるでラジオから聞こえてくる声のように現実味がない。やがて兄のほうから話は切り上げられ、背後のドアが開いた。兄は作り笑いを引きずったままの声色で、言った。
「先に戻っててくれてよかったのに。寒いだろう、ここ」
「そうでもないわ。もう五月だもの」
体育館に戻ると、兄はわたしに『伯父に連絡を取ったこと』『そこに母と妹が世話になれるよう頼んだこと』『親戚の家は海の近くで、母の神経を休めるのに良いだろうということ』を話してくれた。なるほどそれであの母の態度か。伯父がいるのはなんとなく聞いたことはあったけれど、どんな人かはよく知らないし、今までろくに連絡していなかった理由もわからない。どうせ父が関係しているのだろうけれども……。
兄は、被災した家のこともぼくが何とかしておく、と言ってくれた。わたしと母は近日中に荷物をまとめて、伯父の元に行けばいいだけ、ということだ。この避難所に来るまでにそれだけのことをしてくれていたとは、流石は兄というか。まあこれから起こるであろう面倒事を事前に解決しておきたかっただけだろうけれども。
優秀で身勝手な兄。兄のそんなところを、わたしは嫌いではない。わたしはどのタイミングで避難所から去ろうか考えているであろう兄に、言う。
「もういいわ、これからのことは任せてくれていい。たまに母さんに電話でもしてやって」
「ぼくがいなくても大丈夫かい?」
「何よ、最初から付いてきてくれる気なんてないくせに」
わたしの言葉は正確に図星をついたようだ。兄は口をつぐみ、軽く眉間に皺を寄せた。あからさまな態度に思わずわたしが笑ってしまうと、ますます兄の眉間の皺は深くなった。
「あー、そうさ。ぼくは実家を離れて、……清々しているんだからな! 付いて行く気なんかないし、というか付いて行かなくてもいいようにしたんだ。わざわざ、殆ど関わりのない伯父に連絡してまでな! でも誤解のないように言っておくと、君を、……ソウエンを心配しているのに変わりはないんだ。ぼくだけ母さんの束縛から逃れてしまって悪いとも思う。君は優しいから母さんを見捨てたりできないだろう。それだけは本当に、すまない」
兄はわたしの前、頭を垂れた。心の底からの謝罪だと分かるから、邪険にはできない。わたしはどう言えば自分のこの、……複雑な気持ちが伝わるのかわからなくて、かみ合わない奥歯をすり合わせた。長い沈黙に、兄が視線だけ上げ、わたしの顔を覗き込む。わたしは慌てて片手で目を覆い隠した。自分がどんな顔になっているのか、兄の反応から知ってしまうのが怖かった。乱れた呼吸音に合わせるように、わたしの吐く言葉も滅裂する。
「違うのよ、わたし、
「……ソウエン。いいんだ、お礼なんて。ぼくはただ……」
「やめて、善意は善意のままにしておいて頂戴。
わたしはようやく表情を取り繕い、兄に向き合った。なんだか記憶の中の兄とは違って見えて、少し寂しくなる。きっともう兄はわたしをベッドの中に入れてくれたりはしない。泥で汚れてしまったよろよろのスーツ。兄は、もう立派な社会人であり、大人の男の人だった。兄は少しだけ動揺し、真っ直ぐにわたしの目を見て、優しげな瞳になって頷く。
「いいよ。何が聞きたいんだい」
「母さんのこと。恨んでいたの、それとも憎んでいたの」
兄はわたしの言葉に沈黙し、数分……十分かそのくらいだろうか、経ってからわたしの耳元で答えを言った。体育館から去って行く兄の背中を見送ったあと、わたしは床に向かって負け惜しみのように嘘つき、と呟いた。わたしは割り当てられている小さなスペースに胎児のような恰好で横たわり、顔を覆う。
――――嘘つきはどっちだ。わたしはあのとき確かに、兄に謝罪を求めていたのではなかったか。兄を責め、自分を憐れみたかったのではないのか。子供のように駄々をこね、兄を困らせたかったのではないのか――――。
それから一週間後、荷物をまとめたわたしと母は、地図を頼りに伯父の元に行った。伯父の家はわたしの暮らしていた街からは汽車で何時間も離れた場所にあって、わたしは生まれて初めて海というものを見た。
たいしたお金もなく、いわば路頭に迷っているような状態のわたしたちを、伯父は快くとまではいかずとも、邪険にすることなく受け入れてくれた。
わたしは客間のベッドに横たわり、波の音を聞きながらこれからのことを考えた。まず、もう学校には通えない。元から行ってもいないけれど。実家にいたころはともかく、これからは居候の身なのだから、早くお金を稼いで自活できるようにならなければ。
そう、早く、早く大人にならなくちゃいけない。大丈夫、わたしだってもう、十八歳なのだから。
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