現在4(第一章・終)
大学の駐車場でぼくたちは車から出た。鍋島先生とゼミスタッフは「それじゃあ」と言って去っていった。ぼくには何がなんだかわからなかったが、ジョーにしっかりとした目的があるらしいことはわかっていた。ジョーは車のトランクリッドを開いた。中には青いビニールに包まれた何かがあった。ビニールの中で、何かがぼこぼこと動いている。これはもしかして、とぼくが言う前に、ジョーが「俺の部屋に置いていた植物だ」と言った。
「部室荒らしの犯人はわからなかった。考えても答えがでなかったのは、いや自分の答えを否定したのは生まれてこの方初めてだった。自分の部屋に戻って変わり果てたこいつを見たとき、俺はようやく自分が優先すべきものの順位付けを誤っていたことに気付いた。お前の家に電話をかけたら、出たのはお前ではなく、お前の妹だった。あいつは将来大物になるぞ。この俺に、『哥哥のことが大切じゃないなら、邪魔しないで』と言ったのだから」
一気に喋り、ジョーは息をついた。これで終わりかと思ったら、再び話し始める。
「俺はそれに無我夢中で何か反論した……はずだ。混乱を極めていたので何を言っていたかはわからん。お前の妹が何故お前の行き先を知っていたのかは後になって聞いた。窓からお前の車のライトを目で追い続けていたんだと。俺は鍋島先生に頼んで車を出してもらい、お前のところに向かった。少しでも遅れていれば、俺はお前の手を掴めなかっただろうな」
一気に与えられた情報に、ぼくの脳はパンク寸前だった。何を言ってくれるんだソウエン。いやそれはどうでもいい。鍋島先生、いやその、ありがとうございます。いやいやいや。そうじゃなくて、お前の手を…ぼくの手を掴み……? ジョーが、ぼくを、助け、た? ずっとどうして助かったのか謎ではあったけれど、心のどこかでジョーが王子様よろしく助けてくれていたらなんて少し思ったりもしていたけれど、まさか本当に? 妄想でなく?
ぼくが混乱している間に、ジョーは青いビニールに包まれたアレをトランクから取り出し、歩き出した。ぼくは慌てて彼を追いかける。入院しているうちにすっかり体力を失ってしまったらしく、目的地についたジョーが立ち止まるころにはぼくはフラフラになっていた。
辿りついたのは喫煙所だった。丘の上から一望できる大学校内。夕日は殆ど暮れかかっていて、空は群青と紫が混ざり合うような奇妙な色合いになっていた。ジョーは例のアレからビニールを剥がす。ぼくが茎をナイフで切り落としたはずのそれは、すっかり再生して何事もなかったかのように蔓をうねらせていた。もちろんここまで運べるくらいだから、随分と小さくこぢんまりとはなっているが。植木鉢には植わっておらず、根はジョーの部屋の床に張られていた木材に絡みついている。
ジョーはポケットから小さな四角の缶を取り出し、プラスチックのキャップを外した。缶に貼られているラベルから、それがライターの補充用オイルだとわかる。ジョーはオイルを例の植物にかけた。蔓は水だと思ったのか嬉しそうにうねっている。ジョーは冷めた目でそれを見下ろしていた。ぼくはジョーに初めて話しかけたときのことを思い出す。忘れもしない、二学期が始まったばかりの秋のことだ。山ほどの葉煙草を燃やして、辺りに大量の紫煙を発生させていたジョー。今はもうすっかり夏の気配で、山からは蝉の声がわずかに聞こえてくる。
ジョーは再びポケットに手を入れ、今度はさっきの缶よりも小さな、紙製の箱を取り出した。マッチの箱だ。
「お前が入院している間に、こいつは勝手に再生し始めた。俺はこいつを枯らしてしまおうと、根までバラバラに切り刻んだ。が、僅かな湿気さえあればこいつは茎の細胞からいくらでも再生できるらしかった。部屋中に芽を出されてはかなわん。俺はこいつを一か所に集めるしかなかった。夏が近づいて、こいつはますます成長速度を速めていった。もう数日でも置いておけば、アパート全てを覆うほどの蔓になったかもしれん」
ジョーは箱からマッチを取り出した。ぼくは少し迷い、手の平を差し出した。ジョーは何も言わず、マッチと箱をぼくに渡した。ジュッ、と火薬の燃える音。
「……君の子供を奪ってしまって、ごめんな」
心からの謝罪だった。独りよがりな言葉であることは、ぼく自身が誰よりも知っていた。ぼくは蔓の塊に火を投げ入れた。オイルにまみれた蔓は、あっけなく燃え焦げていく。
生きた植物の燃える臭いは独特で、これから暫く鼻につきそうだ。ぼくの手はいつの間にか再びジョーの手と結ばれていた。
ぼくはやっと彼のことを手に入れられたのだろうか。これからも一緒に居れることを喜んでもいいのだろうか。ぼくにはもう、わからなかった。
ぼくはジョーとは根本からして違う性質の人間だから、ジョーの生きる世界をぼくが同じような目線で見ることは叶わない。ジョーの気持ちを完全に理解することも、ジョーの得ている感情を共有することも、これから先ずっとないだろう。ぼくはいつまでもジョーとのあり方に悩み続けるだろうし、一緒に居続けたらまた狂気に狂おうとするかもしれない。
完全に燃え尽き、植木鉢まで真っ黒な煤だらけになった植物は、もう流石に再生することはないだろう。それでも念のためにぼくとジョーは灰を青いビニールにしっかりと包んだ。そして大学の焼却炉までそれを持っていった。
焼却炉の前には用務員の方がいて、中のゴミがまんべんなく焼けるように鉄棒でかき混ぜていた。ぼくは「お願いします」と言って焼却炉にビニールの包みを入れる。用務員の方は特に何か疑問に思うでもなく、「ああ」と短く言って鉄棒でビニールの包みを焼却炉の奥へ突っ込んだ。
帰りの車内。ぼくは家に帰ったらどう母親に今日のことを説明したものかと頭を悩ませていた。これもまた、現実逃避のための思考だ。ジョーとのこれからを考えるのが苦しいだけ。母親には、あれはソウエンの悪い冗談だと説明しておこう。ぼくが出かけたのは心配した友人たちに顔を見せに行くため。そうだそれでいい。簡単じゃないか。ソウエンはあとで叱っておく。でもお礼も言わなくては。車のライトを目で追い続けるなんて大変だっただろう。それに、大切じゃないなら邪魔しないで、なんて。
ソウエンには、ぼくが自殺するか、そうでなくとも二度と家に帰ってこないことがわかっていただろうに。我が妹ながら末恐ろしい女である。まあ、ぼくとは半分しか血が繋がっていなのだけれど。
信号が赤になり、車を止める。外は暗いけれども、夏だからか真暗というほどでもなかった。ぼくは助手席に座るジョーをちらりと見る。ジョーは窓の外をぼんやりと眺めていた。彼が今何を考えているのか、ぼくに察する術はない。そんなことができれば良かったけれど。現実逃避するだけの材料はもうぼくにはなかった。ぼくは口を開き、ジョーに打ち明ける。
「ジョー、ぼくは君が好きなんだ。たぶん、たぶん……、友情でも人間愛でもない……」
信号が青になった。ぼくは車を走らせる。どうなるのか全く予想がつかなかった。心臓がバクバクと音を立てる。ぼくは臆病だから、駄目なほうに思考は傾いていく。けれども信じたかった。ジョーがぼくの手を掴み、この世に連れ戻した、そのぼくへの執着と愛を。十分が経過した。
ジョーは何も言わない。うっすらとした絶望。けれどもジョーがまだ考え込んでいるような顔をしているから、ぼくは数を数え続ける。
……916、917……。
十五分を過ぎた。車はとっくにジョーのアパートの前についていた。まだジョーは黙ったままだ。もう駄目だろうか、とぼくが思い始めたとき、ジョーがぼくの腕を痛いほど強く掴んだ。そのままの勢いで、ぼくはジョーの体の上に倒れ込む。赤い舌がジョーの口からのぞき、ぼくの鼻の先をぴちゃりと舐めた。「は……」驚きと戸惑いとで呆けた声を出したぼくを見て、ジョーは目を細めた。くしゃり、という擬音がぴったりくるような、今までになく人間らしい笑顔だった。
ジョーはパッとぼくの腕を離し、助手席から出て行った。ぼくは慌ててその背中を追う。今のは一体何だ、どういう意図であんな。矢継ぎ早に飛び出たぼくの質問に、ジョーが一つ一つ答えてくれたのは、やはり十分後のことだった。
第一章『維管束に流れる』完
→第二章『ハイドロイドに通ずる』に続く。
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