現在3
見慣れない天井……では、なかった。横たわる人が起きるまで飽きるほど見上げていた白い漆喰と、不健康な色をした蛍光灯。目が覚めたとき、ぼくは思わずため息をついた。この可能性だって考えなかったわけではないけれど、あんまりじゃないか。
ぼくはすぐさまベッドから抜け出し、腕に突き刺さる針を抜いた。ぼとぼとと血が垂れ、床を濡らす。床に降りた途端、全身にとんでもない重力がかかった。力が入らない。ぼくは這い蹲り、必死で四角い部屋のドアを目指す。喉から意味のなさない喃語のような声が漏れた。ぼくは床を何度も殴った。手首に青い痣ができ、鈍い痛みが走った。廊下を走る誰かの足音。ドアを開けた看護婦がぼくに気付き、どういったからくりか、ひょいとぼくの体を抱えてしまった。無茶苦茶に振り上げる腕も、簡単に受け止められてしまう。やめろ、やめろ。ぼくの声はいつの間にか人間らしさを取り戻し、何の罪もない人に意味のない怒声を吐いていた。
「離せよ! なあ、ぼくを、ぼくを殺させてくれ、よ!」
すぐに医者がやってきて、ぼくの腕に注射針を刺した。意識が酩酊し、ぼくは再び眠り込む。真っ暗な場所にぼくの意識は沈み、そしてまた同じことを繰り返す為に目が覚める。
そんなことを繰り返し、ぼくはとうとう諦めた。栄養失調になろうとしても、ぼくの体には栄養抜群の液体が常に流され続けている。ぼくの涙腺はとっくに壊れきってしまい、何が悲しいのかもわからないまま涙を流し続けた。
看護婦と医者以外、誰もここを訪れない。面会謝絶になっているのだと気付いたのは、それが解けたあとだった。窓には金網が貼られていて、どうやらここは精神科に間違いない。真っ先にここにやってくるのはどうせ母親かソウエンだろう。そう思っていたけれど、来たのはジョーだった。白衣を着ていない、やけに薄着な彼の姿を見て、ああもう夏になってしまったのかと知る。ジョーはベッド脇に置かれたイスに座り、目を合わそうともしないぼくをじっと見つめていた。沈黙に耐えきれずにぼくが何かを発そうと口を開いた、その直後、バチン、と頬に衝撃。
「馬鹿じゃないのか、お前は」
振り向くと、ジョーは歯を食いしばってぼくを睨んでいた。寄せられた眉間の深い皺。ぼとぼとという音が鳴っていると錯覚するほど、大きな涙の塊が彼の目からいくつもこぼれ落ちた。ぼくはシーツを握りしめ、ごめん、と謝った。まさか、ジョーが泣くとは。
沈黙が破られないまま、ジョーは病室を出ていった。何をどうすればいいのか。考えることを放棄した頭がぼんやりと彼の涙ばかりをリフレインさせているうちに、母親とソウエンが病室にやってきた。母親は心配と怒りと安堵とでろくに言葉も発せず、ただぼくの頭をかき抱いて泣いた。数日、いやもっとか。長いこと見ていないうちに、母親は心労で痩せてしまっていた。
ぼくは今更ながらにこの人に罪悪感を抱きつつ、それでもまるで他人のように哀れに思うことしかできなかった。そんな自分に嫌悪すら感じて、けれどもどうしようもなかった。ぼくは母親も愛せないロクデナシだ。それが、事実なのだ。ソウエンはその日、何を言うでもなくただ母親に付き添っていただけだった。次の日になって、一人でソウエンは病室にやってきて、「死にぞこなってよかったね」と、棘を吐こうとして失敗し、泣くのを堪えすぎて過呼吸になった。ナースコールにすっ飛んできた医者はソウエンを落ち着かせながら、「ほんとに君たちには、困ったもんだ」と言って頭を振った。
退院の日がきた。迎えに来ると言う母親の申し出を断り、ぼくは一人、荷物をまとめて病院を後にした。もうぼくには自分を殺そうとする気力も残っていなかった。結局ぼくは狂い切ることができなかった。そもそも、最初から狂ってなどいなかったのだ。ぼくはただ、普通からほんの少しズレてしまっただけ。その証拠にぼくは無意味かつ無価値に、自分の殺した命たちのことを考えてうっすら憂鬱に浸ってしまっている。そうかと思えばそんなことも忘れて、生命を維持するために食物を口に入れたりなんかしている。
人間なんていつもそうだ。誰かのことを想うそばで、自分を生かすために自分だけを想っている。
余計な心配をかけないため、ぼくは真っ直ぐ家に帰った。母親の手によって大学は休学したことになっていた。いつまでぼくが意識を失っているかわからなかった故の措置だ。復学の手続きを取り、ぼくはまた大学に通い始める。立派な官僚になって真っ当な人生を送るのがせめてものぼくの償いだ。ジョーとの関係はこれからどうなるのだろう。どうなったとしても文句は言えないし、ぼくにはもう、絶望して発狂することも許されていない。空っぽのままで放置されていた自室に籠ってこれからのことを考えていると、家のチャイムが鳴った。母親が対応する声。暫くして、ソウエンが部屋に入ってきて言った。
「外に哥哥の車がある」
ぼくは閉めっぱなしだった窓のカーテンを開けた。家の前には確かに、山の中に放置したままにしていたはずのぼくのトヨタ・カローラが泊まっていた。ぼくは慌てて玄関に行く。ドアの前で母親と対面しているのは、誰でもない、ジョーだった。母親は突然現れた中学生にしか見えない少年に戸惑っている。ぼくはジョーの傍に駆け寄り、母親に彼のことを説明しようとしたが、どう言えばいいのかわからず口ごもってしまった。友達だよ、とそう言えばいいだけなのに、口の中が変な風に乾いていて、舌がうまく動かない。
ソウエンが廊下の奥からやってきて、「なにしてるの」と呆れたように呟いた。母親がソウエンに、この人のことを知っているかとジョーのことを訊ねる。ソウエンはニヤリと笑った。嫌な予感がする。
「哥哥の、恋人。」
母親は言葉を失い、ぼくは気を失いかけた。ソウエンは玄関に爆弾を落としたまま、後処理もせずに廊下の奥へ駆け戻って行った。放心している母親を見ることも、かといってジョーの顔も見れずに視線を漂わせていると、ジョーがぼくの腕をつかみ、玄関から外に連れ出した。ぼくは引きずられるままトヨタ・カローラに乗り込んだ。隣にジョーが座っている。運転席には、どこかで見たような若い女の子。そして助手席には鍋島先生が座っていた。もう一度運転席に座っている女の子を見る。覚え違いでなければ、その子はぼくが緑色の繭を取りに行ったとき、鍋島先生が研究室の整理のために呼び出した鍋島ゼミのスタッフだった。
鍋島先生は助手席から振り返ってぼくを見た。「退院おめでとう」という言葉に、何もかもバレてしまっていることを知る。鍋島先生の合図で、ゼミスタッフの子が車を発進させた。彼女は特に何を言うでもなく、かといって冷たい感じでもない。ジョーよりも濃い金髪をした、欧州らしい顔立ちだけれど、何だか空気みたいに存在感が曖昧な人だった。なんてどうでもいいことを考えているのは、現実から逃避しているだけだ。
ぼくはちらりと隣にいるジョーの様子を伺った。ジョーは窓の外を眺めている。ぼくは疑問が渦巻きすぎて何から聞けばいいのかわからなかったが、とりあえず最重要事項と思われることだけ口にした。臆病にも、独り言のように。
「ぼくはこれからもジョーと一緒にいれるのかな」
口にしたあとでぼくは急に恥ずかしくなった。これだけの騒ぎを起こしておいて、あれだけの命を奪っておいて、おこがましいにもほどがある。ぼくは十分待つ間に何度も「やっぱり、今のなし」と言い掛けた。独り言を装っといて今のなし、と言うのも馬鹿みたいだ。そう思うことで何とか押しとどめる。窓の外を見やると、車がどうやら大学に向かっているということがわかった。時刻は夕方で、沈む日の光のせいで何だか夢の中にいるみたいに現実感がなかった。
……594、595、596、597、598、599……。
ジョーがぼくの手を握った。恐る恐る隣を見る。小さな、けれどもはっきりとした声。
「当然だろう。……もう勝手にどこかに行くことは、許さんぞ」
ああ、夕日が、目に。ぼくはジョーの手を握り返し、頷いた。溢れ出るぼくの感情の奔流をジョーは手で拭ってくれた。
ぼくが冷たい人間だから、彼の手は、こんなにも温かい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます