現在2

 204号室のドアを開けると、いつも以上に草の濃厚な臭いが鼻についた。ぼくの気配に、蔓が警戒したようにうねる。ここ最近は全く出ていなかったはずの粘液が何故か大量に垂れていて、床を濡らしていた。電気をつけ、真っ直ぐに実のもとへ向かう。実はすっかり橙に染まっていて、ところどころ赤く熟している。手のひらに伝わる生々しい鼓動。

 ぼくは鞄からサバイバルナイフを取り出した。こんなものがなくても蔓は簡単に手で切れるけれど、決意の表れとしてぼくは抜群に切れ味のよいこれを購入していた。鞘から刃を抜くと、ぼくがこれから行おうとしている行為に気付いたらしい蔓が激しく右手に絡みついてきた。抜いても切っても大量の蔓は次々に襲いかかってくる。粘液が降りかかり、頭から頬までべっとりと濡れた。

 ナイフを振ると、蔓は面白いほどよく切れて床に力なく落ちていった。切れた蔓の断面からは血のような液体が吹き出し、ぼくの喉からぐぐもった笑い声が漏れる。こんな脆弱な力で、君に一体なにが出来る? ぼくはもうこんなものを恐れたりはしない。ぼくが一番恐れているのはジョーに嫌われること。ジョーから関心を失うことだった。けれどももう、それもいい。現状に満足できなくなった時点で、ぼくの望みは無価値にまで下がった。


 ぼくのいなくなった世界でもジョーは生きて行けるのに、どうしてぼくに生きる価値があるだろう。


 ぼくは実を持ち上げ、腕に抱えた。温かい命の気配が確かにそこからはする。これは最早、植物ではない。こんなものをジョーの元に残しておくわけにはいかないのだ。身勝手なこの行為に一つだけ言い訳をするとすれば、ぼくはただこの実から生れ落ちるであろう生物によってジョーが危機にさらされるであろうことが許せない。

 サバイバルナイフを振り上げると、蔓が渾身の力で引っ張ってきた。一本一本の力は微弱でも、束になるとそれなりに強い。ぎりっ、と手首の関節が妙な音を立てた。ぼくは咄嗟にナイフをもう片方の手に持ち替え、気付いた蔓が襲ってくる前にへその尾に向かって振り下ろした。


 ギャァアアア―――――……。


 断末魔のような叫びを、ぼくは鼓膜ではなく頭の中で聞いた。粘液と汗とが混じり合い、ぼくの全身を濡らす。次々にぼくに襲い掛かる蔓を、ぼくは無我夢中でナイフで切り刻んだ。唸りがぼくの口からこぼれ、よだれがだらだらと狂犬のように垂れた。すっかり麻痺した手がナイフを取り落とすころには、部屋の中は蔓の残骸でいっぱいだった。僅かに残った蔓は戦意を喪失したように項垂れていた。ぼくは部屋の真ん中に座り込み、実を抱えた。


 ああ、なんて――なんて、なんて、なんて、温かいのだろう!!


 ちょうど、臨月の妊婦の腹くらいの大きさだった。ぼくはソウエンがまだ母親のお腹の中に居た頃のことを思い出す。生命を慈しむ母の手の動きを真似ながら、実の表面を撫でた。床を埋め尽くす蔓の残骸に、ごめんなぁと心にもない謝罪を送る。ぼくはずっとこいつのことが嫌いだったけれど、それはこいつがぼくと似ていたからだ。ジョーに献身的に尽くす『彼女』の姿がぼくの姿にだぶって見えて、みっともない同族嫌悪を引き起こした。こいつは賢い生き物だけど、ぼくたち人間ほど複雑な感情はきっと持っていない。ジョーを奪われたぼくの気持ちを考えろと言いたいけれど、さすがにそんな無茶なこと、言っても仕方がない。

 こいつはただ、ジョーのことが好きだっただけなのだ。生殖という本能を飾り付けた言葉を愛と呼ぶならば、こいつは実に深くジョーのことを愛していた。余計なものを考えることのない愛は人間のそれよりもはるかに純粋で、それは俗世から切り離されたような生活を送るジョーからすれば共感を生むものだっただろうと簡単に予想できる。ぼくにはどれだけ努力してもたどり着けることのない領域で、こいつはジョーと繋がっていた。


 ぼくは取り落したナイフを拾い、植木鉢から生える植物の根元に刃を当てた。蔓はもう抵抗してこなかった。無力さを思い知ったか諦めたか。茎は蔓よりかは固く抵抗感があったが、ゆっくりとナイフを差し入れてノコギリのように引くと、真っ直ぐ綺麗に切れた。茎の断面にはホースの切り口のような丸い模様がいくつかあって、そこから血液のような液体がどくどくと溢れ出ている。

 沁み渡るような虚しさがぼくの全身に満ちていた。ぼくは実を抱え、ジョーの住家を後にした。実を後部座席に乗せ、車を発進させる。夜の空はじっとりとして、今にも雨を降らせそうな分厚い雲で覆われていた。



 大学の裏にある山。立ち入り禁止の立札を無視して進んでいくと、途中で道がなくなっていた。ぼくは車をそこに止め、実を抱えて歩き出した。夜の山中は当然ながら真暗なので、片手で懐中電灯を持っていなければいけない。実はずっと抱えていると腕が痺れてくる程度には重量がある。ぼくは何度か懐中電灯を片方の手に持ち替えたりして、ゆっくりと深い木々の中を進んでいった。当日になって道に迷わないように、事前にきちんとこの辺の地理は把握してある。小一時間ほど歩き続け、ぼくは目的地に到着した。

 直径20メートルほどの沼がそこにはあった。大学に入ってから何度も耳にしてきた大学七不思議、とやらの一つとしてここは必ず入っている。噂話はいろいろあるが、女の幽霊が出るというのが大体のお決まりパターンだ。けれども生徒の大半は沼があるということすらあまり信じていない。オカルト好きな奴等が躍起になって捜索しても見つからないこともあれば、山の周辺を散歩していてうっかり山中に迷い込んだら沼に辿り着いていた、なんて人もいる。そのため沼の場所が日によって違う、なんて噂まであるけれど、もちろんそんなことはない。この山は一見すると植林された人工的な山のように見えるけれど、実は奥に進むと古くから自生している木々の集まりになるのだ。そこは全く人の手が入っていないため、非常に迷いやすいのだ。

 沼の噂で本当なのは、底がないということだけだ。少なくとも、一度入れたものは二度と浮き上がってこない。何度か繰り返した実験により、ぼくはそれに確証を持っている。


 うっすらと霧のような雨が降り始めていた。辺りは静かで、風が吹くたびに木々がざわざわと木の葉をこすりあわせる音を立てる。時計を確認すると深夜二時半だった。ぼくは一旦実を地面に置き、肩からかけていた鞄の中身を取り出した。

 学生手帳、財布、サバイバルナイフ、受験のときのお守り、車と家のキー。それらを一つ一つ、沼に投げ入れていく。落ち着いていたはずのぼくの鼓動は、再び激しくなってきていた。

 ぼくはポケットに入れていたピルケースから白い錠剤を取り出し、口に含んだ。水を持ってきていないので、口の中で溶かしてから飲み込む。錠剤自体は鎮静効果を持つ薬ではないのだが、何となく落ち着いたような気にはなれる。ピルケースと、最後に腕時計を外し、沼に投げ込む。持っていたもの全てを捨ててしまうことで、全てのしがらみから解放された気になった。ようやく一対一だ。ぼくは地面に置いていた実を腕に抱え、沼の淵に立った。実に頬を寄せると、中から声が聞こえてくるような気がした。実際にはただ温もりを感じただけだけれども。

 ぼくはこの中に入っている命について思いを馳せる。今に産まれておかしくない、こいつは一体どんな形をしているのだろう。何て事のない、あの蔓とそっくりの植物なのだろうか。それとも人間の赤ん坊のような姿なのだろうか。もしくは、その中間だろうか。この中にいるのは蔓の子供、蔓とジョーの子供なのだ。実を抱える腕に力が入る。植物でさえ、ジョーとの子を成せた。それなのにぼくはたとえどんな手を使おうと、どんなに考えを張り巡らせても、ジョーとの子供を宿すことはできない。たかだか雌であるかそうでないか、その違いだけで簡単にぼくの可能性は失われる!

 ぼくは意地でも女になりたいと思いたくなかった。思ったら何か恐ろしいものに潰されてしまうから。絶望の本当の幕開けは、ぼくが産まれた瞬間だったのだ。ぼくが母親をどうしても慕えない最たる理由は、ぼくの体を子を成せる作りに産まなかったことだった。そんなこと、ぼくにだって気付けなかったけれど。

 ジョーに出会って変わったと思っていたぼくの運命は、今になって思えばそうなるために仕組まれていたとしか思えない。ジョーに出会わなければぼくは一生、社会と自分を騙して生きていっただろう。ぼくにはそうできるだけの理性があり、守るべき世間体があった。けれどもぼくはジョーと出会った。この人のために生きようと思えるだけの激情をぼくは持った。それが何よりの幸せだったなら、ぼくはもう、それが消えゆくだけの日々なんて送りたくない。


 ぼくは沼に足を踏み入れた。ズボンの裾から冷たい泥が入ってきて、全身に鳥肌が立つ。ぼくは実を抱える腕に力を込めた。万が一のことがあってこいつが沼から浮き上がってきたりしたら困るのだ。ぼくはこいつを深い沼の底、永遠に埋めてしまわなければいけない。あの蔓植物が宇宙から来たバケモノではないか、という自分の妄想をぼくはわりかし信じている。ならばこの胎児はバケモノ二世なわけで、ぼくはもしかしたら世界を救ったヒーローになるのかもしれない。もっともそんなことはどうでもいいことだけれど。

 ぼくはぼくのいなくなった世界にジョーが存在して、少しでもぼくのことを想ってくれればそれでいい。願わくば、ぼくにとっての害悪の塊が、ジョーにとってもそうでありますように。

 ずるり、と腰まで沼に引きずり込まれる。寒さと恐怖でぼくの体はガタガタと震える。それでも実だけはしっかりと抱えたまま、ついに泥は首元までやってきた。雨が激しく降り注いでいる。分厚い雲の隙間、細い細い三日月が、ぼくの頭上で夜の空を切り裂くように光っていた。

 ぼくは歪んだ視界に別れを告げ、瞼を閉じた。こんな世界、もう網膜に映すのもまっぴらだ。全身が心臓になったみたいにぼくの意志とは関係なくビクビクと動く。頭の先まで沼に埋まったぼくのからだ、ぼくの魂。ぼくの脳裏にフラッシュのように瞬くのは、金色の髪とギラギラとしたまなざしだ。


 口からおおきなくうきの塊が飛び出して、のんびりと優雅に上へ上へと昇ってゆく。もうじぶんがどこにいるのかも、少し気をぬくとわからなくなって、腕の中のぬくもりだけがただ愛しい。このなかに子供、ぼくの未来、幸せな過去がつまっているならば、どれだけよかったことだろう。誰も悪くない。ジョーもぼくも彼女も胎児も。ただ、ぼくは見つけて欲しかっただけ。ジョー、ぼくはな、ほんとは一人ぼっちだったんだ。


 ゆっくりと目を開くと、透明。月の光の中、ぼくの吐いた生命が浮かんでパチンと弾けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る