回想8

 生物部の部室にはたくさんの生き物たちが生きている。休みの間にちっとも世話されてなかったはずの植物たちも、元気に育って葉を伸ばしたり花を咲かせたりしている。名前も姿も分からない顧問の先生が、水やりなんかをしてくれていたのかもしれない。ジョーは天才で、特別な存在だから。誰も独りぼっちの彼のことを放っておけない。

 ぼくはずっとジョーにとっての特別になりたかった。実際にジョーはぼくのことをそれなりに大切に思ってはくれている。そうでなければ合鍵なんてくれないだろうし、ぼくに秘密を持つこともないだろう。けれどもそうじゃない。ぼくがジョーに向ける感情と、ジョーがぼくに向ける感情とは決定的な差異があって、未来永劫、それは同じにはならない。そんな最初からわかりきっていたことを今更に思い知り、ぼくは今、絶望の幕を開けようとしている。


 目を覚ますと、下校時間はもうとっくに過ぎていた。窓の外は赤い夕焼けだ。ぼくは部室のソファから身を起こし、時間を確認した。これから長い夜になる。仮眠は十分とは言えないが、気持ちには少し余裕ができた。

 ぼくはなるべく計画を遂行する以外のことを考えないことにした。同情だとか後悔だとか、そういう人間らしい感情とは暫く距離を置かなければいけない。


 ぼくはまず、部室内の植物たちの鉢をそっと倒した。


 床に土を散らばらせ、植物の枝を折る。次に熱帯魚の水槽を机の上に倒した。全ての行為は音を立てないように慎重にやっていく。机の上には色とりどりの魚たちがこぼれ、跳ねた。寝ていたモルモットをゲージから引っ張り出し、水草しかない水槽に入れる。モルモットはじたばたと暴れる。水槽に蓋をしてしまったので、やがて体力が尽きたら勝手に水の中に沈んでいくだろう。クロハラハムスターは夜行性だから、ぼくが起こすでもなくヤーイーはゲージの中を駆け回っている。流石にこいつに危害を加えるのには良心が痛んだ。けれども無事、おとなしくさせるのに成功する。こんなちっぽけな生き物なんて片手があれば十分だ。トカゲも亀も、文鳥もリスも。ペットだろうが実験対象だろうが、常に人間という大きな生き物の前では無力に等しい。けれどもぼくたちはいつもその命を奪うことに抵抗感を示す。ほら見ろ、スイッチの切れた心でも、血にまみれた手を見ると震えが止まらない。ぼくは最後にカエルの水槽をひっくり返した。こいつを最後にしたのには意味がある。生物部に入ったとき、一番最初にぼくが世話したやつなのだ。そのときはてっきりアマガエルだと思っていたのだけれど、実はアマガエルに良く似たシュレーゲルアオガエルという種類なのだ。ぼくはそれをジョーと親しくなってから知った。ただの緑色のカエルなのにえらく立派な名前で、他のトカゲの名前を忘れても、こいつの名前だけは妙に耳に残っている。カエルは狭い水槽から放たれてぴょんぴょんと嬉しそうに跳ねていた。ぼくはそいつの小さな背中を指で押した。カエルは身動きできずに手足をバタバタさせる。その、ぬめる手足を、ぼくは胴体から千切ってしまった。カエルには痛覚がないのだろうか。四本全部を取ってしまっても、カエルはまだ跳ねようと体を震わせていた。その生き汚さについ感情を荒立たせてしまう。ぶちぶちと組織の切れる音が靴底の下から聞こえた。


 さて、と部室内を見渡す。泥棒でも入ったみたいな有様だった。泥棒はよっぽど生き物が嫌いらしい。可愛そうに、みんな酷い殺され方をしている。もしかしたらジョーのストーカーの仕業かもしれない。ぼくは彼の家に電話をかけ、現状を伝えた。ジョーはすぐに行くと言って電話を切った。そしてぼくは部室の電気を点けたまま、大学を後にした。



 自宅に帰ると、居間のテーブルに冷えた夕飯と母親のメモが置かれていた。「あなたはがんばりすぎるから、母は心配です。ご飯、ちゃんと食べなさいよ」あまりにもわかりやすい愛の形をぼくはくしゃりと握りつぶす。親孝行な息子だとずっと言われてきた。けれどもぼくは一度たりとも母親のためを思ったことはないのだ。

 ぼくは夕飯を冷蔵庫に入れ、自室で荷物を整理した。見られたくないものは既にゴミに出してしまった。生き物たちもいなくなった今、ぼくの部屋は殆どただの物置と化している。ぼくが鞄から不必要なものを出し、必要なものを入れていると、隣の部屋にいたらしいソウエンが「哥哥、いるの?」とドアの外から声をかけてきた。


 ぼくは鞄を持ち、ドアを開ける。ソウエンはぼくの顔をじっとみて、どこか達観したような笑みを浮かべた。母親も気づかない、ぼくの本性とやらをこの利口な少女はとっくに知っているのだ。

 ぼくはソウエンに何か……母さんをよろしくだとか、学校には毎日行くようにだとか、そういうことを言おうとしてやめた。言い出すときりがないし、心配のあまりぼくの決意が散ってしまっても困る。大丈夫だ。この子にはいずれ大人になる未来が待っている。どちらにしてもぼくがずっと守っていけるわけではない。


 ぼくはソウエンの小さな頭を撫で、「いってくるな」とだけ言って玄関を出た。ドアを閉める前にちらりと見えた、ソウエンのまっすぐな瞳はジョーの瞳とよく似ていた。

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