回想7

 長かった春休みが終わった。ぼくは自室に置いていた生き物たちを部室に戻さなければいけなかったのだが、手間がかかるのとソウエンが嫌がるのとで、作業はあまりはかどらなかった。どっちにしてもジョーはもう部室の生き物たちに関してはぼくが預かっていようが部室に置いてあろうがどうでもいいみたいで、春休みが明けてもずっと自室に籠ったままだった。

 ジョーはノートをワープロに変え、論文の完成を急いでいた。ちなみにそのワープロはぼくに部室から持ってこさせたもので、本来ならば生物部の備品で持ち出し禁止になっているものである。どうせ他に誰も使わないし、禁止といっても監視する人がいなければもう何をしようが勝手だ。ジョーもぼくも持ち出しにさしたる罪悪感はなかった。


 ジョーは三年生だし頻繁に授業に行かなくても良い程度には単位を取り終えているだろうが、ぼくはそういうわけにはいかない。鍋島先生がエリートと言うだけあって、ぼくの所属する人文三類には必修の授業もテストもそれなりにある。ぼくはなるべく学校が終わったらジョーのアパートを訪ねるようにしていたけれど、電話の連絡だけで済ませてしまうことも多かった。

 定期的に休憩を取るようにだとか、飯はちゃんと食えだとか、そういう口うるさい忠告にジョーはそれなりに答えてはいた。ぼくはいっそのこと全て放り出してジョーにひっついていられるほど自分の性格が自己中心的であれば、と何度か思ったが、ぼくにはどうしても家族とか安定した未来とか、そういうものを捨てる勇気がなかった。


 ――後に、その中途半端な保身が、どうすることのできない絶望を生み出してしまう結果となる。自分の大切なものに手を伸ばすことすらできないのなら、ぼくは最初からジョーに出会うべきではなかった。後悔は先に立たないのに、どうして人は過ちを悔いるのだろう。


 ジョーのアパートを訪ねるたび、例のあの実が大きく育っていっているのが分かった。豆粒からオレンジほどに、オレンジからスイカほどに。成長を続けていく上で茎に直接つかまっていられなくなった実は、一本の管のような蔓で茎と繋がっているようになった。変化を続けるそれを、ジョーはほとんど見ていなかった。ジョーにとっては格好の研究対象だろうに。

 ぼくは不可解に思い、一度だけジョーに「実が育ってるぞ」と言ってみた。しかしジョーは無表情のまま「そうだな」と頷いただけだった。ぼくはそのそっけない反応の理由を考えずにはいられなかった。ジョーは実が育っていることを了承している。つまりあの実が育っているのは、ジョーの実験の結果なのではないか。それでいてあえて、ジョーは実に関心を持たないフリをしている。それはぼくに、あの実のことを突っ込まれたくないからではないのか。あの実についてぼくと会話するということは、あの実についてぼくが知るということだ。なぜあの実だけ大きく育ったのか。どういった実験をジョーはあの実にしたのか。


 ジョーが隠したがっているという事実を引き金に、ぼくは目の前のパズルを解き始めた。ジョーの論文の下書きには、謎にされていた新植物の繁殖方法についてこう書かれている。


『――――その植物の実は鳥などの動物に食べられることを目的としている。だがそれは遠くの土地に運ばれ糞と共に排出されるためではない。この植物の実は、のだ。そして手頃な土地まで自らを運び、根を降ろし成長する。実は本当のところでは実ではなく、茎の一部だったのだ――(中略)―――ならば、この植物は栄養繁殖のみで個体数を増やすのだろうか。そう結論付けることはたやすい。しかしこの植物は花をつけ、実の中に種子を作る。つまり、――――』


 そうしてぼくは一つの可能性に辿り着いた。それは突拍子もない理論だった。けれどもジョーと一緒に過ごした日々がぼくの極めて正常だったはずの感覚を、認識を、倫理を、歪めてしまったらしい。ぼくは自らのはじき出した結論を、否定することも疑うこともできなかった。そうするにはあまりにも証拠がありすぎたし、ぼくの脳も正常に働いていた。



 或る日の夕方のこと。ジョーの部屋で、ぼくは緑から橙に色を変えた実にそっと触れてみた。実はほのかに温かく、表面を撫でると少しざらついているのがわかった。ぞくぞくと這い上がってくるぼくの憎悪。けれどもそんなこと、おくびにも出してやるものか。

 ぼくは最後に一度だけ、ジョーに分岐点を示すことにした。これは賭けだ。ジョーが正しい道を選べば、ぼくは自らの手を汚すことも、守ってきたものを捨てることも、しなくて済む。ジョーは研究者としての未来を突き進み、ぼくは平凡に官僚になる。そしていつまでも友達として、仲良く過ごすのだ。それが、誰も傷つけることのない、幸せな未来だ。


「なあ、ジョー。君はいつまでこの植物と過ごすんだい?」


 論文を完成し終えた彼は、まるで憑き物が落ちたみたいにぼんやりとした日々を過ごしていた。相変わらず大学には行かないまま、ぼくが買ってくる惣菜かそうでなければ大量に買い置きされている簡易栄養食を食べ、布団にくるまってだらだらと過ごしている。ぼくが注意しなければシャワーも浴びないし歯も磨かない。着替えることすらしない。ぼくが話しかけても視線すらよこさない。もっともこれは、意図的なものかもしれないが。

 ジョーは布団をかぶったまま、蔓と戯れていた。十分経っても返事がなかったらどうしてくれようか。そう思いながらぼくは部屋に散らばっている簡易栄養食の包装を拾い集め、ゴミ袋にまとめた。

 この簡易栄養食を買ってくるのはぼくではない。アパートに定期的に届けられるようになっているのだ。差出人の名前と住所はぼくの知らない欧羅巴の国の文字で書かれていた。現状においてぼくはジョーに一番近しい人間だろうけど、それでもまだまだ知らないことは沢山ある。ジョーの生い立ちだとか家族だとか。


……559、600。


「明確な期間は設けていない。強いて言うならばこいつが枯れるまでだ。こいつの茎の細胞を培養させ、ここまで大きくさせたのは俺だ。途中で放り出すような真似はできない」


 ジョーは布団から顔だけ出し、ぼくを見ていた。台詞こそきっぱりとしていたが、ジョーの顔は珍しく戸惑っているような表情を見せていた。まるで、ぼくの機嫌を気にしているようだ。今までそんな風にぼくに気を使うようなことはなかったのに。ジョーの視線にぼくの視線を合わすと、ジョーは目を逸らし、布団を頭からかぶってしまった。おどおどしているようなジョーの反応に、苛立ちと罪悪感が募る。悪いのはぼくではないのに。


「そっか、じゃあ、あの実もそのままなんだね」


 布団の中でジョーがびくりと体震わせた。ぼくはもう、彼の返答を聞く前に計画を立て始めていた。後戻りはできない。誰も傷つけない幸せな未来なんてこないこと、ほんとはとっくにわかっていて、ぼくはただ決定打が欲しかっただけなのだ。


 これから忙しくなる。まず、生き物たちを全て部室に戻さなくては。ヤーイーを奪われて泣きべそをかくソウエンの顔が浮かんだ。次に、息子がいなくなって呆然とする母の顔。勝手に家を出て行ってそれっきりの父親の顔は、ぼんやりとしてしまったけれども。

 ぼくの唇は弧を形作っていた。涙は出なかった。ぼくは自分のためにしか泣けない、冷たい人間なのだ。決意さえしてしまえば、ぼくの世界はぼくのためにしか動かない。ぼくは再び実に触れた。手の平に伝わるのは、確かな生き物の鼓動。


……559。


「すまない、ユーヒェン。できることなら許して欲しい」


 ぼくの爪が実の表面に食い込んだ。ぼくの行為に驚いた蔓がぼくのもとへやってきて、咎めるようにぼくの首に絡みつく。ぼくはその蔓を掴み、引きちぎった。こんな蔓、いともたやすく切れてしまうのに、ぼくは今まで一体何を躊躇い、畏怖していたのだろう。

 ぼくはジョーの部屋に置いていた荷物を鞄にまとめ、部屋を出て行った。ドアを閉める前に、ぼくは未だに布団から出てこないジョーに、聞こえるかわからない小さな声で言った。


「どうして?」


 どうして君がぼくに許しを請う。どうして、ぼくが君を許すと思う。二つの意味を孕んだこの言葉をジョーがどう解釈し、どう弁明しようが、もう、ぼくの知ったことではなかった。


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