回想6

 それから春休みが終わるまで、ぼくはジョーの部屋に入り浸っていた。一泊や二泊することも多くなり、母親にはまた大学か、勉強か、と言われ、ソウエンには「哥哥に恋人ができた!」と誤解された。恋人じゃなくて友人だよ、と訂正すると、むしろ恋人のほうがましだったのに、と冷ややかな目で見られてしまった。我が妹はなかなか辛辣である。


 ジョーの入院中に例の蔓植物はかなりの成長を遂げていた。部屋の中における蔓の密度はかなりのものになっており、根本には大量の花が咲いて周囲を花粉で汚している。黄色い花は一つ一つは小さくて可愛らしいものの、あまりにたくさん咲いているので根本に黄色い布でもかぶせたみたいになっていた。

 ぼくは一つくらい実が成っていないかと探したが、まだその段階には至っていないらしく、枯れた花がいくつかあるだけだった。


 何日か過ごすうちに、ぼくはとうとう緑の檻の中で過ごすことに慣れた。というのも、蔓にぼくたちへの敵意や害意がないことに気付いたからだ。蔓はあくまでジョーに献身的だった。成長と共に知能まで上がったのか、コップに水をくんでジョーのもとへ運ぶことさえする。ぼくに対しては、懐いていないのか無関心なのか、そういった行動をすることはない。

 ぼくは嫌々ながら、ジョーを助けたのはこの植物であることを認めた。思えばあのとき部屋の鍵を開けたのはこいつだし、ぼくに絡みついてきたのも侵入を拒んだのではなく早く部屋に入れようとしたのだとすれば辻褄が合う。もしかしたらうちに電話をかけてきたのだってこいつかもしれない。そこまでの知能があるとすれば、恐ろしい話だが。



 ジョーの論文は着実に完成に近づいていた。四月に入り春休みも残りわずかとなったころ、ぼくはジョーに頼まれ、鍋島ゼミへ赴いた。

 四年生のスタッフが抜けたあとなので、鍋島ゼミは今は何の研究もしておらず、研究室も閑散としていた。鍋島先生は次にゼミに入ってくる生徒のために研究室に置かれている資料の整理をしているところだった。脚立に乗ってふらふらと棚の上の物を取ろうとする、恐らく五十歳は過ぎているであろう鍋島先生を見ていられず、ぼくは資料整理の手伝いを申し出た。


「助かるよ。こんなに大変なら生徒を呼べばよかったって、後悔していたんだ」

「いや、あの、今からでも誰か呼んだほうがいいですよ。ぼくが手伝うのは全然かまわないんですが、ぼくだと必要なものと不必要なものの判別がつきませんし……」


 ぼくはこのゼミのスタッフではないどころか、理系ですらない。大量の書類を棚から下ろすことはできても、それらを振り分けて整頓するのは不可能だ。そう説明すると、鍋島先生は電話でスタッフを呼び出し始めた。何人かに断られたあと、ようやく一人確保できたらしい。彼女は三十分後に着くらしく、それまで鍋島先生と世間話をしながら、ぼくは自分にできそうなことだけを手伝った。知識のないものが、得意でない分野に関わるときには最大限の注意が必要なのだ。ぼくはそれをジョーと付き合う上で身に沁みている。


「そういえば君は理系の学科じゃないのか。あ、その資料こっちに」

「これですね、どうぞ。ええはい、人文の三類です。先生、これはどこに」

「それはこっちの束に。人文の三類っていうとエリートじゃないの」

「そうでもないですよ。先生、棚の奥から瓶が……標本ですか、これ」

「あー、あらら、そんなところにあったのか、それ」


 瓶からはホルマリンの臭いがした。中には扇の形をした植物の葉が入っている。見たことのない葉だ。ラベルを見ると、「银杏(採取地・日本国東京都)」と書かれていた。


「先生、これ、何と読むんですか」

「『イチョウ』だよ。この国ではあまり見られないけれど、世界各地に人工的に植えられている植物だ。野生のものは今じゃもうシナにしか残っていないけれどね。それは世界で初めて、種子植物であるイチョウに精子があることが確認された、そのとき実験に使われた株から採取された葉なんだ」

「精子……えっ、でも、植物に雄とか雌とか、あるんですか?」

「いや、殆どの植物は雌雄同株だよ。雌雄異株……つまり雄の木と雌の木とで分かれているのは、イチョウとかヤナギなどの、一部の植物だけだ」

「へえ……なんというか、植物にもいろいろあるんですねえ」

「ああ。だからこそ、我々は日々研究し続けるんだ。未知なるものを発見するためにね」


 そうはっきりと断言した鍋島先生は、研究者としての誇りと自信に満ちていた。そのあとすぐに鍋島先生が呼んだスタッフがやってきたので、ぼくはジョーからの頼まれものを鍋島先生から受け取り大学を後にした。

 ジョーのアパートへと戻る途中、ぼくは自分のこれまでの生き方や有りようについて考えていた。ぼくには鍋島先生やジョーのように、情熱をかけて取り組んでいるものが何一つない。鍋島先生はぼくのことをエリートだと言っていた。確かにそれはそうだろう。ぼくの所属している学科の生徒の多くは将来官僚になることが約束されている。けれどもぼくには、それが誇れるものだとは到底思えなかった。


 ジョーが鍋島先生から借りてくるように言ったのは例の緑色の繭の標本だった。部室にもあるはずのそれだが、なぜかジョーはわざわざ鍋島先生の元へ渡したものをご所望だった。ホルマリン漬けのそれをジョーが取り出すと、蔓がそれに反応した。ジョーは繭を取ろうとする蔓を諌めながら、ピンセットで繭の表面の組織を剥がした。ジョーはそれをプレートに乗せ、顕微鏡で覗き込み、「ふむ、やはりな」と呟いた。

 ジョーに見てみろ、と促されてぼくも顕微鏡を覗き込む。拡大された繭の組織には、緑色の細い糸のようなものが絡みついていた。よく見るとそれは、この部屋を埋め尽くす蔓に似ているように思えた。ぼくの背中に変な汗が流れる。確かジョーは、この蚕の幼虫にと……。


「あっ」


 目を離した隙に蔓がプレートを絡め取ってしまった。ぼくは取り返そうとしたが、膨大が数になっている蔓に邪魔され、プレートがどこにいったかもわからなくなってしまった。ジョーはそれを気にすることなく、凄まじい速さでノートに何か書き込み始めた。その目はギラギラと輝き、口元は今までに見たことがないほどの笑みに歪んでいる。


「実験は失敗ではなかった! こいつは動物との共存ではなく、支配を選んだのだ。実が繁殖のためにつけられることは間違いないが、地球上の植物の概念で考えてしまったのが我々の落ち度だ。これはとんでもないことだぞ。人類、いや世界の歴史がひっくり返る!」


 ジョーのあまりの気迫に圧されてしまい、ぼくは何も返答することができなかった。ノートを覗き見ると、大量の計算式と、ぼくの読めない文字が紙を埋め尽くしていた。ジョーの頭の中で一体何がおこったのかはわからないが、ジョーの邪魔をしてはいけないことだけは分かる。

 ぼくは戸惑いつつも彼をそのまま置いておいたが、やがて窓の外もすっかり暗くなってしまった。ジョーの手が疲れからガタガタと震え始める。このままではジョーの体が精神より先に限界を迎えてしまう。ぼくは彼からノートを奪い取り、休憩しろと半ば怒鳴るように言った。ジョーはノートを奪い返そうともがいたが、彼の力は女のソウエンよりも弱かった。


「おい、俺の邪魔をするんじゃない!」

「駄目だ、また倒れて入院することになるぞ」


 ぼくはジョーをなだめすかし、強制的に水分と飯を取らせた。惣菜の買い置きがなくなっていたので簡易食糧になってしまったが、食べないよりましだろう。ぼくはこのままジョーが無理をしないように泊まっていこうかと思ったが、簡易食糧を食べ終えたジョーに「今日はもう帰ってくれ」と言われてしまった。


「そういうわけにはいかない。ぼくはジョーが心配なんだ。わかってくれよ」


 ぼくがそう諭すと、ジョーは渋々納得したらしい。きっちり十分後、ジョーは「お前がそう言うなら仕方ない」と言って溜息をついた。ぼくは蔓の奥に埋もれてしまった電話を何とか見つけ出し、自宅に電話をかけた。電話に出たのは母親ではなく、ソウエンだった。外泊するから今日は帰らない、ということを伝えると、ソウエンは『なんだか嬉しそうね、哥哥』と言った。どうしてわかるんだよ、と言い返している途中で電話は切れてしまった。


 結局一晩中ジョーは書き続けたらしい。途中で寝てしまったぼくが朝になって目を覚ますと、ジョーはノートに顔をつっこんで寝息を立てていた。ぼくはジョーに布団をかけ、起きた彼にまともなものを食べさせるためにデリへ惣菜を買いに行った。戻ってくると、何本もの蔓がジョーの体を労わるように優しく撫でていた。蔓はこのごろ、粘液をあまり出さなくなっている。成長による変化なのか、それともこいつの心境の変化か何かか。

 ぼくはまだまだ謎の多いこの植物の根元を何気なく見た。あれほど咲いていた黄色い花はもう殆どが枯れてなくなっていた。近づいて見てみると、植木鉢の周りに小さな豆粒みたいなものが散らばっていた。茎にもその豆粒はたくさんついている。どうやら実のようだ。手で触れると、実は簡単にポロリと落ちてしまう。豆粒サイズが成長の限界なのか、と思いながら茎に触れていると、一つ、不自然に落ちようとしない実を見つけた。他の実と見た目は変わらないのに、強めの力で引っ張っても茎から取れない。心なしか、他の実よりも一回りほど大きい気もした。


 ジョーに報告したほうがいいか、と思いつつ、結局その後、起きたジョーに飯を食わせたりシャワーを浴びさせたりしているうちに忘れてしまった――。

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