回想5

 ジョーの論文制作の邪魔をしないように、という配慮もあって、ぼくはそれからジョーと連絡を取らなかった。彼の部屋の壁に固定電話が備え付けられているのはわかっていたが、番号を聞きそびれてしまっていた。というより、知ったら毎日でもかけてしまいそうで、あえて聞かなかったのだ。襲われる心配はないらしいし、あまりぼくが構いすぎるのも鬱陶しいだけだろう。

 コミュニケーション能力にやや難はあるが、ジョーだってもう十九歳で、十九歳はほぼ大人だ。ぼくがいなくても生活くらいできる。一緒にいたいと思うのはぼくの勝手なエゴだし、ぼくの段々とややこしくなるジョーへの感情を落ち着かせるためにも距離を置いたほうがいい。

 とまあ、要するに滅茶苦茶ジョーのことを気にかけながら、ぼくは自宅で春休みを過ごしていた。ぼくが持ち帰ってきた生き物たちは何故か次々にソウエンに懐き、クロハラハムスターにはいつの間にかヤーイー(芽衣)という名前までつけられていた。

 母親はと言うと、無愛想なソウエンが生き物たちのおかげで明るくなった、とご満悦だ。秋ごろからずっと大学に入り浸りろくに家で過ごしていなかったせいで、家庭内におけるぼくの居場所は消失寸前だ。

 ぼくは生き物たちの世話をソウエンに任せ、無駄にアジア人街の市場をうろついたり山の中を散策したりと、退職後の爺さんみたいな生活を送っていた。元々ぼくにはこれと言った趣味がないのだ。友人もろくにいない。困ったことに、ジョーをのぞいたら一番仲がいいはずの円谷くんの連絡先すらぼくは知らなかった。


 そうして春休みに入って一ヶ月が経ったある日、ぼくはジョーを放置したことを心の底から悔いることになった。なにが十九歳のほぼ大人だ。なにがぼくがいなくても生活できる、だ。ジョーと過ごした月日があまりに濃く、そして自身の恥ずべき過去、すなわちストーカー時代を思い返すのを避けていたせいで、ぼくは忘れていたのだ。ジョーが素晴らしい才能と引き換えに、人間としての生活能力をすっかり欠いているということを。


 深夜、突如として鳴り響いた家の電話。ぼくは何事かと飛び起きた母親を制し、電話に出た。胸騒ぎがした。受話器からは誰の声も聞こえてこなかったが、微かに聞き覚えのある不気味な水音がした。ぼくはもう間違っててもいいと思い、ジョーの名を呼んだ。


「ジョーか? 急にどうした。何かあったのか?」


 ぼくは逸る気持ちを抑え、いつも通り十分待った。その間も受話器からは水音が鳴っていた。途方もなく長い十分が終わっても、ジョーの声は聞こえてこなかった。ぼくは電話を切るとすぐさま自宅を出て、駐車場に走った。真夜中でろくに明かりもない道にぼくは車を飛ばした。よくも事故の一つも起こさないものだと、ぼくの頭の中の変に冷静な部分は思っていたけれど、それ以外はただ不安で真っ黒になっていて、思考は停止していた。


 震える握り拳。ぼくはジョーの住む204号室のドアを何度も叩き、叫んだ。


 「ジョー! いるのか、開けてくれ! ジョー!」


 ノブをひねってもドアはピクリとも動かなかった。蹴り破ってしまおうか、そう思った瞬間、バァン! とドアが吹き飛んだ。衝撃にぼくは廊下を転がり、背中を打った。ドアを開けた、いや飛ばしたのはジョーではなく、蔓だった。ぼくは嫌悪感も恐怖も忘れ、明かりもついていないジョーの部屋に駆け込んだ。

 蔓がぼくの侵入を拒もうと、何本も絡みついてきた。ぼくは必死で蔓を千切り、払い除けた。部屋をみっちりと埋め尽くす蔓の隙間から、床に伏せっている白い人影が見えた。ざあっ、と血の気が引く。千切られても抜かれてもしつこく絡みついてくる蔓を必死で払いのけながら、ぼくは彼のもとに駆け寄った。


「起きろ、おい、しっかりしてくれ!」


 抱きかかえたジョーの体は、恐ろしいほど軽かった。ぐったりとぼくの腕に預けられた顔は真っ青だ。ぼくは半狂乱になって彼の名前を呼び、力の入っていない体を揺さぶった。「う、」といううめき声が漏れ、ジョーの眉間に皺が寄る。ジョー、ジョー、どうした、どうしてこんな。ぼくの言葉は支離滅裂で、自分でも何を言っているのかわからなかった。

 ジョーの体がびくりと震え、彼は目を覚ました。「あ、ああ、」という掠れた声。蔓がその声に反応し、こちらにのびてくる。やめろ、と払い除けても他の方向から違う蔓が伸びてきて、ぼくたちに触れようとする。


「おい、やめろ、やめてくれ! するな!」


そう叫ぶと、蔓はぼくの頬にねっとりと粘液をつけ、するりと植木鉢まで戻っていった。ジョーが虚ろな目でぼくを見る。意識が朦朧としているらしい。うわ言のような彼の言葉。


「ぁ、どこに、」

「ジョー」

「どこに、いる。誰か、おれはいる、ここに、聞こえ、て……」

「ああ、ぼくはここにいる。ジョー、聞こえてるよ」


 蔓が蠢き、ぼくたちを取り囲み始めた。すっぽりと周囲を緑に覆われてしまって、壁も天井も見えなくなってしまう。小さくて丸いぼくたちの世界。まるで、玉繭の中のようだ。ぼくたちは雄と雌ではないけれど、ぼくは彼の前では常に意識の上で雌であるように思う。

 ジョーの小さな手がぼくの手を握る。ぼくが握り返すと、彼は抑揚なく言葉を吐き出した。


「痛い、痛いんだ。どこもかしこも痛い。おれはここにいるのに、どうしてかみんなおれはいなくて、おれのことをどうして、おれは、ばけものなのか、そうじゃないのなら説明がつかない、おれの声を、ききやしない、おれが化け物だから、ああ、そうかお前はおれを知っているのだろう。お前はおれといっしょだ。同種なのだろう、だからおれに優しいのだろう、なあ、でもおれは、お前とはいっしょにおれないよ、まだ、ここにいたいんだ。おれを許してくれた、おれをまだ人間だと、認めてくれたひとがいるから、その人に一言もおれは伝えていない、すまない、俺のために流す涙が、俺は嬉しかった――――」


 彼が手を伸ばし、僕の頬に触れる。


「……ユーヒェン」


 ぼくはジョーの頬をあらん限りの力で叩いた。馬鹿を言うな、ここにいるのは分かっている! ぼくはずっとお前を見ていたんだ。そう易々と得体の知れない触手に奪われてたまるものか。


 こいつがお前と同種? そんなわけないだろう! 君はただの人間だ。ただの、ぼくの大切な友人だ。どうして謝る必要がある!

 

 喚きながら、ぼくはジョーの身体を抱えて外に飛び出した。蔓は追ってはこなかった。代わりに、ガチャンと中から鍵のかかる音が背後で響いた。僕はジョーの身体を後部座席に横たえ、車で救急病院まで行った。途中で何度か激しいクラクションの音を聞いたけれど、もうぼくには全てどうでもよかった。




 初めて触れたぼくの怒りに、ジョーはバツが悪そうに俯いていた。


「ねえ、あんな電話をしてきて返答はなくて、家に行ったら君は倒れているし蔓は襲ってくるし、どれだけぼくが心配したか分かるよね? たっ、食べられちゃったのかと思ったし、そうでなくても怪我をしたか病気になったかと思うには十分だよね? 入院してからも君は目を覚まさないし! ようやく目を覚ましたかと思ったら第一声が『お腹すいた』なんだものな! そりゃあ腹も減るだろう! 君が倒れたのは蔓のせいでも病気でもない! ただの不摂生だ! 医者から君がただの栄養失調だって言われたときのぼくの気持ち、想像してみなよ! 気が抜けるやら安心するやらで、もう、もうぼくの心はぐちゃぐちゃだ! 放置したぼくも悪いのだろうけれど、勝手に倒れた君はもっと悪い! やけに病院側も落ち着いているわけだ、君、今までに何回ここに運ばれたか覚えているのか!」


 途中で息継ぎをしながらも、ぼくは一気にしゃべり……いや、叫び終えた。荒い息を吐きだしながら、ぼくは顔を覆う。もう止める気もなかった。ぼくはひたすら泣いた。怖かった。ジョーを失うのではないかと思って、恐ろしかった。それだけじゃない。彼が自分で自分のことを化け物だと言ったのが悲しかった。こんなに傍にいて、同じ時を過ごしたのにぼくは彼に同類だと認められていなかったのだ。

 ぼくはもうこれから毎日でも彼に「君は人間だ」と言い聞かせるべきかもしれない。彼が今までどんな過去を辿ってきたのか、明確にはわからない。けれどどれだけの傷を彼がおっているのか、ぼくはあのときの彼のうわ言でよく分かった。篠田丞はここにいる。彼は確かにここにぼくの友人として存在するのに。いつの間に十分が経ったのか、彼はぼくの手を握って言った。


「これで記念すべき十五回目だ」


 バカヤロウ。僕の声は、かすれて音にならなかった。

 一週間、ジョーは入院することになった。医者はこの機会にジョーの体をすみずみまで検査したらしい。栄養注射と病院の健康的な食事により、ジョーはすっかり顔色がよくなった。退院するとき、ぼくは医者から「篠田くんを頼むね」と頭を下げられてしまった。はい、もう二度と栄養失調なんかで運ばれないよう、ぼくが責任もってジョーを見張ります。ぼくがそう言うと、医者は「篠田くんも…まあ、いい友人をもったな」と呟いた。


 退院したジョーを病院からアパートまでを送ったあと、ぼくはジョーに電話の番号を聞いた。すると彼はいつも通り十分間思案したあと、それは別に構わないが、それよりも、とぼくに何かを手渡した。


「……ジョー、これって」


 ぼくの手の平に、小さな金属。これってもしかして。いや、もしかしてじゃなくて、これは確実に。喜びと、それを制する臆病さとでぐるぐると考え込んでいるうちに、十分。ジョーは「いつ来てくれても構わん」とだけ言ってアパートの玄関扉を閉じた。


 やっぱり合鍵だ!


 舞いあがったぼくが一通りじたばたしたあと、アパートの階段を上り、204号室のドアを開けた。「やれやれ」呆れたように、ジョーは口元を歪ませた。


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