回想4


 ぼくは車に乗ると、見送るジョーに手を振るのもそこそこに、急いで自宅へと向かった。乱暴な運転に、後部座席にいるクロハラハムスターがキーキーと声をあげた。

 慌ただしく自宅のドアを開け、自室にゲージや水槽を運び込むぼくを、ソウエンが目を丸くして見ていた。ぼくは再び車に乗り込み、まずスーパーマーケットに寄ってジョーの好む銘柄の煙草をカートンで購入。そのあとお馴染みのデリに行った。唐揚とカニ玉子とライスボール。

 かなり急いだが、大学の駐車場に戻るころには辺りはうっすらと暗くなってきていた。人も車も少なくなった広くて暗い駐車場。ぼくは強引にブレーキを踏み、反動で揺れる車体から飛び出した。ジョーはそこで、ぼくが去る前と同じ場所、同じ体制でじっとそこにいた。その姿がまるで寄る辺なき子供のようで。母親に取り残された迷子のようで。

 ぼくは殆ど無意識に、彼の小さな体をかき抱いていた。ぼくの吐く息の音ばかりが、ぼくの耳にうるさい。このまま永遠にいられたらいいのに、とぼくは思ったが、ジョーが身を強張らせていることに気付き、慌てて離れた。


「ごめん、嫌だったか」


 ぼくはジョーを車に乗るように促した。辺りが暗いせいで、ジョーがどんな顔をしているのかわからない。ジョーの家はどこだい? そう聞くのが当たり前の行動だとぼくはわかっていたが、どうしても口が開かなくて、ぼくはそのまま車を発進させた。

 わざわざ聞かなくても、ぼくはとっくに彼の家がどこにあるのか知っている。ストーカーしていたころにもう既に突き止めてしまっていて、これから向かうのに迷うことすらない。ジョーはぼくのことをどれだけわかっているのだろう。ぼくはジョーの爪を、髪を、彼と初めて言葉を交わすよりずっと前から持っているのだ。今だってそれは自室の中、大切に保存されている。

 ぼくはかつてぼくの中に存在していた神様に、心の中で懺悔した。ジョーの身近にいることを許されてから、何人もかつての同士を排除しました。彼らの気持ちをぼくは誰よりも理解しているのに、ぼくだって彼らと変わらないのに、ぼくはジョーを崇拝し、遠巻きに眺めてありがたがる奴らを嫌悪し、軽蔑し、危害を加えました。奪われたくなかったのです。決して奪われてなるものかと、ぼくは、思って。

 信号待ち、学校や会社の帰りなのだろう、人々がまばらに横断歩行を渡って行く。そこに突っ込んでしまおうか。全てを滅茶苦茶にしてしまおうか。そんな妄想がアクセルを踏み込ませようとした、そのとき。ぼくの震える左腕を小さな手が触れた。ハッとして隣を見る。聞き取れるか取れないかくらいの、声。


「……嫌ではない」


 ジョーは一瞬ぼくの目を見たが、すぐに逸らして俯いてしまう。ジョーの言葉が駐車場でのぼくの言葉に対する返答だと気付くのに、少しかかった。だってあれは自分でもう完結してしまっている独り言のようなもので、問いのつもりではなかったから。

 揺れる視界の中、信号が色を変える。後ろの車がせっつくようにクラクションを鳴らしてきて、ぼくは慌てて車を発進させた。ジョーの手がぼくの腕から離れる。とめどなくぼくの両目から流れ出る感情の奔流を、彼は一体どんな目で見ていたのだろう。



 204、というプレートの貼られたドアの前で、ジョーはぼくに忠告した。


「いいか、大声は出すな。襲われるぞ」


 ぼくは唾を飲み込み、心の準備をした。何度も擦った瞼がひりひりと痛い。鉄製のドアがギリギリと錆の擦れる音を立てて開く。暗い室内から、生温かい空気が漏れてきた。鍋島ゼミの温室を訪れたときのような、濃厚な草の臭いが漂ってくる。半分ほど開いたドアの隙間から、ジョーがするりと室内に入った。それに続いてぼくも室内に入る。

 パチン、とジョーが部屋の電気をつける音。パッと明るくなり、目の前に飛び込んできた光景に、ぼくは思わず「うっ」と声を漏らし、口を手で押さえた。そうでなければ叫んでいた。


 蠢いている。緑色の軟体動物が、縦横無尽に部屋中を蠢いている!


 これほどまでに蠢くという言葉が当てはまる存在が、今までにあっただろうか。ジョーはこれを植物だと言っていた。確かに、この緑は植物の緑だろう。しかし蔓は最早触手と言っても過言ないし、何より水音を立てながら動き回っている様はまるで映画に出てくるクリーチャーのようだった。蜜だか何だか知らないが、蔓の先から分泌された液体が床をぬめらしている。

 吐きそうだ。虫を見たとき以上の生理的な嫌悪が胃の底からせりあがってくる。ジョーはぼくの様子を気にすることなく、部屋の奥に進み、液体まみれのイスに座った。足の力が抜けたぼくは膝をつき、蠢く緑を見上げる。太いホースほどもある蔓がぼくの目の前まで伸びてきた。ぼくは反射的にのけ反り、頭を後ろのドアにぶつけた。蔓はぼくの鼻をピチャリと濡らすと、するすると奥に戻っていってジョーの前で先端を項垂らせた。ジョーはその蔓を慰めるように優しく撫でる。いつの間にか、彼の体には無数の蔓が絡みついていた。


「……随分と懐かれているんだな」


 ぼくの言葉に頷きだけで返すと、ジョーはイスから立ち上がった。蔓が空気を読んだように彼から離れていく。なるほど確かに、知能は高そうだ。ジョーは玄関に放り出されていたデリの袋を拾い、唐揚の入ったタッパーを取り出した。ぼくは力の抜けた体でなんとか立ち上がる。ジョーの髪から緑色の液体が垂れ、彼の頬をつたった。

 なんてこった、とぼくは心の中で何度も呟く。あまりの衝撃にぼくの頭の中の語彙は半分以上消滅してしまっていた。

 ジョーはそんなぼくの様子に、少し頬を歪ませた。能面みたいな無表情か、そうでなければ眉間に皺を寄せて殺気迫る表情をしている彼の、まあ何とか笑顔に見えないこともない笑顔である。

 ぼくは溜息をつき、デリの袋からカニ玉のタッパーを取り出した。いつまでも衝撃の余韻に浸っているわけにもいかない。ぼくはジョーの友人なのだ。このくらいで動揺してどうする。半場やけっぱちになりつつタッパーを開けると、いつも通りのおいしそうな匂い。子供のころに遠足で山登りをしたとき、山頂であけたお弁当の中身が昨日の夕食の残りだったときと同じような気分になった。ほっとするような、残念なような。

 ぼくは部屋の隅にあった折り畳み机の足を立てて、その上にデリの惣菜を広げた。もそもそとそれらを食べながら、ぼくは改めて部屋を見渡す。広さは五畳程度だろうか。ドアを背に、左側がキッチン。キッチンには冷蔵庫と電子レンジが置かれているが、食器の類は一つもない。キッチンの奥にはカーテンが見えた。トイレだろう。この辺りはアジア人街が近くて住んでいるのもアジア人ばかりだから、アパートの作りもアジア人向けになっている。トイレにドアがないのもそのためだろう。カーテンで区切るあたりに、ジョーのニホン人としてのルーツが見える。そして右側。右側には布団がぐしゃぐしゃに丸められていた。その横に、植木鉢。蔓はそこから生えている。根本は何本もの茎がまとまっていて、木の幹のようになっていた。蔓には葉はついていなくて、根本に数枚だけ生えていた。

 ぼくはこの怪しい植物……まあ、殆ど動物みたいだが植物だろう。それがどういう経緯でジョーの部屋に置かれることとなったのか、という疑問にようやく辿りついた。やはり思考が少し鈍っている。

 唐揚だけをペロリと食べ終えたジョーは、煙草を吸いはじめた。蔓がキッチンまでのびていき、灰皿を絡め取って戻ってきた。ジョーは何食わぬ顔で灰皿に灰を落とす。もうジョーにとってはこいつと暮らすのは日常になっているのだ。ジリッ、と胸の奥が焦げた。ぼくは残っていたカニ玉とライスボールを口に詰め込み、飲み込む。


「ジョー。こいつとはいつから一緒に暮らしているんだ?」


 ぼくはジョーにまとわりつこうとする蔓を手で払いのける。不満そうにうねる蔓を睨みつけると、蔓はぼくの腕に絡みついてきた。苛立ちのあまり強くひっぱると、蔓は簡単にちぎれてしまった。ぷしゅ、と断面から粘液とは違う、さらさらの液体が飛ぶ。血液みたい、とジョーが言っていたのはこれか。蔓のまとっている粘液は薄い緑色だが、これは透明だった。臭いをかいでみると、硫黄のような鉄のような、変な臭いがした。じゅ、火が消える音。天井から垂れてきた粘液が、ジョーのもっている煙草の火に落ちたのだ。

 床も天井も粘液まみれだが、ジョーの頬についていた粘液はもう乾いていた。案外早く乾くらしい。そして乾くと、殆ど透明になる。粘液は血液のようなものに比べて、ほぼ無臭だった。いや、鼻が麻痺しているだけか。部屋に入ったときには草の臭いを感じていたもの。


「ふむ、この形状になってからは二週間くらいだな。最初はほんの小さな細胞でしかなかったんだが、培養して育てているうちに蔓が伸び始めて、それから爆発的に成長した。元は熱帯で発見された植物だから、室内の温度を下げると活動が鈍り、枯れはじめる」

「熱帯の植物……そういえば、前に電話でオヒルギ? の通気口に寄生してる植物がいる、みたいなことを話していたっけ。もしかしてそれと同じ種類なのか?」


 空になったタッパーをデリの袋に入れ、ゴミバコを探したが見つからなかった。仕方なく玄関のあたりに放り投げて置く。あとでぼくが持って帰ればいい。ジョーの十分ルールにはもうぼくは慣れてしまって、以前のようにじっと待つことはしなくなった。それでも心の中で秒数は数えているけれど。もうこれは癖みたいなものだ。


……159、160。


 ぼくは植木鉢の近くまで行き、根本の茎を観察した。申し訳程度にしか生えていない葉っぱをめくると、その下に蕾があった。蕾は全部で六つで、花になりかけているものもあった。花の色は濃い黄色をしている。なんだか蔓の緑と相まって、胡瓜みたいだ。どんな実がこいつには成るのだろう。というか、実はできるのだろうか。花が咲くからといって実ができるとは限らない。そもそもこいつがどういうジャンルに分類される植物なのかもわからない。熱帯の植物、と言われればなんとなくそんな感じはするが、それだけでは説明不足だろう。

 しかしジョーの口ぶりからすると、ジョーもよくわかっていないようだ。ジョーにわからないのなら、ぼくにわかるはずもない。この植物は今、地球上にいる植物の概念を超えたものなのだ。もしかしたら宇宙からやってきたのかもしれない。見た目は、ほぼクリーチャーなんだし。地球を滅ぼそうとしている新生物かも。


……600。


 「同じ種類ではない。同じもの、だ。植物は必ずしも交配によって増えるとは限らない。地下茎やランナーを伸ばして株分けされた植物は、親株と全く同じ遺伝子を持つクローンだ。この謎の植物も、そうやって増えているのだろうと当初は思われていた。しかし、」


 ぶち、とジョーが一本の蔓の先端を千切る。ジョーの手の中で、蔓だった組織は液体を飛び散らせ破れた風船のように小さくなった。


「本体から離された組織はすぐに枯れてしまう。この状態から培養させることは俺には不可能だった。こいつは茎の細胞を俺が培養させて育てたのだが、自力で地下茎やランナーのようなものを伸ばしているのは今のところ確認されていない。ならば根かと思ったが、根は極端に短く、これまでの観察では一部が切り離されるといった現象も見られない。実から育つならクローンにはならないはずだ。ちなみに、実が成るところまではシャンウェイ博士のラボでも観察されているのだが、成熟しないまま腐り落ちてしまったらしい。……つまり、この植物がどうやって増えているのかは謎のままだ。無論、まだ栄養繁殖……クローン成形にはいろいろなパターンがあるから、まだ手詰まりではない。まだまだ研究はこれからだ、ということだ」


 かつてない饒舌でそう語ったあと、ジョーは満足そうに息を吐き、新しい煙草を取り出した。先ほど粘液に火を消されたシケモクは、蔓が絡め取っていった。灰皿に入れるのかと思ったら、自分の植わっている鉢の中に入れてしまった。もしかして肥料のつもりだろうか……。


 ぼくはしばらく蔓の様子を見ていたが、夜もいい加減な時間になっていることに気付き、家に帰ることにした。泊まってもいいかと聞けばジョーは別にいい、と言ってくれるかもしれなかったが、布団は一枚しかないし、頭の整理もしたかった。何より、この蔓たちに囲まれていては眠れそうにない。


「こいつが君を襲ったり、危害を加えたりすることは、絶対にない?」


 やはり、十分。靴を履いている途中で、ジョーはぼくの問いにしっかりと「ない」と答えた。ぼくは彼を信頼し、アパートから出た。車の中にはぼくが持って降り忘れた煙草がワンカートン、助手席に置かれていた。


 自宅に戻ると、ぼくの部屋でソウエンがクロハラハムスターと遊んでいた。ぼくには噛み付いたというのに、ソウエンの手の中ではすっかりおとなしくなって嬉しそうに愛嬌を振りまいていた。ぼくはなんだか気が抜けてしまい、ソウエンに早く寝ろと注意するのも忘れてベッドにもぐりこんだ。目を閉じてもずっと、蔓が瞼の裏にちらついていた。


 「哥哥にいさん?」


 ソウエンが心配そうに何度もぼくを呼ぶので、ぼくは「おいで」とソウエンをベッドに入れた。こんなことは子供のころ以来だったが、ソウエンは案外嬉しそうで、ぼくも久しぶりに人のぬくもりに触れて、安心できた。


 ジョーはあの緑の檻の中で、一人布団に丸まっているのだろうか。寂しくはないのだろうか。それとも、蔓がいるから一人ではないのだろうか。一人だとは、思わないのだろうか――。

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