回想3

 春休みが近づいていた。ぼくは少しずつ部室にいる生き物たちを自宅に運び始めた。なんでも、ジョーはこの春休みの間に一つの大きな論文を制作するらしく、部室にいる動物たちの世話ができないのだとか。ジョーと過ごせないのは心底残念だったが、論文に集中するため、と言われら仕方ない。

 どういう趣旨の論文なのか、と聞いたら、ジョーの口から恐ろしく長い宇宙語が飛び出した。ぼくには全く理解できない分野らしい。しかしジョーが本気で書くものなのだから、世界中に衝撃を起こすものであることは間違いない。科学とはどれだけ大きな発見でも、すぐには日常に差異を生み出さない。でもいつか遠い未来、ジョーの功績は世界の宝になる。ジョーはそんな世界に、ちらりと目配せすることもないだろうけれども。

 冬休みも含め、夜以外ずっと大学に行っていたから、春休みは昼間も自宅で過ごすと言ったら、母親がおおいに喜んだ。妹のソウエン(燕の園、と書いてソウエンだ)は、ぼくよりもぼくの持ち帰ってきたタイワンリスに喜んでいたけれど。タイワンはぼくたち親子のルーツでもあり、憧れの土地だ。帰りたい、というのとは違うけれども、行ってみたい、と無邪気に思うこともできない。この、自分のルーツに関する複雑な感情は何もぼくたち家族だけのものじゃない。

 この国はWW2以降にできた多国籍国家だ。ハーフやクォーターといった、一体どこを自分のルーツにすればいいのかわからないような人もたくさんいる。ジョーだって、ニホン名を名乗っているけれど顔立ちや髪色は欧羅巴系だ。彼の口から自分のルーツや人種が語られたことはないから、詳しいことはわからないけれども。


 授業最終日。ぼくは部室に残っていた動物たち全てを運ぶため、部室と駐車場を行ったりきたりしていた。生物部の部室は部室塔の最上階にあるため、かなりの重労働だった。部室には、緑色の繭の標本だけが残った。そう、結局、緑色の繭からは成虫は出てこなかったのだ。繭を調べた結果、幼虫は中で息絶えてしまっていた。

 ジョーは、半分に割った繭と、中にいた幼虫、そして割らずに残しておいた繭も含めて、全てホルマリン漬けにしてしまった。五つできたホルマリン漬けのうち、三つは鍋島ゼミに寄付された。それらはそれらで、鍋島ゼミの貴重な資料となるわけだ。わざわざホルマリン漬けを生物部の部室まで回収に来た鍋島先生は、ジョーの顔を覗き見て、何故か満足気に笑っていた。


 駐車場。車に動物たちを運び込むのを手伝ってくれているジョーに、ぼくは聞いた。


 「なあ、こいつら、ジョーの家では預かれないのか? さすがにこれだけ多いとなると、ぼくも世話が大変なんだけれど。ぼくの家だって、部室ほど設備はよくないからね。論文を書くのに集中すると言ったって、少しくらいは動物の世話もできるだろう。そのくらいできる心の余裕がないと、体を壊すぜ?」


 車の中では、コンセントがないためポンプが切られ、水がこぼれないように水槽の蓋をテープで張られてしまった熱帯魚が、落ち着かなさげにぐるぐると同じところを旋回していた。水槽の横では毛のないモルモットが丸まって寝ている。その隣のクロハラハムスターは、ゲージの柵を噛むのに精を出していた。やめろよ、と指を出したら、思い切り噛まれてしまった。痛い。指からぼたぼた垂れる血をティッシュで拭っているうちに、十分が経ち、篠田は言った。


「ユーヒェンには苦労をかけて申し訳ない。設備はまあ、部室のものも大したことはないから、多少は大丈夫だろう。俺の体のことも心配はいらん。……そうではなくてだな、俺の家にはもう既に生き物がいるんだ。そいつが部屋を埋め尽くしているから、もう他の生き物を置くのは無理だ」


 部屋を埋め尽くすほどの生物。その光景は簡単に想像できた。何しろ、生物部の部室がそんな感じだ。ソファと机以外は、何かしらの生き物たちの入ったケージや水槽が置かれている。いや、いた。過去形だ。これから、その全てがぼくの部屋に置かれることとなる。しかしジョーは、論文に集中すると言っていなかったか。部屋を埋め尽くすほどの生き物がいて大丈夫なのだろうか。いや、これ以上ぼくの部屋に生き物を持っていくのも無理だけれども。

 ぼくは何気なく「そんなに生き物がいたら大変じゃないか」とジョーに聞いた。ジョーが亀の入った水槽を持ったまま固まってしまったため、ぼくはそっと彼の手から水槽を取り上げ、シートを倒した後部座席に乗せた。クロハラハムスターの暴れる音で起きてしまったモルモットが不機嫌そうにゲージの中をうろついている。

 ぼくは車のドアを全て閉じた。中古で買ったトヨタ・カローラ。その煤けた白いボディの上に、夕焼けの空が写り込んでいる。そうかもうこんな時間か、と思いながらぼくは振り返った。そして、その先にいたジョーに、目を奪われる。

 光を柔らかく反射するプラチナブロンド。頬の上に淡い影を落とす睫毛。髪の色素の薄さに似合わない、鉛のように黒い瞳……。少年のように華奢な体は、夕焼けの日のもとでさらに儚く見えて、触れただけで粉砂糖のように崩れてしまいそうだ。ぼくは膨大な知識の詰まった丸い頭に触れた。額はひんやりと冷たかった。ぼくの手が熱いせいかもしれない。ジョーはぼくに触れられても微動だにしない。

 ごくり、とぼくの喉が鳴った。仮にここでぼくが何をしようと、十分の間に体裁を整えてしまえば、ジョーにはわからないのだ。ぼくはジョーの額から手を離した。橙の光が、目に、チカチカとして痛い。空には鳥の一匹も見当たらなかった。


……559……。


「たくさんいたりはしない。一匹、いや一つだ。植物であることは確定しているのだが、動物のように蔓が動き回る。数えきれないほどあるそれを試しに一本切ってみたら、双子葉類によく似た断面をしていて、血液のような液体が吹き出した。最初は無造作に動いているだけだったが、そのうち明確な意志を持って俺をとらえようとするようになった。食虫植物のようなものかもしれない。抵抗してからは無理に捕まえてくることはなくなった。大量の水を摂取する必要があるようだが、勝手に水道の蛇口をひねって飲んでくれるから、世話は大変ではない。一度、蛇口をひねったまま放置したらしく部屋中が水浸しになり、陛下の住民と家主に俺が怒られた。注意するとそれは改善された。学習能力はかなり高いと言える。俺は今、そいつと暮らしている。この際だからお前に紹介してやろう。車に積んだ生き物たちを家に置いたら、この駐車場まで戻ってきてくれ。俺の家に招待する。ボロいアパートだがな」


一気に喋ったあと、それらの言葉を僕が理解する前に、息継ぎをした篠田が一言追加した。


「ついでに何か食べ物を買ってきてくれ。三日まともに食ってない」

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