回想2

 冬休みになっても、ぼくと篠田は殆ど毎日学校に行き、部室で過ごしていた。動物たちの世話をしなければいけなかったからだ。ぼくは実家暮らしだし、田舎に帰らなければいけない、なんて事情は起こらない。

 篠田の家族構成についてはメディアに載ったこともないし、本人の口から語られたこともない。けれども、少なくとも篠田の風貌は誰かに世話されているそれではなかった。そういうことは、何となくわかるのだ。実家で親や家族と暮らしているやつからは、家庭の気配がする。それは毎日きちんと洗っているであろう髪や、ちゃんとした食事をしているのがわかる肌色や、ボタンやジッパーが取れたり壊れたりしていない清潔な服、そういったところに現れる。篠田にはそれがない。平気で何日も同じ服を着ているし、顔色には食生活の乱れが出ている。髪は生来のプラチナブロンドが輝いているが、べっとりと額に前髪が貼りついていることなんて多々だ。

 ただ、目だけがギラギラとしている。ぞっとするほどの意志の強さと、何かに対する強い……怒りのようなもの。ぼくに、いや人全般に向けられる視線はぼんやりとしたものが多いが、ノートに何かの書き物をしているときなんて、ちょっと見ていられないほど怖い。瞳孔なんて、開き切っちゃって。


 大晦日、大学の門は閉まっていたがぼくは気にせずに大学の裏手の山からまわり込み、部室へと向かった。予想通り、そこは電気も暖房もついていて、篠田はいつもと同じようにスポンジの飛び出たソファに座って煙草を吸っていた。

 ソファの前にあるテーブルの上には、見慣れない茶色い小さなダンボール箱。ぼくはその中を覗き込み、すぐさま後悔した。ダンボールの中には桑の葉。そして、白くて細い体に黒い斑点のついている大きい幼虫がいた。


「篠田。……これは何だ。どこからもらってきた」


 ぼくが聞くと、篠田は珍しく十分と経たずに話し始めた。篠田は部室にやってきたぼくがこれを見てこういう質問をするってことを予想してあらかじめ言う言葉を決めていたのだろう。きっとぼくが質問しなくても、篠田は勝手にぼくに話し始めていたはずだ。


「蚕の幼虫だ。この葉は桑の葉。どちらも季節外れのものだがな。生物科の鍋島先生がやっているゼミがあるだろう。そこのスタッフにもらった。あそこは一年中、いろんな虫を育てているからな。温室で桑も育てているから、その葉も定期的にもらう約束をしてある。と言ってもこの幼虫はそれなりに育っているから、そこまで大量にはいらんだろうが」


 篠田は上機嫌だった。ぼくは篠田がやっている研究を詳しくは知らないが、確か動物に寄生して育つ植物についてだったと思う。いや、もっと高次元の研究なのだが、ぼくに理解できるのはそのくらいなのだ。生物部に入ってから多少、理系的な分野にも触れるようになったが、ぼくは根っからの文系だから、理系分野の難しいことは把握しきれない。


「この幼虫で何か実験をしているのか」


 ぼくはダンボールの中身を直視できない。虫は苦手なのだ。カエルや熱帯魚にやる冷凍赤虫だってぼくは触りたくなくて、ピンセットでつまんでやっている。篠田は平気で素手で触れるし、その手を洗わないままサンドイッチを食べたりもするけれど。篠田は今回のぼくの問いにはすぐ答えなかった。篠田は頭がいいからぼくのこの問いだって予想できていただろうけれど、頭の中で溜めて置ける文章の量には限界がある。篠田の脳の使い方は普通の人とは違うのだ。

 ぼくは時間を数えた。一分……五分……。しかし、数え終わる前に、部室に設置されている固定電話が鳴った。こんなことは初めてだった。ぼくは篠田の様子をうかがったが、さっきのぼくの問いに対する返答を考えているようで、電話の音に何の反応もしていない。

 ぼくはどうしようか迷ったが、迷っているうちに電話が切れてしまった。部室内に静寂が戻る。水槽のポンプの音だけが、こぽこぽと部室内に鳴る。


「一昨日、俺の住んでいるアパートに貴重なサンプルが届いてな。熱帯雨林に生息する、まだ名前のついてない植物の茎の細胞だ。それを一部の幼虫に移植するつもりだ。蚕を選んだのには、飼育しやすいという以外にも理由がある。成虫になっても飛んで行くことができないから、観察しやすい。繭の成型にどういう影響があるかも興味深い」


 篠田はそう言って、幼虫を一匹つまみ上げ、手のひらに乗せた。篠田の手の中で、幼虫は逃げるでももがくでもなく、緩慢に短い足を動かしていた。ぼくはそれから目を逸らしつつ、電話が来ていたことを篠田に言った。十分待つ間に、ぼくは机の上の灰皿を取り、ソファから立ち上がった。灰皿の中で大量の吸い殻がくすぶっていた。

 ぼくはそれに水をかけ、部屋の隅に置いてあるゴミ袋の中に捨てた。ゴミ袋の中には学校近くにあるデリのロゴが入った容器が大量に入っている。篠田はいつもこのデリで買った惣菜で昼食も晩飯も済ましてしまう。ぼくも休みの日は篠田と飯を食うから、ここ最近は同じようなものばかり食べている。篠田はそれでも平気らしいが、ぼくはいい加減そろそろ飽きてきている。


……550、551、552。十分を秒数に直してぼくは数える。558、559、600。


 篠田は「もっと早く言え」と呟いて机の上の固定電話のダイヤルを回した。プルル。ワンコールで相手は電話に出た。篠田はいつも通りの早口で話し始めた。


「オヒルギの胎生種子だが、胚の幼根が伸びるメカニズムは例の通りで間違いはない。だが泥土に対抗するための呼吸根だが、近年になって別の植物との一体化によって従来とおなじ通気組織ではなくなっているという話があったな。その別の植物だが、やはり例のものと同じか、同じ種類だ。そいつがどこに来たかは、シャンウェイ博士が調べているからそちらを当たれ。俺は知らん。それからサンプルだが、ここに来るまでに五つ駄目になっていた。新しいものを送れ。あと追加で葉の細胞も頼む。種子もそのうちシャンウェイ博士から分けてもらおう。交渉しておけ」


 一方的に話して、篠田は電話を切った。恐らく相手は返答する隙もなかっただろう。慌てて電話をかけたせいで篠田の手から振り落とされた幼虫が、床の上でのびていた。ぼくはピンセットでそいつをつまみあげ、ダンボールに戻してやった。こいつのことは好きになれないが、別に憎いわけではない。すくすく育って、篠田の役に立ってくれればいい。


 冬休みが明けて授業が再開されてから数日後、幼虫は繭を作り始めた。殆どは真っ白い色をしていたが、数個、深い緑色になったものがあった。きっとそれが篠田が実験に使ったものだろう。繭になってしまえば、ぼくはもう平気だ。

 ダンボールの中にころん、と転がっているそれらを眺めていて、ぼくは白い繭の中に変なものが一つあるのに気付いた。他の繭が綺麗な楕円形をしているのに比べて、表面が少しぼこぼこしているのだ。そして他の繭よりも一回りか二回り、大きい。緑色ではないが、これも篠田が実験に使ったやつだろうか。そう思ってぼくは篠田に聞いた。一分。五分。十分。篠田は「なんだ、それはな」と話し始めた。


玉繭たままゆと言うんだ。ごくたまに起こる自然的な現象だ。二匹の幼虫が共同で一つの繭を作るんだ。つまりこの中には二匹の幼虫が入っている。糸を取りにくいから、こちらではくず繭扱いされることも多いが、ニホンには玉繭からとった糸だけを使って布を作る工房があるらしい。ニホンの蚕はもともと玉繭ができやすい蚕らしいから、それが関係しているのかもな。あと、玉繭は別称で『ふたつまゆ』や『ふたごもり』と言われることもある。……まるで、」


 そこまで言って、篠田は喋るのを辞めた。息が続かなくなったのかと思ったが、違うようだった。「まるで?」とぼくは聞き返したが、十分経っても返答はなかった。ぼくは勝手に言葉の先を考えて、勝手にニヤついた。まるで、


 ……俺たちみたいだな、なんて続いていたとしたら。


 ぼくは熱くなった頬を両手で挟み、ソファの上で身悶えた。妄想だけで喜ぶなんて、薄々わかってはいたがぼくは馬鹿かもしれない。ダンボールの中の玉繭が、ぼくは愛しくなった。同時に緑色の繭にちょっとした恐怖を感じもしたけれど。



 数日後、繭からは無事に蚕の成虫がでてきた。玉繭に入っていた二匹は雄と雌だったらしく、羽が広がって乾き切ると、すぐに交尾を始めた。雌は卵を数えきれないほど産んだ。緑色の繭からは、成虫は出てこなかった。

 篠田は緑色の繭だけを部室に残して追加観察するらしく、卵と成虫を鍋島ゼミの温室まで返してくるように、ぼくに命じた。ぼくはダンボールを抱えて、大学内でもかなり奥まった場所にある温室まで行った。温室内には数人のスタッフと、鍋島先生がいた。鍋島先生は、君が噂のユーヒェン君だね、と言った。


「ぼく、そんなに有名人になってるんですか」

「そりゃあ、今まで篠田くんに友人がいたことなんてなかったから」


 鍋島先生の言葉に、ぼくは俯く。ダンボールの中で、蚕はばたばたと飛べない羽を動かしていた。そういえばこいつらは、成虫になってからは十日しか生きられないのだっけか。


「ぼく、篠田の友人なんですかね」

「私にはそう見えるが、違うのかい?」

「……わからないんです。篠田がぼくのことを、どう……思っているのか」


 頭上で、鍋島先生が笑う気配がした。ぼくは顔をあげる。鍋島先生は優しい目をしてぼくを見ていた。日頃からの不安を口にしてしまったせいか、鍋島先生の目に写り込んでいるぼくの顔は酷く情けない表情をしていた。鍋島先生は宥めるようにぼくに言った。


「篠田くんはあの通り気難しい。研究に必要かと思って助手を手配したこともあったけれど、誰一人として篠田のサポートを出来る学生はいなかった。私は篠田くんとはそれなりに付き合いが長いから、彼をどう扱えばいいのかそれなりにわかっている。だから助手たちにも、彼との付き合い方のアドバイスはしていたんだ。それでも、みんな篠田のところへ行った数日後、ボロボロに疲弊して返ってくる。篠田くんは気に入らない人間には相当、辛辣なことをするんだ。詳しくは言わないけれど、噂には聞いているだろう?」

「……まあ、噂では」


 篠田のストーカーをしていた時期、ぼくは確かに、篠田が自分に関わる人間に対して、酷い扱いをしている、という噂を聞いていた。流石に部室の中を覗き込んだりすると篠田にバレるため、当時、実際に見たことはなかったけれども。

 噂、曰く。実験中に邪魔をした助手に硫酸をぶっかけたり、わざと危険な機材に触らせて感電させたり。そして流石にこれは尾ひれがつき過ぎだとは思うが、大学の裏手の山にある沼に、助手だった女の子を沈めた……とか。

 ぼくはそんな噂は、篠田に悪意を持っている人が意図的に流したものだと思っていたのだけれど。


「私には、篠田くんは君と一緒にいて楽しそうに見えるよ。こんなことは初めてだ」


 早く部室に戻ってあげなさい。そう言って鍋島先生は蚕の入ったダンボールを抱え、背を向けた。ぼくはお辞儀をして、部室へと駆け足に戻った。

 篠田は何てことのない顔でソファに座り緑色の繭を眺めていたけれど、ぼくには篠田が以前よりも輝いてみえた。鍋島先生の言葉をまったくストレートに受け取れたわけではないけれど、ぼくは篠田と過ごした時間に少し自信を持つことができた。


 だからこんな、試すようなことを言った。


「ねえ、篠田。……これから、君のことをジョーと呼んでも構わないかな」


 十分をこんなに長く感じたことはなかった。1、2、3、4、5、6。

 ぼくは期待しながら、それでも絶望的な未来をどこかで予想しながら、数えた。部室の暖房が利きすぎているせいもあって、ぼくの握った拳は火傷しそうなほど熱い。


555、556、557、558、559…………。


 気を失いそうなほどの長い時間のあと、篠田はぼくに言った。


「かまわない。お前に、……ユーヒェンにそう呼ばれるのは、俺にとって喜ばしい」


 ……それ以降、ぼくとジョーの関係は微細ながら、それでも確実に変わった。ぼくはもうジョーへの好意を隠さなくなったし、ジョーはぼくに甘えてくるようになった。

 部室のソファでぼくの膝に頭を預けて眠るジョー。思えば、ぼくの幸せはこのときが最高だった。けれども人とは変わった関係に慣れてしまうもので、慣れてしまうと今度はもっと、もっと、と欲望は果てしなくなる。


 触れるだけでは収まらなくなってしまったこの醜い心を、ぼくは愛だなんて呼びたくはない。認めよう、ぼくは愚かだ。途方もなく愚かで、馬鹿だったのだ――。


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