回想1
ぼくがジョー、こと
ジョーはそこで、大量の葉煙草を燃やしていた。白い煙が一面に立ち込めていて、息をするのも困難なほどだった。ぼくは風の吹く方向を見ながら、必要以上に煙を吸わないようにして篠田丞に近づいていった。細い身体に、ひときわ目立つプラチナブロンド。鼻の頭に散ったそばかす。近くで見る篠田丞は、檀上に立つ姿よりもずっと幼く見えた。
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篠田丞について説明する言葉はたくさんある。理学研究の天才、植物学の未来の巨匠。異種族間における新たなコミュニケーションツール開拓のパイオニア。これらは外部もとい世間における認識である。大学創始きっての問題児。生物部の孤高の変人。宇宙人、破綻者、バケモノ、クリーチャー、人外くん。これらは、大学在校生における認識である。共通しているのは、そのどちらも篠田丞のことを特別視しているということだ。
彼のことを知る人間は、嫌悪に歪むか宗教めいた崇拝の念を抱くかのどちらかに傾く。ぼくは崇拝だった。大学に入学してからのぼくの生活はもっぱら彼の論文や研究発表をチェックし、構内で見かける彼を後ろからこっそり追いかけ、二十四時間ひたすら彼のことを考え続けるという行為に費やされた。異常な執着ではあるものの、これはぼくだけの特異な行動ではない。ぼく以外にも、まあ言い方は悪いが、篠田丞のストーカーみたいなやつはたくさんいた。前述したとおり、彼を知る人間は彼のことを嫌悪するか崇拝するかのどちらかだ。崇拝する人たちにとって、篠田丞は心の拠り所であり、一つの宗教なのだ。
……ぼくは、彼の信仰者の中で唯一、彼に近づこうとする人間だった。
ぼくがこの大学に入った最終目標は、篠田丞と親しくなることであり、それは信仰心をある種、裏切る心の持ちようだった。信仰者からすれば篠田丞は自分たちのような俗物が汚してはならない、唯一神だ。
つまりぼくは、神様への禁忌を犯した。
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坂の上の喫煙スペースで、ぼくは彼の隣に立った。何と声をかけようか。どうすれば篠田丞がぼくに興味を抱いてくれるのか。二年間、いや、大学に入る前から数年かけて育てた勇気の使い方を、ぼくは決して間違えてはいけなかった。篠田丞はぼくが隣に立っても全く気にせず、と言うよりむしろぼくの存在に気付いてもいない様子で、燃える葉煙草をじっと見ていた。ぼくの心臓ははち切れそうなほど早く動いていた。早く何か言わなければ。焦る舌と、どうにかして彼が興味を持つ一言が言いたいという欲望が、かみ合わない。
「ああ、すっかり真っ白じゃないか。ベーコンにでもなる気かい、君」
ひねり出した言葉が、それだった。ぼくは風上、彼の隣で返答を待った。一分、五分、十分と。葉煙草がすっかり炭になったころ、篠田丞はようやくぼくの顔を見て言った。
「俺にそんな趣味はない」
彼と目があった瞬間、心臓が一際強く跳ねた。あの篠田丞の目に、今はぼく一人が写っているのだ。ぼくは次にかける言葉を必死で探した。何を言っても良い気がしたし、何を言っても駄目なような気もした。所詮、ぼくは至極普通のどこにでもいる大学生であり、まかり間違っても神様と親しくなれるような、そんな大層な人間ではない。
自分の立場を思い出してしまったぼくは、すっかり次に出す言葉を失ってしまった。そうしているうちに、篠田丞は喫煙スペースから離れ、坂を下って行こうとしていた。ぼくは震える足を叱咤し、彼の背中を追いかけた。ぶかぶかの白衣に覆われた細い腕をつかむと、彼は不機嫌そうな顔で振り向いた。「あっ、く、」僕の喉から無様な音が鳴る。「きっ、君は」
「君は、一体、何者だ?」
咄嗟に出た彼への問いがそれだった。一気に顔が熱くなる。何者だ、なんてそんな今更な質問をどうしてぼくはしてしまったのだろう。彼を定義する言葉なんて、いくらでもあるのに。篠田丞はぼくの質問に目を見開いて驚き、そのまま停止した。ぼくは彼の目から顔を逸らし、地面を見つめる。一分、五分、十分ほど経っただろうか。爆発寸前の肺を抱え、今にも足元から崩れ落ちそうなぼくに、彼は言った。
「篠田丞。十九歳だ。生物化学科の三年で、生物部の部長をしている」
シンプルな答えにぼくは呆気にとられ、そして目の前がはじけるような衝撃を受けた。そうだ、篠田丞だって、ぼくと同じ大学生だったのだ。彼が飛び級で大学に入った天才だということは変わらないけれども、それでも神様なんかじゃない。隣に立ち、目を合わせ、言葉を交わすことのできる存在なのだ。ぼくは本当に今、そのことに気付いたのだった。ぼくが篠田丞にかけるべき言葉は、変わった一言なんかではなかった。ぼくが言うべきは。
「ぼくはユーヒェン。憂鬱の憂に炎と書いて、そう読む。人文学科三類の二年生だ」
そう、ぼくが言うべきは、簡単な自己紹介と、そして、将来を見据えた希望。
「ぼくと、友人になってほしい」
篠田丞はぼくに腕をつかまれ、ぼくを見つめたままの顔で、思案し始めた。一分、五分、十分と。そしてぼくの腕を振り払ったかと思うと(この一瞬でぼくは尋常じゃない冷や汗をかいた)、ぼくの手を骨が折れそうなほど強く握り、凄まじい早さで歩きだしながら、一息に言った。
「そうか、友人か。それならば結構だ。生物部が部員不足でこのままでは学校から金が回ってこなくなる。そうなると俺の研究に支障が出る。部室には酒があるぞ。人肉じゃないベーコンだってある。お前が俺の友人ならば、すぐに入部届を出してくれるだろうな?」
そうして、僕は彼と『友人』という関係を結ぶことに成功したのだった。
篠田が生物部で何をしているのかというと、ほとんどの場合は本を読んでいるか、じっとなにかを考えていた。そして思い出したようにタバコを吸い、水道水で口をゆすいだ。
一方、ぼくはというと、部室にいるときは、室内で飼われている動物や植物の世話をしていた。動物はたくさんの種類がいた。煤けた灰色のリス、毛のないモルモット、凶暴なクロハラハムスター。何の変哲もない緑色のカエルもいたし、水草だけが育てられている水槽もあった。ぼくは彼らに餌をあたえたり、ちょっとしたしつけのようなものをしてみたりしていた。最初のうちは勝手がわからず、篠田が餌を与えた後にうっかりぼくも餌を与えたりしてしまっていたけれど、そのうち何となくの役割分担ができ、そういった失敗はなくなった。
篠田はぼくが部員になるまでは一人で動物や植物の世話をしていたらしい。ぼくは生物部の他の部員も、顧問の先生も見たことがなかった。ぼくと篠田はいつも生物部で二人ぼっちで過ごした。
篠田と友人になったのは九月末のことだったから、それから冬休みに入るまでのふた月と少し。その間、ぼくと篠田は付かず離れず……というよりぼくが一方的にくっついているような関係だった。ぼくは篠田にたまに話しかけたりしたが、返答が返ってくる確率は高くなかった。
さらに言えば、篠田はぼくの言葉に返答するのに、毎回必ず十分を要した。
最初のうちは計っていなかったから、だいたいそのくらい、という曖昧な認識だったけれども、のちに計測したことで、十分きっかりだという事実は確実なものになっている。ぼくは篠田とたいした交流はできなくても、ただ一緒にいるだけでよかった。と、思おうとしていた。ぼくは自分の中の欲が膨らむのを恐れていて、望むものを小さく少なくしようと躍起になっていた。
けれどもそうしているうちに実際の心はどんどんよどみ、汚くなっていくのだ。これは小心者にとってはよくあることであり、ぼくの凡人さたる所以でもあるだろう。
さあ、この期間のことは取り立てて思い出すほどのすばらしい出来事はあまりないのだけれど、一つだけ妙に印象に残っていることがある。篠田に関することではあるが、篠田本人とぼくとの間に起こった出来事というわけではない。
それは冬休みに入る二日前のこと。暖房のよく利いた部室内で、篠田は朝からノートに何かを書きつけていた。ぼくは授業があったから、朝に少し覗きに来たあとは夕方まで部室には来なかった。
昼休みになり、ぼくは数少ない友人である円谷くんに誘われ、本館の屋上階にあるカフェ「ヌルーテカ」でサンドイッチとアイスコーヒーという食事をとっていた。そのとき、円谷くんにぼくは言われたのだ。
「ユーヒェン、お前どうやって生物部に入ったんだ」
「どうやってって……どういうことだい?」
ぼくは首をかしげた。円谷くんはそんなぼくの反応に戸惑いながら、生物部には誰でも入れるわけではなく、ある条件がいるのだと言った。条件と言ったって、ぼくはただ篠田に友人になるのならば入れ、と強制されたようなものだ。知らないうちに条件に合格していたのだろうか。顧問の先生がこっそりテストしていたとか。そんな考えをめぐらせつつ、ぼくは円谷くんにその条件とは何なのか尋ねた。
円谷くんは生物部の部員であるはずのぼくがその条件を知らないことを不思議がりながら言った。
「篠田丞が部長なんだろ? あいつに認められないと駄目らしいって聞いたけど」
ぼくはその言葉の意味を理解したと同時に、顔中が熱くなった。ぬるくなったコーヒーを飲み、動揺を抑えようとしたのを覚えている。
認められないと、駄目? それじゃあ、篠田はぼくのことを。
そこまで考えて、ぼくの脆弱な精神は考えるのをやめたのだ。待て、まだわからない。円谷くんの言っていることが本当とは限らない。円谷くんが嘘をぼくにつくとは思えないが(これは信頼というより円谷くんの性格上)、円谷くんの得た情報が間違っている可能性だってある。舞い上がって、あとから間違いだと知ってしまうのは、怖い。
「……いや、でも、偶然だと思うよ」
ぼくはサンドイッチをほおばりながら、もごもごと言った。円谷くんはぼくの挙動不審な様子に首をかしげていた。ぼくは何だかいたたまれなくて、サンドイッチの乗っていた皿のふちを見ていた。ぴかぴかに磨かれている白い皿はぼくの顔を写していた。
「俺、ユーヒェンはすごいやつなんじゃないかって、実は思ってるんだけど」
「なんだいそれ。ぼくは至って一般的で、至極普通な、平凡な人間さ」
「言い切ったね」
「ああ」
「俺だったら、そんな風に言い切れないけどな」
はあ、とぼくは間抜けな返答をして、アイスコーヒーを飲み干した。カフェ内の時計をみると、昼休みが終わろうとしているところだった。ぼくは席から立ち、円谷くんと一緒にカフェから出た。円谷くんはぼくと同じ三年生で、間部先生という、本業は発明家をしている教授のゼミに入っていた。
間部先生はすごい発明をしているらしくゼミも人気だが、円谷くんは以前、「ろくにゼミにでなくても単位がもらえるから人気なだけだって」と呆れたように話していた。しかしそう言いつつ、円谷くん本人はというと、間部先生のやり方に文句を言いつつもきちんと毎回ゼミに行っているらしかったけれど。
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