第三章 変貌(1)

 放課後。

 氷室玲華は、高等部校舎の図書室にいた。

 図書委員である、小等部時代の友人である藤倉紀美子が、放課後の貸出当番に付き合ってほしい、と頼まれて残っていたのである。

「御免ねぇ、玲華」


 紀美子のぽっちゃりした丸顔に銀縁の眼鏡を掛けてその奥にあるパッチリした猫目が、図書室の入口傍にある本棚の前に立って本を品定めしている玲華を済まなそうに見た。


「ううん、いいのよ」


 玲華は頭を横に振る。


「懐かしいからね……ここ来るの」

「昔よく来たよね。あの頃の玲華って読書少女って感じで」

「まるで今は本なんか読んでないふうに聞こえるけど」


 玲華が意地悪そうに言うと、紀美子は苦笑いしながら否定する。


「もー、そんな事無いわよぉ。利発そうな所は変わってないけど言うようになったわよねぇ。――やっぱり彼氏が出来ると変わるわよねぇ」

「彼氏?」


 玲華の顔が強張る。


「市澤君でしょ? 付き合ってる相手って」


 紀美子が不思議そうに聞いた。


「同じ学校から転校してきたっていうじゃない? 噂じゃ一緒に住んでるって……」

「……誰があんな男と付き合ってるだって?」


 そう言って玲華は紀美子の目前にノーモーションで瞬間移動して睨み付ける。心底嫌そうな顔を露わにしていた。


「え、え、え? だ、だって噂じゃ」

「その噂の出所は誰かしら……」


 玲華は指をバキバキ鳴らしながら紀美子を詰問する。


「わ、わからないわよ! あ、あたしも変だと思ってたからね……だって玲華には葉山君が」


 紀美子が狼狽しながら言うと、何故か玲華はその名前を聞いた途端凍り付く。

 無論玲華の能力が発動したわけでは無い。その複雑そうな表情に満ちた面は、触れてはならないものに触れてしまった時の悔恨をしていような、そんなふうであった。


「……あたし、誰とも付き合ってないから」


 そう言って玲華はまた本棚の方へと向かった。

 傾げる紀美子は、子供の頃に玲華と正太の間にあったことは知らないでいた。アレはただの交通事故で終わっていた話である。

 それでも紀美子は不思議がった。子供の頃あれだけ仲の良かった二人が、折角再会したにもかかわらずギクシャクしている理由が全く理解出来なかったのだから無理もない。


「ま、まぁ玲華が誰とどうしようと関係ないか。――個人的にはなんで葉山君と寄り戻さないのか不思議だったから」

「……別に良いじゃない」

「良い……って、玲華、あんた寂しくないの?」


 思わずきょとんとする紀美子に、玲華は眉をひそめた。


「何であたしは正太が居ないと寂しいのよ?」

「……何よ、その嫌そうな反応は?」


 紀美子は思わず吹き出した。


「だって、二人のこと結構知ってる人多いから、葉山君が玲華の彼氏だって思ってる人も多いのよ。でも市澤君と付き合ってるって噂もあって、気兼ねなく葉山君に告白しようか、って子も居てね」


 それを聞いて再び玲華は凍り付く。今度も能力が発動した訳ではないが、全く真逆の反応である。やがて両手で口を押さえてクスクス笑い出した。


「あー、何よそのリアクション」

「だ、だって……あのデカブツ……そんなモテてるなんて……何の冗談?」

「あー、知らないんだぁ、葉山君、結構、人気あるのよ」

「へぇ~」


 今度は玲華が驚いた。


「あのデカブツ、結構モテるんだ。やるじゃないの」

「……玲華。あんた、本当に葉山君の事、何とも思っていないの?」

「割と」

「あんたって奴は……」


 紀美子は思わず仰いだ。


「……京都の転校してから面白くなりすぎ」

「お褒めにあずかり光栄です」

「でもさぁ」

「?」

「市澤君と同じ学校だったのは認めるんでしょ?」

「うん」

「一緒に住んでるのは?」


 すると玲華は暫し困った顔をしてみせ、


「紀美子だから正直に話すけど、確かに同居してるけど市澤君ってここの理事長の息子で一応あたしの親戚らしくてね」

「え、親戚?」

「ほら、商店街の裏にある大きなお屋敷。あそこの子」

「大金持ちじゃないのっ!」

「彼んち、一等地に土地持ってるけどそんな大金持ちじゃないわよ。それにこっちの家が決まるまで空いてる部屋でお父さんと厄介になってるだけ」

「そ、そうなんだ……」


 土地の規模から思わず資産の計算を暗算を始めていた紀美子だったが、玲華の説明を聞いて我に返った。


「それにあたし、ああいう人駄目だから」

「ああいう人?」

「市澤君の事よ」

「えええ……お似合いだと思うけど」

「それ以上言うとぶつわよ」

「そこまで嫌?」


 紀美子は噴き出した。


「……やっぱり本当は葉山君の事好きなんでしょ」

「ノーコメント」

「ずっるーい」


 ふて腐れる紀美子を見て玲華は苦笑いした。


「もー。玲華は美人だから良いわよねぇ……選び放題だし」

「そんな事無いわよ」


 玲華は本棚から適当に一冊取り出して開いた。本のタイトルは奇しくもツルゲーネフの「初恋」だった。


 ふと、玲華は子供の頃を思い出していた。


 葉山正太。

 己が傷付く事があっても気にせず、しかし他人が傷つく事を忌み嫌う、優しい少年だった。

 正太は子供の頃から玲華の超能力の事を知る者の一人だった。

 子供の頃、些細な事で近所のガキ大将に苛められた報復で凍傷を負わせた事があり、事情を知らない周りの者が玲華の事を薄気味悪がったが、しかし正太の機転で、そのガキ大将はドライアイスで凍傷に掛かった事になったのだ。

 無論、それをやったのは正太と言う事になり、正太が父親に大目玉を食らった事を聞いて、玲華は負い目を感じていた。

 その事に関して正太は、玲華に貸しを作った覚えは無い、と素っ気なく答えた。つまらない事で他人が傷付くのは見たくないと言って相手にしないのである。

 自分より他人の事を慮る。子供の頃からそんな男であった。


 だからこそ、自分が守らなければならない。そうで無ければきっと正太は死んでしまう。


「?」


 やがて玲華は、無言でいる自分を心配そうな顔でのぞき込んでる紀美子に気づいた。


「ど、どうしたの」

「市澤君とは話せるんでしょ?」

「?」

「実はさぁ、ここに呼んだ理由なんだけど、彼、ちょっと揉めてるらしくて……」


 それを聞いて玲華は、はぁ、と呆れ気味にため息を吐いた。


「……本当、他人おちょくるの好きだからねぇあいつ」

「でも、揉めてる相手がさ、生徒会とか体育会の人たちでね。――神先生のシンパ」

「シンパ」


 誰の事を言っているのか、玲華はそれを知っていた。

 神がこの学校に赴任後、神を慕う生徒が急速に増えていたのだが、その中でも鋭角化した集団があった。


『神先生の悪口を言う奴は殴られても仕方無い』


 それはもはや宗教、狂信的な域にあった。崇拝的な発言を憚ることなく行い、神に懐疑的な生徒との間でトラブルも起きていた。

 学校側も問題視していたが、トラプルの原因となっていた神自身が自身のシンパたちを諫めて事を納めていた為に具体的にどうこうする事はなかった。


「ほら、市澤君って神先生と何か知り合いみたいにため口するでしょ? アレが面白くない人多いのよね」

「ふぅん」


 玲華は市澤から、神とは暫く様子を見るように言われていたので傍観していた。なのに自分でそう言っておきながら干渉していた事を知って少し立腹するが直ぐに理解した。

 今、神と事を構えると自分も市澤と同様に渦中に置かれるのは避けられない。それでは「一番の目的」に支障が出る。


(……前の学校と同じ事態は避けないとね)


 玲華はため息を吐いた。――そんな時であった。


「――きゃあ!?」


 絹を裂く悲鳴。それは紀美子のものだった。


「どうしたの?」


 玲華は我に返って慌てて回りを見た。

 一人の男子学生が入口に立っていた。

 しかし、只、立っていた訳では無かった。

 学生服はボロボロに引き裂かれ、身体中赤黒い血を滲ませて、瀕死の身体でふらふらと立っていたのだ。


「加藤先輩!」


 玲華はその学生を知っていた。彼は体育会のメンバーの一人で、例の神のシンパだったのだ。

 加藤は玲華の姿を見て安心したのか、その場にへたり込んでしまった。

 玲華は慌てて駆け寄り、加藤を抱き起こして心配そうに血まみれのその顔を伺った。


「しっかりして! どうしたんですか!」

「た……助けて……誰が……警察を……呼んで……」


 加藤は息も絶え絶えに弱々しくすがる様に言う。


「何が……何があったんですか?」

「……滝本が……化け物になっちまった……!」

「化け物――」


 玲華はその言葉に仰天し、同時に脳裏に忌まわしい記憶が過ぎった。


 果たして、滝本に何が起こったのか?


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超神伝 arm1475 @arm1475

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