第二章  再会の転校生(5)

 昼休みの終わりを告げる午後の予鈴が校内に鳴り渡る中、正太は市澤と玲華と共に屋上から校舎へ入った。

 結局、正太は市澤から、CIAが二度と狙わないと言う説明を受けた以上の事は聞けなかった。市澤はもっと複雑な事情を知っているに違いないと、正太が深く追求しようとしても立て板に水で、全てのほほんとした笑顔で受け流してしまうのである。

 怜華は終始市澤に任せっぱなしで、何も応えなかった。根負けした正太は、いづれ聞き出してみせると諦め、自分から先に教室へ戻ると言い二人ともそれにならって正太の後を追った。

 屋上を降りる階段を、三人は無言で降りて行く。最後の踊り場を過ぎてもう一つ階段を降りると正太達の教室がある三階に着くという所で、突然、三人の歩みが止まった。


「……神、先生」


 正太は音も無く現れた神に驚いた。

 そして、その次に、怒涛の如く生じた凄まじい殺気に驚き、発生点たる背後の二人を振り返り見た。

 殺気が周囲の温度を下げているのか、正太の開いた口が、吐息の白い珠を紡いだ。否、それは殺意だけではなく、実際に気温を下げている者がそこにいるのだ。

 神を睨んで殺気立つ怜華の全身を取り巻く、青白く煌く『気』。

 それが、大気に浮遊する水分が凍結したものであるとは誰が知ろう。

 正太と市澤だけが、それが怜華の『能力』である事を知っていた。


「や、止めろ怜華、いきなり?!」

「落ち着くのだ、怜華君」


 咄嗟に制止する二人の声が届き、怜華は深呼吸して周囲に立ち込める『気』を静めた。しかし相変わらず神を睨むその目には、氷河の様に冷たい殺意が宿ったままであった。

 怜華が漸く落ち着いたのを見てほっとする正太は、思い出した様に神の方へ振り向く。今の怜華が起こした現象を見られてしまったのでは、と蒼白した。

 予想に反して、神は平然としていた。今の現象に気付いて当たり前だというのに。


「やぁやぁ、葉山君の後ろにいるのが、噂の美男美女だね。――市澤未来君と、氷室怜華君、だったね」

「“久し振り”ね、神先生」


 そう応えたのは、怜華であった。正太はまた驚かされて振り返った。


「怜華、お前、なんで、先生の事――」


 再び殺気立ち始めた怜華を制して、市澤が一歩階段を下った。


「待ちたまえ。――ちょうど良かった。先生に二三、質問がありましてね。宜しいでしょうか?」


 仰々しい口調で訊く市澤であったが、神を見るその視線は怜華以上に冷え切っていた。


「いいとも」


 神は、そんな二人にしかし気に障った様子もなく、微笑んで頷いた。


「この学校に来る前は、どちらの学校にいらっしゃいました?」

「京都の方だが」


 神の解答に反応するかの様に、神を見つめる市澤と怜華の冷めた瞳が冷たく閃いた。


「奇遇ですね。僕達も京都の高校に通っていました。――で、どこの学校ですか?」

「壬生第一高校だ」

「ほう、これはまた奇遇ですね。僕達は半年前まで、そこの生徒でしたよ」

「えっ?」


 その場で唯一驚いたのは、正太だけであった。


「半年前……? 神先生がうちの学校に赴任してきた頃じゃないか!」


 次々と驚かされて目を白黒させる正太は、静かに対峙する市澤と神の顔の間を、驚愕の色に満ちて戸惑う視線で何度も往復した。

 片方の貌は冷徹な色に満ち溢れ、それが見据えるもう片方の貌は相変わらず笑みを絶やしていなかった。

 驚愕を孕んだ僅かな静寂の時を経て、冷徹な貌が口火を切った。


「僕がその学校に通っていた頃、貴方と同じくらいの青年教師がいました。――名前は神一郎。僕のクラスの担任でした」


 刹那の静寂。


「――」


 最早正太は、驚嘆の声も上げられないくらい唖然としていた。


「僕は貴方が彼と同一人物とは思っていない。何故なら彼は、彼が此処に来れる筈が無いからだ。――半年前に死んでいるからな」


 続いて、怜華が開口した。


「それにも拘らず、この学校の理事会に提出された書類には、貴方の戸籍謄本や文部省発行の教員免状、果ては壬生第一高校長の紹介状まであった。――全て本物だった。紹介状に至っては、直接あたし達が壬生高の校長に確認しているわ」


 そういって怜華は徐に右手を上げ、人差し指で神を指した。


「「……貴方は、誰だ?」」


 市澤と怜華が声を合わせて問うた。重く、そして冷たい響きだった。今、周囲の大気を凍らせているものは、玲華の『能力』がもたらす凍気ではなく、神に詰問する二人の言葉の響きだと言っても誰も疑う事はないだろう。


「私は、神一郎、だ」


 神はそう答えて笑った。

 只の笑みではない。

 狂笑。

 果たして、本当にこの貌があの美貌の創り出したものなのか、と思わず疑ってしまいそうな禍禍しさに満ち溢れた笑顔だった。

 愕然とする正太は、この教師を知って今まで見る事のなかった種の笑みを前にして、完全に言葉を失った。

 しかし、それでいてこの男が漂わせる神々しい美貌は全く失われていないのである。正太はどちらの笑みがこの彼に相応しいのか、思わず考えてしまった。

 神のその笑みに、果たして市澤と怜華は、


「「そうですか」」


 と、呆気なく首肯した。自分達が創り出した先程の凄まじい殺気を完全に忘れているのか、この無責任振りは逆に清々しささえ感じてしまう程である。


「それでは、もう行っても良いかな?」

「「ええ、結構です」」

「済まない」


 神の笑みに禍禍しさが失せた。果たして神は踵を返し、三人の傍らを過ぎて階段を昇っていた。市澤と怜華は冷めた表情を崩す事なく、無言で神を見送った。二人と神のやり取りは、予め打ち合わせされていたかの様な飽気無さがあった。

 憮然とする正太は、市澤の顔を睨む様に見て、


「おい、市澤。これはいったいどうなっているんだ?お前ら、神先生と知り合いだったのか?」

「構うな」


 にべもない、冷淡な未来の解答だった。


「市澤……」


 溜り兼ねた苛立ちが正太を震わした。

 すると、市澤は正太を睨みつけた。


「僕らに構うな。これは、君が拘ってはいけない事なんだ」

「何でだよ?!」

「……死んじゃうよ」


 そう呟く様に応えたのは怜華であった。正太は一瞬、全身を凍らされた様な錯覚に見舞われた。


「……怜華」


 怜華の顔を見る正太の心の中に、得も知れぬ戦慄が過ぎった。


(そうだ――この女は、かつて俺の母さんを死に至らしめた女なんだ)


 しかし不思議と、怒りは沸かなかった。正太は、そう冷淡に語る怜華の瞳が、何故だか判らないが、とても哀しい色に満ちている様に見えて、何か遣り切れないものを感じていた。

 独り取り残された様で、無性に、寂しかった。

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