第二章  再会の転校生(1)

 季節が流れた。


 琥珀色の黄昏が良く似合う季節が過ぎ、当たり前の様に白が良く似合う寒い季節を迎えたその年は、珍しく都心に雪が降る事なく、雪の冷たさの怖さを知らずに、僅かな積雪量で満足する都会の子供達に失望感を与えて、やがて、全ての生き物の、生命が萌える心地良い季節への期待に高ぶる鼓動が、静かに聞こえる様になった。

 そんな陽気の中、世間では奇妙な事件が起きていた。

 ここ半年、都内で妙なトラブルが多発していた。数名の学生同士で乱闘騒ぎが起こり、中には刃傷沙汰にまで発展して、怪我人が出ていたのである。

 その原因は、良く判らなかった。当事者達の証言でも、何故、その様な事をしたのか判らないと言い、精神鑑定の結果を見ても、当事者達が嘘を言っていない事が証明されていた。ある心理学者の話では、思春期における不安定な若者の心理的異常だろうと推察したが、何れにせよ、原因は未だ闇の中にあった。


     *    *    *


 東京・広尾。

 大使館が多く存在する地域で、天気の良い日に散策すると、日本人よりも異邦の人々とすれ違い易く、それでいて彼らの存在に違和感を感じさせない、何処か不思議な街である。

 北に赤坂・六本木、南に恵比寿・白金へ続き、西に渋谷区、東に港区と分ける大通りに面した一角に、一軒のアウトドア・ショップがあった。

 店の名前は『アルテミス』。ギリシア神話に出て来る狩猟の女神の名前から取ったそれは、葉山正太の実家でもあった。

 店の入口の前に、一人の少女が立っていた。

 歳は高校生くらいか。白雪の如き美影。白色の季節が似合うその姿は、春を迎えても尚、見劣りする事は無い。近くを通りがかった者達全て、少女の美貌に見惚れて、一度は立ち止まっていた。

 少女は店に入ろうか入るまいか、躊躇っている様であった。どことなく羞らっている様にも見える。大人の女性と無垢な少女の間を危うく揺れる美貌の中に見え隠れする憂いが、そう見えさせているのであろうか。

 暫く店の前に佇み、結局、少女は店の前から立ち去った。


 同時刻、正太は芝公園にいた。増上寺近くにある区立の図書館へ借りていた本を返しに行き、その後当ても無くぶらぶらとしていた。進級した新学期に入っての最初の日曜日、花冷えだった曇り空の昨日迄に比べ、久しぶりに戻った青い空と春の陽気に、家の中でじっとして居られなくなった正太だったが、生憎と、遊び相手に心当たりが無かった。


「……水月のアホは朝から何処か行っちまってるし。あ~あ、前ならこんな時は、学校の武道館で管巻いてられたのにな…」


 誤解を招いてまで空手部を退部した以上、今更顔出せるわけが無い。正太は舌打ちした。


「家に帰ったって、親父に店の手伝いしろって言われるに決まっているし。さあて、どうしたものか……」

 取り敢えず何か思いつく迄、この辺りをぶらぶらする事に決めた正太は、西にある東京タワーに向かって道を歩き始めた。別に東京タワーを登る気は無く、只、視界に入ったからである。

 東京プリンスホテルの敷地を直ぐ左にする勾配気味の歩道を歩き続けた正太は、右向かいの丘に東京タワーがある変則十字路の横断歩道に着き、反対側の歩道へ渡ろうとして赤信号に捕まる。正太は東京タワーを反って見上げ、やれやれとぼやいて大きく欠伸した。

 正太は、欠伸をする振りをして、自分の背後を伺い見た。十メートル程距離を置いた背後の路上に、サングラスを掛けた紺の背広姿の白人が二人、東京タワーの方を見ていた。


(……しつけぇなぁ、あいつら。図書館からずうっと付いてきてやがる)


 正太は、その二人の外人とは初対面ではなかった。ここ数日の間、何故かこの二人が自分の様子を伺っていた事を、正太は気付いていた。


(一昨日なんざ、校門の近くで一日中見張ってやがったし。時々、トランシーバーみたいなので何処かと連絡取っている様だから、見張りは他にも居るんだろうな。  よぉし)


 にぃっ、とほくそ笑む正太は、手前の横断歩道が青になっても直ぐに渡らず、十秒佇む。そして、後ろで自分を伺っていた追跡者達に振り返ってあかんべえをしてみせると、いきなり横断歩道を走り始めた。

 正太に気付かれた事を悟った追跡者達も慌てて駆け出し、正太の後を追う。

 ところが、正太は横断歩道を半分ほど駆けたところで、いきなり反転し、追いかけてきた追跡者達の間を擦り抜けて元に戻ってしまったのである。追跡者達は驚いて怯み、慌てて反転するが、横断歩道の信号は既に赤に変わっており、発車しようとする自動車からクラクションのブーイングを喰らう羽目になった。


「ざまぁみやがれ!」


 追跡者に一矢報いた正太は走りながらほくそ笑んだ。そしてこのまま増上寺に逃げ込み、何とかやり過ごす事に決めた。

 先の十字路の東京タワーへの道と反対側にある細い道路を走り抜ける正太は、向かいから歩いて来る、赤色で統一したアポロキャップとブルゾン姿の、自分と同い年くらいの少年の横を擦り抜け、助走を付けて右側に並ぶ大きな壁を軽々と飛び越えて、増上寺の敷地内に入った。追跡者を振り切った事で、ほっ、と一息付いた正太は、本堂の方へ歩き出した。

 増上寺の敷地内は、珍しく人影が無かった。昼過ぎとはいえ、いつもなら二、三人は歩いている筈だった。

 本堂の前へ出た途端、正太は漸く他の人間と出会うが、余り会いたくない相手だった。正太は、自分より背は低いが、しかし何れも180センチ以上のがっちりとした長身を持つ、皮ジャンを着た三人の白人に取り囲まれた。


「先のお仲間、かい?」


 正太は憶する事無く、屈託の無い笑みを浮かべて訊いた。しかし、新たなる追跡者達は誰一人何も応えようとはしなかった。


「何が目的で、俺に付きまとうんだ?」


 正太は、今度は不機嫌そうな貌をしてみせるが、それでも追跡者達は応えない。

 暫くして、正太は一番肝心な事に気付いた。


「ゆー・きゃん・すぴぃく・じゃぱにぃず?」


 言ってみてから、正太は自分の発音の酷さに後悔した。英語は中学の時から赤点すれすれで、特にアクセントが滅茶苦茶と英語の教師から指摘されていた。


「……イタリア系でも、そないに酷い訛りの奴は居らへんでぇ」


 漸く応えた追跡者の一人が、憮然とした面持ちでいきなり妙な大阪弁を操った事に、正太は腰砕けしてしまった。


「な、な、な、何なんだ、あんたらぁ?」

「いきなりで済んまぁへんなぁ。一寸、わてらと一緒に茶ぁしばきに行きまへんか?」


 そこまで言うと、大阪弁の追跡者の隣に居る仲間の一人が、呆れ顔で「違う違う」と頭を振る。


「……こほん。言い間違えました、一寸、わてらに付き合ってくれまへんか?」

「…何で?」

「あんたが葉山正太さんやから」


 大阪弁の追跡者が自分の名前を口にした途端、正太は反射的にファイティング・ポーズを取り、険しい貌で睨む。


「……何で俺の名前を知っている?」


 怒鳴って訊く正太に、しかし追跡者達は何も応えなかった。


「何とか言ったらどうなんだ?」

「……手荒なマネはしとぉ無かったんけど」


 ますます怪しくなっていく大阪弁の使い手が涼しげな顔で顎をしゃくってみせると、他の二人もファイティング・ポーズをとった。


「力試しに丁度えぇ。ガルフ、ニーズ、しばいたれや」


 大阪弁の追跡者が促すと、他の二人は構えたまま、摺り足で正太との間合いを詰め始める。正太は舌打ちして、構えを崩さず、二人の出方を伺った。

 仕掛けて来たのは、追跡者達の方だった。


「Go、ガルフ!」


 正太の右側をとった、恐らく彼がニーズであろう男は、左側のガルフと呼んだ仲間を促す。促され、ガルフは正太に右ストレートを放った。

 ガルフの攻撃は不意を突いたものではなかった為、正太はガルフの右拳をたやすく左腕で弾き、カウンターで左前蹴りをガードの無いガルフの右脇腹に叩き込む。

 その隙を突いて、ニーズが正太の右側から迫って来た。だが、正太はニーズの攻撃を予測しており、既に正太はニーズの方へ顔を向けていた。

 ニーズの方も、正太が咄嗟に避けるか、精々右拳でも放って来るかと予想していたが、まさかガルフの脇腹を蹴り込むその足で、ガルフを自分目掛けて蹴り飛ばすとは思いもしなかった。

 正太の脚力は180センチの筋骨隆々とした男を蹴り込んだ勢いそのままに軽々と蹴り飛ばし、もう一人の相手にぶつけて更にその相手をも跳ね飛ばしてしまう強力を備えていた。ガルフと激突したニーズは一緒に昏倒してしまった。


「ヒュウ~ッ!やりまんなぁ、Boy。今度はワイが相手しまっせ」


 仲間を倒されても平気でいる大阪弁の追跡者はにこりと笑い、ファイティングポーズをとる。


「Boyがわてらの調査通りの人間なら、並の闘い方では勝てまへんしな。本気で行きまっせ」

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