第一章 臨時講師 神(7)
その日の朝、正太ら皇南学院高等部の学生全員は朝礼の為に講堂に集まっていた。
皆の視線は、一点に集中していた。消失点は、講堂の舞台の上にある。
美影が、一つ。
それは、人外の美をしていた。
「……今度、臨時講師として赴任しました『神一郎〔じん・いちろう〕』といいます。皆んな、宜しくお願いします」
講堂を埋めつくす学生達の前で、人外の美は、好青年の清々しい口調で挨拶をした。
彼を前にして、女子生徒達は陶然とした眼差しで彼の顔を見詰め、その頬を赤く染めていた。
一方、男子生徒達は何も言えず茫然として彼の顔を見詰めていた。朝礼に出た学生全ての時間の流れは、たった一つの美貌の前に、彼らの回りを流れる事を許されていなかったのだ。
神一郎。学生達を全て魅了したこの美丈夫の登場は余りにも唐突過ぎていた。
昨夜、世界史を担当する講師が急病に掛かって暫く休職する事になってしまい、その代わりとして、その講師は知り合いだと言う神を推薦したのであった。
臨時講師、神一郎。噂では、若輩ながらかなり優秀な教師だという。神を紹介した講師の話では、前にいた学校で今回同様に臨時講師として講義していた時は、彼の受け持ったその科目だけ、どんな落ちこぼれでも、特に易しい問題でも無く、むしろ高レベルであったにも拘らず、不正〔カンニング〕無しで実力で満点が取れたという。まるで神業の様な話である。
朝礼終了後、神は正太達のクラスで世界史の講義を受け持った。
講義の内容は、噂される程の特に目立った特色は無く、ごく辺り前の物だった。
しかし、講義終了後。皆は、その講義の結果に驚愕した。
何故なら、
「……嘘みてぇ。今、受けた講義の内容、お前、憶えているか?」
「お前もか?ああ、どういう訳か、耳に残って離れないんだ」
「別に、面白かった訳じゃなかったけど、神先生の顔をずうっと見ていたら、知らない間に憶えていたのよ。不思議ねぇ?」
「教え方が巧いんだろうな。他の先生とは一味違うね」
「あの先生、俺、好きになれそうだ」
「あたしも。とっても二枚目だし、人良さそうだし。ファンクラブ結成しようかな?」
「あのなぁ、そこまでするか?」
生徒達の、神に対する印象は、その殆どが好意的なものであり、残りの者も皆、彼を忌み嫌うものは皆無だった。
そして、他の教師達の目には、
「……不思議な先生だ。しかし、気取ったところもなく、なかなか気さくな好青年だ」
「ああいう先生が未だこの日本にも居たなんて、まだまだ捨てたもんじゃありませんな」
「我々も彼を見習いたいですな」
どことなく、皮肉めいた感想にも聞き取れるが、しかし、その何れの気持ちにも偽りは無かった。
かの様にして、神一朗は、たった一日にして、皇南学院高等部の生徒や同僚の教師達に快く受け入れられたのであった。
「俺は、あの先生、今イチ好きになれないな」
「お前よりかっこいいもんな」
「煩ぇ」
水月にからかわれた正太は顰めっ面をして昼飯のコロッケ入り焼きそばパンを頬張った。
コンクリートの床に腰を下ろして昼食をとる二人が居る屋上は、日差しの淡い秋の陽に包み込まれ、時折、秋茜が気持ちよさそうにその空を流れていた。
「でも、何が気に入らないんだ?顔の事だったら無駄だぞ、諦めろ」
「ヒトコト余計じゃ」
正太はストローの刺さったパック詰めのコーヒー牛乳を一口吸い、
「……あの先生、何か薄気味悪い所があると思わんか?」
「俺はお前の成長ぶりの方が怖いわ」
憎まれ口を叩く水月に、しかし正太は反論しない。
入学当時は百七十五センチメートル。
その半年後、つまり現在は百九十八センチメートル半。尋常で無い事は本人も良く理解していた。
「それは置いといて、なあ、水月。俺は余り人見知りしない方だと思っているんだが」
「人間、思うだけは自由なんだな」
「ちっ。一言多い奴だ」
そう言いながらも、正太は怒る素振りも見せない。
「あの先生、どうも生理的に受けつけられないんだわ。確かに人懐っこそうに見えるんだが」
正太は腕を組んで小首を傾げる。
「……時々、変に冷たい目をしないか?」
「気の所為だろ?うちのクラスの女子連中なんか、あの先生の目がとても魅力的だって大騒ぎしてたぜ。葉山のクラスだって同じじゃないのか?第一、初日プラス二日目の半日だけで評価しちゃ、気の毒だ」
そう言って水月は正太の背中を叩いた。意地悪に力一杯叩いて見せたが、筋肉の固まりの様なこの巨躯には逆効果である。水月は手を振り乱して痛がった。
「そうかな?どうも俺には、あの先生の事――」
不意に、正太の背筋に冷たい戦慄が走った。
(あの時と同じ気配……)
「いったい、誰の事を噂しているのかね?」
そんな時突然、妙に惚けた声が、正太達の背後から聞こえる。二人は慌ててその声の方に振り向いてみた。
淡い日差しの中に人外の美貌が佇んでいた。
亜麻色の髪の下に、すらっと流れる様な長身に白い三つ揃いを着込み、何処か聖者を思わせる様な風貌を綻ばせ、南天の高みにあるべき陽を背にして佇む美影。それはまるで聖者が後光を射して救いの手を差し伸べている様に見えるではないか。
彼の名は――
「「神先生!」」
正太と水月は声を揃えて驚嘆の声を上げた。
「確か水月君と葉山君だったね」
神は正太の方を見て、
「成る程、他の先生方もおっしゃっていたが、何と見事な巨体だろう。無駄な贅肉は一つも無く、張りのある若々しい筋肉が、宛ら鎧の様だ。これほど見事な肉体は見た事が無い」
人外の美貌を持つこの男は、それに相応しいのであろうか、妙に人を食った様な口調で正太を称賛した。
「先生……い、いつから、そこに?」
訊いたのは水月だった。流石に水月も、先程の正太との話を聞かれたと思って動揺を隠し切れず、声を震わせていた。
「ええ、ついさっき。一度、屋上を見ておこうかと思って」
神は然も当たり前の様に言ってみせた。業と惚けている様に見えて、しかし、外連味を感じさせない、不思議な男であった。
「誰の事を噂していたのか知らないけど、余り人を噂するのは良くないと思うよ」
「どうも済みません…」
水月は神に聞かれたかどうか判りかね、引きつった苦笑をしてみせるしかなかった。
水月の隣にいた正太は拍子抜けした様に神を見ていた。神のその掴み所のない態度にすっかり飲まれてしまった様子である。
「なあ、君達。私も話に混ぜて貰っても良いかな?」
「え? あ、はい、どうぞ」
正太はおずおずとして頷いた。神は微笑しながら二人の前にあぐらをかいた。
「なあ、葉山君。君、一昨日まで空手部にいたんだってね。どうして辞めたのかい?」
何故、知り合ったばかりの人間にまで尋かれなきゃならないのか、と正太は心の中で愚痴た。
「言いたくなければ別に良いよ」
神は正太の心を見透かして言う。もっとも、正太は無意識に眉を顰めて厭そうな顔をしていたので、別段不思議な事ではない。
「辞めた理由は置いといて。――葉山君、君は空手は好きじゃないのか?」
「好きですよ」
正太は憮然として答える。
「どれ位の強さだったのかな?」
「今年、全国大会で優勝したうちの空手部の副将と互角の実力ですよ」
水月が代わりに答えた。
「ほう。では、かなりの腕前なんだね?」
「その代わり、おつむの方は拳固じゃなくって」
水月は花が咲く様に手を開いて見せた。透かさず正太は焼きそばパンの包装用ラップを丸めて水月の顔に投げ付けた。
「そんなに友達をからかうものじゃないよ」
神は苦笑しながら窘めた。
「友達なんかじゃありませんよ」
水月は投げ付けられたラップを丸め直して正太に投げ返し、
「はっきり言って、嫌いな奴です」
「奇遇だな、俺もだ」
正太は精々嫌みったらしく言ってみせた。
水月も負けじと正太を睨んでみせる。しかし互いの悪態に悪意は欠けらも見えなかった。
「ははは。喧嘩する程仲が良いと言うが」
「「あのことわざは大嘘つきです!」」
二人は声を揃えて言う。
「そう邪険に言うなって」
神は笑いを堪えながら言い、
「馴れ合う仲ほど、底が浅いものさ。競い合う関係こそ、絆は深まると私は思っている」
((……くっさ~))
臆面も無く言う神の言葉に、二人は心の中で呆れ返った。
「いや、本当の話だ。私は多くの生徒達を見てきたが、他人と競い合い、強くなりたいと願望する方に優秀な者が多かった。ところで、二人に尋いてみたい事があるのだが」
最近、良く人に尋かれるな、と正太は心の中で洩らした。
「……強くなる、って事はいったいどういう事なのか判るかな?」
「強くなる?――肉体的にとか、精神的、技能的に…そう、成長する、って事ですか?」
「御名答。人間は様々な困難を乗り越えて成長して来たものだ。
まあ、それは『進化』とも言うがね。人間は最初はひ弱な猿だった。それが、他の生物に擢んでて、二本足で歩く事を覚え、それに伴い、余ってしまった前足で道具を使う事を覚えた。
無論、人に限らず、他の生物達も環境に合わせて体を変える事を覚えている。では何故多くの生き物の進化の流れの中で、人が生命の頂点に立つ事が出来たのか、判るかい?」
「……先生、確か世界史の講師でしたよねぇ」
憮然とする正太に、神は「ちっ、ちっ、ちっ、」と舌打ちして、右人差し指をメトロノームの振り子の様にテンポ良く左右に振った。
「気にしない、気にしない。今は昼休みだ。個人的な質問と取ってくれたまえ。固い事言いっこなしだ」
「それなら……。水月、お前判るか?」
「俺に振るなよ。俺も良く判らないけど進化の仕方に何かあったんじゃないのか?」
「その通り」
神は屈託のない笑みを浮かべて頷いた。
「君達も既に習っておろう、母体内で受精した人の受精卵が、人の形を成すまでの変化を。――あれが良い例だ」
「良い例?」
「あの行程を見て、何かと似ていないかな?――生物の進化に」
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