第一章 臨時講師 神(5)
安堵する正太の心に、陰りが広がった。
「君。今の力、凄かったわね?」
その場を慌てて逃げ去ろうとする正太を背後から呼び止める女の声。
(――しまった! 見られていたか?!)
正太は困惑しながら振り返った。
すると、正太の顔が一瞬にして惚ける。
決して夕闇に染まる事を知らぬ美貌が一つ、そこに在った。
流れるように奇麗な亜麻色の髪を冠し、全ての男を骨抜きにしかねない妖艶さと、決して侵さざるべき聖域を持つ聖母の神聖さを絶妙なバランスで拮抗させる何とも不可思議な美女であった。
呆然とする正太に、いつの間にか動揺の色は消え失せていた。全ての者を暖かく包み込んでくれる慈愛の眼差しに見入られた正太はこの美女に心を無防備に開いてしまったのだ。
呆然とする正太に、美女は女神の如き魅力的な微笑を見せた。
「大丈夫。今の事は他の人には言わないわ。その代わり、少し君に尋きたい事があるの。良いかしら?」
正太は浮かされたまま頷いた。
正太と美女は天現橋近くの喫茶店に入った。 店内に入るや、中にいた客は一斉に美女の方を見て愕然となる。それは男も女も関係なく美女の美貌に見取れて陶然としていた。しかし、美女はそんな周りの事にはお構い無しに近くのテーブルに正太と向かい合わせに腰を下ろした。
妙に正太はぎこちない。喫茶店に入る事は初めてではない。只、こんな美女と向かい合わせに座る機会なぞ、今まで無かったからである。
「さて」
アップルティーを頼んだ美女はテーブルの上にたおやかな手を組んで正太の顔を見る。
「質問しても良いかな?」
正太は頷いた。
「貴方のあの力、いつから使える様になったの?」
「つい最近」
正太は返答を躊躇わなかった。
「……テーブルから落ちた醤油の瓶を掴もうとしたら、手に触れる前に瓶が止まって。最初は信じられなかったけど、何となく、ああ、これは俺が止めたんだな、って判ったんだ」
「力はコントロール出来る?」
「一応……」
そう言いながら正太は頭をゆっくり振る。
「だけど、感情が高ぶっている時なんかは、確率は半々――少しマシ、てところかな」
だから、俺は空手部を辞めたんだ。こんなあやふやな力で、誰も傷付けたく無い。
正太は美女に見えない様に、テーブルの下で拳を握り締めた。
「その力、他の誰かに見られた事は?」
正太は頭を振る。
「貴女が初めて。……ところで、貴女はいったい誰なんです?」
「あたしは……」
美女は首を少し傾げて躊躇い、
「私は貴方の力の秘密を知る女」
「えっ?」正太は思わず瞠る。
そんな正太に、美女はくすり、と笑った。
「仰々しい言い回しだったわ、御免なさい。実は、あたしの遠い親戚に、貴方と同じ力を使えた人がいてね。あの力を見るのは初めてではないのよ」
美女はそう答えて、傍のウインドゥ越しに夕闇を見上げた。正太はその魅惑的な眼差しが何処か遠くを見ている様に見えた。
「彼は大工屋の息子でね。とても優しい人だったわ」
「だった? その人は、まさかもうこの世に?」
美女は頷いた。
その時、喫茶店のウエイトレスがトレイにアップルティーのカップを二つ乗せてやって来た。目線で美女と正太の顔を伺い、嫌らしそうな笑みを隠しながらそそくさと去った。事情を知らぬ彼女は、後で勝手な想像で喫茶店のマスターと下世話な話に花を咲かす事だろう。
美女のたおやかな指先が、紅茶のカップの取っ手を優雅に摘む。ワインレッドのルージュがカップの縁に触れる様の何と魅惑的な事か。店内の客達は皆、横目でその仕草の釘付けになっていた。
例外が只一人。美女の間近、正面に座っている正太は俯き、見るつもりも無いカップの中の紅い色に映えた、不安げな己の顔を見つめていた。
「……その人」
「え?」美女は優しそうな顔で正太の顔を伺う。
「……その人、まさかこんな力の為に死んだのですか?」
「……こんな力、ねぇ」
美女は苦笑する。その仕草も筆舌しがたい美しさである。
「その力の正体、君は何だか判るかしら?」
正太は小首を傾げた。真剣に考え込んでいる様に見えて、しかし惚けている様にも見えるのは彼独特の妙である。
「……判りません」
好い加減そうに答える正太。その仕草が可笑しかったのか、美女は口に手を当ててくすくす笑った。
「……御免なさいね。質問に無理があったわね」
美女に笑われて、しかし正太は怒る気がしなかった。余りにも美し過ぎる笑顔に当てられて毒気が失せたのも事実だが、それ以上に彼女の一挙一動に不快感を抱くどころか、安心感が広がって行くのである。知らぬ間に正太の顔にも笑みが浮かんでいた。
「貴女はこの正体を知っているのですか?」
「ええ」
美女は正太の目を見据えて答えた。
美女に見つめられて、正太は陶然となる。彼女の瞳は、未だ人の手の入っておらぬ蕭森の奥に潜む玲瓏たる湖面の如く澄んでいた。この瞳に見入られて、心を奪われぬ者等決して居まい。
「君のその力は『思念波動』と呼ばれるものよ」
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