第一章 臨時講師 神(4)

 水月を置いて公園を一人出た正太は、魚藍坂のコンビニに寄り道して買った少年マンガ誌とコーラのペットボトルを積めたビニル袋を下げ、家路を急いだ。

 その途中、正太は歩道で二人の子供を連れた若い母親とすれ違う。母親の回りをはしゃぎ回っている子供達を叱りながら苦笑する彼女の姿に、正太もつられる様に微笑した。


(そういや、来月は母さんの七回忌だったな)


 正太は幼い頃に亡くした母の面影を思い出していた。笑顔がとても奇麗な女性だった。

 正太の歩みが止まる。広尾の自宅の通学路にある恵比寿三丁目の交差点の歩行者信号は赤だった。

 正太の母は此所で命を落とした。

 正太の実家はこの交差点から外苑西通りを北に向かった、渋谷区広尾でアウトドアショップを経営している。

 『アルテミス』。ギリシア神話の狩猟の女神から取った名前である。堅実で働き者の夫婦が経営していたそれは都内でも評判の店で主人が一人になってしまった今でも、その評価は下がっていない。

 当時、問屋から荷を積んで家路を急いでいた正太の母が運転するバンは、赤信号に捕まってこの交差点に止まっていた。そこへ、麻薬中毒で正体を無くして人質を取って暴走し、警察のパトカーに追われていた若者の運転するスポーツカーが信号無視の挙げ句、停車していた母のバンに激突したのである。

 正面衝突だった。母の乗る車がバンだったのは不幸としか言いようが無い。時速百十キロの暴走車のもたらす衝撃は、バンの運転席のフロントガラスを粉砕し、その破片が母の柔い首を刎ねた後、残された身体をプレスして原形を留めぬ肉塊と変えていた。間も無く、現場に居た父の友人から届いた連絡で、母の事故を直ぐ知った正太と彼の父は、直ぐ様現場に駆け付け、路上に血塗れになって転がる母の首と遭遇する事になったのである。

 余りに突然の死だったのか、母の血塗れの死に顔は苦悶の相は見当たらなかった。苦痛も無しに逝けた事がせめてもの救い、と洩らして唇を噛み締める父の姿は、死の概念が理解し切れていなかった幼児の正太の目からも忘れられない記憶として重く沈んだ。

 その日から暫くの間、正太の回りを大きなうねりが取り巻いた。

 怒り。

 哀しみ。

 そして、別れ。

 うねりが収まりを見せた頃に、正太にとってもう一人の大切な女性を失う事になるとは彼にも予想もしない出来事だった。

 ふと、正太は空を見上げる。


(…今頃、どうしているんだろうな)


 思い出した寂しさが、吐息の姿を借りて黄昏の中に消えた。正太はいつの間にか信号が青になっている事に気付くと、慌てて横断歩道を渡り始めた。

 この時間帯にしては珍しく交通量の少ない歩道と並行して南北に走る外苑西通りの白金方面から、一台の冷蔵トラックが走って来た。茜色が際立って映える銀色の車体は、夕闇に取り込まれかけている他の車より目立っていたが、取り立ててそれを意識する者は皆無であった。無論、それを背にしてひょうひょうと歩く正太には気付く由も無い。


 トラックの運転手は二十代後半の青年だった。

 二十歳前から見習いで始めたトラック運転手の仕事は、あのバブル経済崩壊以来、前の様に労働基準法を無視した激務は無くなり、最近では遅くとも九時過ぎには船橋の下宿に帰宅出来ていた。未だ独身である。つい先日、新潟の母親から電話で見合い話が持ち込まれていた。田舎に帰って来てくれないか、と遠回しに言っているのである。

 都会暮らしに疲れ掛けていた青年にとって悪い話ではない。でも、未だ今の暮らしを飽きてはいない。今年一杯はこの街で何とかやっていこうと思っていた。そう思う度、ハンドルを握る青年の手に僅かな脱力感を覚えるのも事実である。


「……何?」


 突然、青年は自分の目を疑った。幾ら、黄昏時は錯覚し易いとは言え、こうまではっきりと見えるものなのであろうか?

 トラックの車線前方三十メートル程に、白の三つ揃いを着こなした長身の男が佇んで居るのだ。

 トラックの運転手仲間で、この間まで他愛無い噂が流れていた事があった。あるドラマの有名な一シーンを真似して、走行中のトラックの前に躍り出て来る莫迦が出没している、と言う噂である。無論、青年は、誰かが創っていると考えて一笑に付していた。

 しかしその莫迦が、現実に現れたのである。思わず青年の背筋に冷たいものがにじる。

 ところが、青年は莫迦は路上の男だけではないと悟る。

 時速五十キロで走るトラックが路上の男に届こうとしていないのである。砂漠で蜃気楼のオアシスを追い求める旅人のそれと同じ動揺が、運転手の心を襲った。

 だが、青年はブレーキは掛けていない。どういう理由か、ブレーキペダルを踏む気にならなかった。

 路上の男は微笑しながら運転席の青年を見つめていた。

 『神々しい、神聖なる美』なるものが存在するのならば、微笑するこの男を形容する言葉に用いるのに相応しい。亜麻色の髪を冠し、これ以上の狂いは許されない見事な造りの顔は、遠目に見ても溜め息を付かずにはいられない程であった。整形手術如きではこの美貌を創る事は叶わない。

 こんな顔を創れるのはこの世に只一人。

 青年は独り合点した。

 路上の美貌に見入られた青年の動揺がいつの間にか嘘の様に晴れ、安堵さえ覚え始めていた。


〈死になさい〉


 近くて、しかし果てしなく遠い路上の彼方で、美影は確かにそう口にした。聞こえる筈の無い状況で、青年は確かに耳にしたのだ。


「はい」


 ハンドルを握る青年は浮かされた様に答える。

 同時に青年は、自分の意思で心臓の動きを止め、前のめりにつっ伏した。

 絶命した青年がハンドルを握るトラックはコントロールを失い、その進行方向を左側の歩道に向けた。

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