004

 彼女と列車に揺られながら、ぼくは昔の友人の言葉を思い出していた。


 「きみはこれからの話をしないからだめなんだ、きみの好きなファンタジーやSFなんて、いわば描いているものは未来でしかないんだよ」なんていう、戯れ言も甚だしい、耳に痛い言葉だ。


 これを言ったのはミズハシっていう、変わったやつでね。口を開けばよくわかんないことばかりを言うやつだった。


 彼の言うことは当時のぼくにはいまいち難しくて、覚えている話なんてのは一握りなんだけれど、ときたまふっと思い出すことがあるんだ。


 悩み事をしているときにばかり彼の言葉がふっと浮かんだりするものだから、彼は彼なりにぼくを気遣ってあれやそれやを言っていたのだろう。


 きっと、いいやつなんだろうな。


 ぼくは、彼があまり好きではなかったんだけど。


「わたし、アカリっていいます」


 だから、彼女のその言葉はいわば、ミズハシのいうところの、これからに対する第一歩だったんだと思う。


 いったいぜんたい、こんな誰もいない世界で名前が何の意味を持つってんだ?


 ぼくは彼女……アカリしか呼ぶ人間はいないし、アカリだってぼくしか呼ぶ人間はいないだろうに。


「ぼくは、トオルっていうんだよ」


 でもね。


 ここで、ぼくが名乗らなきゃ、頭の中のミズハシがうるさい気がしたんだよ。


 そもそも、名前を名乗ることにすらこんな、ちょっとした抵抗を感じているからぼくは、ぼくらはだめなんだ。


 そんなこと、わかっちゃいるんだよな。


 なんでここでぼくがミズハシのことを思い出してしまったかなんて、そんなことも。


 本当はわかっちゃいるんだよ。


 ◆


「わたしは、トオルさんと海に付き合うので、それが終わったらトオルさんもわたしに付き合ってくれませんか?」


 それは、アカリから初めて聞いた、自己主張の類いだった。


 ぼくは驚いたよ。このまま黙って海に着いてくるもんだと思ってたからね。


「そもそも、アカリが勝手に着いてきているだけで、ぼくには何の借りも発生しないだろう」……そう思ったんだけど、ぼくは口には出さなかった。


 そう。どうせ、暇なんだ。

 少しばかり、用事が増えたって、どうということもないだろう?


 飲み込んだ言葉の代わりに「何をするんだ?」と聞いてみたけれど、アカリは少し笑って車窓の外を眺めるだけだった。


 アカリにつられて、窓の外に目をやると、青く澄んだ海が広がっていた。


 どうやら、目的地が近いらしい。


 ◆


 潮の匂いを嗅いだのは、いつぶりだろう。


 これまた思い返してみたけれど、それは面と向かって人と話すよりずっと前のような気がした。


 こうやって昔を思い起こしてばかりだからぼくはミズハシにあんなことを言われるんだな。


 でも、水着も何も持ってきやしなかったから海でやることもなくてさ。


 ぼくはなんとなく、波打ち際で足を濡らすアカリを眺めていたんだ


 しばらくじっと見ていると、アカリが「トオルさんも、いかがですか?」なんて言うもんだから、ぼくは笑って首を横に振った。


 ぼくは、海に浸かるような趣味はないんだよ。


 だって、なんだか汚ならしいだろ?


 本当、なんで海に来たんだろう。夏というのは魔法のようだよ。なんて思いながら海を眺めてるとひとつ、気がついたんだ。


 ぼくは、波の音は好きなんだよな。


「トオルさんは、この、人がいなくなった世界をどう思いますか?」


 アカリがぴちゃぴちゃと波に当てられながら、ぼくにそんな問いを投げかけた。


 改めて聞かれて初めて気がついたんだけど、世界をどう思うか、なんて世界がおかしくなっちまうよりずっと前から、なんなら生まれてこのかた、考えたことがなかった。


 だから、ぼくは「アカリはどう思うんだ?」と質問で投げ返してみることにした。

 いや、そうすることしかできなかったんだよ。


 そう聞いてみると、アカリは屈託のない笑みを浮かべて「わたしは、居心地がよくて好きですよ」と言う。


 その答えを受けて、なんでかわかんないけど、ぼくは思わず溜め息を漏らしてしまったんだ。


 そう、そうなんだ。確かに居心地は、世界が狂う前よりずっといい。


「溜め息は幸せが逃げちゃうらしいですよ」


「笑う門には福が来るらしいな」


 そんな、狂う前の世界の文言をぼくはゆっくりと咀嚼する。

 幸せな人間は笑うに決まってるし、不幸な人間は溜め息を吐くに決まってる。


 幸せな人間に福を与えて、不幸な人間から幸せを巻き上げるってんだから最高に理不尽な世界だな。


 そう、そうなんだよ。ぼくにとって世界ってのは理不尽なものなんだ。


 おそらく、今頃はぼくの溜め息で逃げた青い鳥が、彼女の元へと飛んでいっているんだろう。


 ぼくは、きっと、そんな世界が大嫌いだったんだな。

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