003
その少女は腰掛けにうつ向いて座っていて、ぼくの足音も電車の喧騒に掻き消されているもんだから、どうやらこちらに気がついちゃいないようだった。
そう。だから、ぼくはその少女を無視することもできたんだ。
そもそも、ぼくは人間ってのが苦手なんだよ。
でも、どうしてだろうな。
もしかしたら、既にぼくはおかしかったのかもしれないな。
その場でイヤホンをつけ直したりするような気は微塵も起きなくてさ。
気がつくと、ぼくは彼女の隣に、腰掛けていたんだよ。
◆
ぼくが隣に座ると、彼女はとても驚いたようで、大袈裟にあたふたして、言葉が出ないようだった。
でも、ぼくには彼女の気持ちもわかるんだ。
ぼくだってほんとならいますぐ慌てふためきたいくらいびっくりしているわけだからね。
そうじゃなきゃ。ぼくもそれくらい心がごちゃ混ぜになってなきゃ。
身も知らぬ他人に話しかけるなんて酔狂なまね、するはずもなかっただろう。
「どこに行くんだ?」
ぼくはやっとのことで、その台詞を吐き出したわけなんだけど、タイミングというものはいつだって最悪であるらしい。
ぼくの声と同時に、向かいの線路に電車が駆け込んできたんだ。
ぼくの声がはたして彼女に聞こえただろうか、としばし思案していると、彼女は顔を上げてぼくに言ったんだ。
「特に、あてなんてないですよ」
ぼくはそいつを聞いて、とびきりおかしな台詞だな、と思った。
だって、ぼくも似たようなものだったから。
「そいつは奇遇だな、ぼくもなんだ」
彼女は続けて、言う。
「おかしな人ですね」
「お互い様だろう?」……そう思ってはいたけれど、ぼくは口には出さなかった。
きっと、彼女はそう言ってほしかったんだろうけどね。
◆
「それじゃあ」とぼくが言いかけたとき、彼女がぼくの手を引いた。
「お暇でしたら、少しお話しませんか?」
おかしなことを言うな、と思ったけれど、よくよく考えてみればぼくももう数ヶ月、まともに人と話しちゃいなかったわけで。
彼女がもしかすると、もっと長い間。ずっとずっと一人でこの世界をさまよっていたのだとしたら、致し方ないことなのかもしれない。
そもそも、ぼくはあまり人と話すことになれていなくてさ。
あんまり人と話さないものだから、さっきまでの彼女との二、三言を交わすだけでそれなりに満足だったわけだけれど、よくよく考えてみるとこれから先何ヶ月、いや何年も一人でいる可能性もあるわけだ。
そう考えてみると、ぼくは彼女ともう少し話すのも悪くないかな、なんて思えた。
いや、嘘だ。
ぼくだって数ヶ月間の一人きりには、ほとほと飽いていたんだよ。
どうやら、飽きっぽくないというのにも、限度はあるらしい。
◆
ぼくは彼女と他愛のない話をしながら……そう「今日の天気はいいですね」なんてくだんない会話を重ねながら、こうやってちゃんとした会話をするのはいつぶりだろうかってずっと考えていた。
ずっと、考えていたんだ。
そう。ずっと考えなきゃいけないほど、ぼくはそれにどうにも思い当たる節がなかったんだよ。
ずっと前から。世界が透明になるよりずっと前から、毎日毎日ラジオ越しの声を聞いちゃいたけれど、直接面と向かって人間と話したのははたしていつのことだったか。
本当に、全く覚えていやしなかった。記憶の片隅にだってありやしなかったんだ。
きっとラジオが壊れたあの日にだって思い出せやしなかったと思うよ。
つまり、何が言いたいかって言うとね。
どちらかというと、この世界において、ぼくの方が元々透明人間みたいなものだったんだよ。
◆
そんな、透明人間だからこそわかることでね。
ぼくと彼女は実に似た者同士だった。
透明人間ってのは、会話が非常にたどたどしいんだ。
考えるまでもない。ちゃんと話せるような人間ならまず第一、天気の話題なんてふりゃしないんだよ。
ぼくの意識ってのはそんな当たり前のことやテンプレートの中に埋もれすぎていて、咄嗟に"それ"に気がつくことができなかった。
そう、本当なら真っ先に聞くべきことだったんだ。
「きみは、いつから世界に取り残されたんだ?」
ぼくがそれを聞くに至ったのは、彼女と出会って一時間ほど。
海へと向かう乗り換え列車の発車ホームに腰掛けてからのことだった。
いやぁ、実に遠すぎる回り道だったな。
この質問もいまさらに思い返してみれば、ぼくはどうして「世界に取り残される」なんてへんてこな表現をしたんだろうか、なんて不思議に思うんだけれど、そのときのぼくにはとてもしっくりきた表現だったんだよ。
今、他の表現をしてみろって言われたってあれ以上には何もしっくりこないだろうってくらいには、ぴたりとはまった表現だと思ったんだ。
「もう、数ヶ月も前のことでしょうか」
彼女は最初の頃に比べると、実に滑らかに返事を返してくれるようになったよ。
まるで鏡を見ているようだった。
きっと、彼女もぼくに対して同じようなことを思っていたんじゃないかな。
コミュ障というものは、いつだって自分をどこかで棚に上げるんだ。
ぼくも例外じゃないけどね。
「これまた奇遇だな。ぼくも数ヵ月ほど前なんだ」
そういうと、彼女は複雑そうな顔をしていたよ。
本当、何から何まで彼女は実に鏡のようだった。
この頃になるとお互いに、気がついていたと思う。
ぼくらはきっと同じときに、同じように、世界に取り残されたんだ。
何故かって?
理由なんてないさ。
世界が透明になったことにすら、ね。
◆
不意に、聞きなれない駅メロが鳴り響いた。
こんな人のいない世界じゃ、この駅メロにだってたいした意味や、鳴らすための理由なんてものは何一つありゃしないんじゃないかとぼくは思うんだけど、それでも駅メロは鳴るんだよな。
そもそも、ここに走り込んでくる列車だって、大半が無人列車で意味なんてありゃしないんだろう。
でもね。
そもそも人がいたっていなくたってこの世界には元々、意味のないものや理由のないものに溢れているんだ。
人にしたって、物にしたって、ぼくの目の前に広がるこの奇跡にしたって。
そこに意味があるか、理由があるかなんてのは、いまさらなばかげた話なんだよ。
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