幼い心に最愛の死

ナガス

幼い心に最愛の死

 私の舌を刺激する、鉄の味。

 鉄を舐めた事は無い。けれど解る、鉄の味。

 鉄の味のする液体が、私の口いっぱいに広がり、溢れ、口の両脇から垂れていくのが解った。

「ふうぅぅっ! ふぅっ!」

「いたい……いたいよぉ……」

 へたり込みながら泣いているハルを見て、私はより一層、力を込めて歯を突きたてた。

 私の中にある、ストレスの全てを、ハルに押し付けるかのように。

「ああああっ! あぁっ!」

 ハルの指の肉に、私の歯が食い込んで行く。

 それと呼応するように、より大量の血液が、私の口へと流れ込み、地面へと垂れた。


 私の名前は、ユキ。有る希望で、有希。

 当然の事ではあるが、この名前は私がつけたものでは無い。親が私を有希と名づけた。

 つまり、親のエゴで付けられた名前。しかし冷たい雪が由来ではなく、私の可能性を示してくれる、暖かいもの。

 この名前がいつも、誇らしかった。

 タダ君が私を呼ぶ時「有希」と呼び捨てにしてくれる事が、嬉しかったから。

 あぁ、私は有希だと、希望が有るんだと、いつも思っていた。

 イジメを受けている時だって、絶望的に心が沈んでしまった時だって。

私には希望が有るんだって、思えていた。

 そんなもの、無いのに。

 今の私のどこに、希望があると言うのだ?

「ユキさん痛いっ! 痛いぃっ! 助けてぇっ!」

 ハルが叫んだ。

 私に噛まれていない右手で、私の顔を必死に引き離そうとする。

 一重で釣り目にしては大きな瞳から大量の涙を流し、口を最大限まで開き、叫んでいた。

 その様子が、私の目には、とてもとても、愉快なものに見える。

 ハルの姿を見ている私の中から、湧き上がる衝動を感じた。

 食いちぎる、という衝動。

「ひいいいぃぃぃっ」

 ハルが私の顔を見て、より一層、表情を崩した。

 鼻水を垂らし、涎を垂らし、下半身から湯気を立たせている。

 どうやら、失禁したらしい。

「あはははははっ」

 私は笑った。

 それと同時に私の歯からハルの指が離れ、それに気付いたハルは瞬時に自分の手を私の口から引き抜いた。

 そしてへたり込んでいた状態のまま、門を蹴り、私と距離をとる。

「あがあっ! うぐぅっ!」

 ハルは自分の指を見て、ガタガタと体を奮わせた。

 私も当然、ハルの左手を見る。

左手全体が赤いというのに、小指部分に白いものが見えた。

 あれは恐らく、骨ではなく肉の裏側。

 べろりと肉がはがれてしまったハルの指は、異形になっており、指に見えない。

「うそ」

 私の頭は急激に、温度を下げた。

 そして、寒くは無いのに、ハル同様、体を奮わせる。

「うそ……うそ……」

「あぐうっ! ううぅぅっ!」

「あ……は……ハルちゃん」

 私はつい、ハルの名を呼んだ。

 呼ばれた本人は、どうやらそれ所では無く、小指の付け根を必死に押さえている。

 その姿を見ても私の頭には気の聞いた言葉が浮かんでは来ず、ただひたすらに名前を呼ぶ。

「ハルちゃん……ハルちゃん……ハルちゃん」

 病院だろうか?

 しかし病院に連れていけば、こうなってしまった理由を聞かれてしまう。

 理由を話せば、十八の私は刑務所?

 これは申告刑だろうか? それなら、ハルちゃんが訴えなければ。

 いや、ハルちゃんは未成年。親の管理下。親が訴えれば、捕まる。

「うぅぅっ……うっ……ユキ……さん」

「え?」

 ハルは突然、私の名を呼ぶ。

 そして力強く、しかし優しい瞳で私を見た。

「これでっ……貸しは無しですよ……」

 涙と鼻水でグチャグチャになっている彼女の顔は、痛みに堪えているようにも見えるが、同時に笑っているようにも見えて、私の胸に、衝撃を与えた。

 どうしようも無い衝撃で、私は立っていられず、膝をつく。

「あ……はは」

 私は笑った。

 何故だろう。脳や心が「笑え」と命令した訳では無い。この状況で「笑え」と命令をするものは、一体?

「もぉ……笑いたいのも、泣きたいのもっ……うぅ……私、なのに」

 ハルの言葉で気付かされた。

 どうやら私は、涙を流しているようだ。

 笑いながら、泣いているらしい。


「はは……おしっこ、漏らしちゃった」

 ハルは立ち上がり、左手を押さえながら苦笑いを浮かべた。

 手からは血。股からは小便。顔からは涎と鼻水と涙を、それぞれ垂らしている。

 幼稚だとか精神遅滞だとか、そんな言葉で言い表せられないほどの、醜い姿。

 人が一度に晒せる醜態の限界を超えているだろう。ましてや彼女は、十六歳の女性。自分の容姿などに、一番気を使う年頃。

彼女をそんな姿にしたのは、私。

そう思った時にようやく、私はハッキリと罪を意識した。

「……ハルちゃん、私、ケイ君とは、何も無いよ」

 罪を意識したと言うのに、私は、また私の事を話す。

 何故だろう。懺悔は嫌だと言われたばかりなのに。

「……はい」

「……私、今でも、タダ君しか、居なくて」

「はい」

「私、すっごく頭に来て、私……侮辱したハルちゃんを、許せなくて」

「はい」

「許せなくて?」

 許せなくて?

 何を言っているんだ、私は。

 許せないのではない。許さない事にしたんだろう。

 進展しない現状に内心イラついて、ストレスを爆発させるタイミングを待っていたじゃないか。

 言葉にすると「ハルを見捨てる口実が出来ないか」というものを、思ってはいないが、常に感じていた。

 ハルのお兄さんであるタダ君は、決して私を見捨てなかったというのに。


 中学三年生の一年間、頭の悪い私に、タダ君は勉強を教えてくれた。

物覚えの悪い私に、嫌な顔ひとつせず、何度も何度も同じ事を教えてくれた。

勉強が辛くなった私は「タダ君、志望校、下げない?」と相談した事があるが、タダ君は決して諦めずに勉強を教え続けてくれ、合格が絶望的だと言われていた地元の進学校に、入学出来た。

 それに、高校一年生の夏休みが明けてからの二年間、イジメられていた私を、一切の諦めの言葉を漏らさず、守ってくれていた。

私が「もういいよ。私と一緒に居たら、タダ君に迷惑かけるよ」と言った時も「私、もうタダ君と仲良くしない。もう会わないよ」と言った時も。

タダ君は決して諦めはしなかった。一緒に居てくれた。


 いつも先に諦めていたのは、私のほうじゃないか。

 私に期待していないのは、私じゃないか。

 何言われても諦めなかった人の妹の事なのに。私にとっても妹のような存在だったのに。私は妹のたった一言を、何故許せないんだ。

 タダ君が死んだから切羽詰っている? 混乱している? 侮辱した?

 そんなもの、理由じゃなく、ストレスを爆発させた言い訳だ。ハルだって兄を亡くしている。

 あんなに許せなかったのに、許せない理由が、解らない。

 解らない。

「許せなくて」

「はい」

「……はいじゃ、無いよ」

「え?」

 私は立ち上がる。

 そして、再び門へとつかみかかり、声を荒げた。

「はいじゃ無いよ!」

「え……ユキさん……?」

「私最低だよ! ハルちゃん怒ってよ! 叱ってよ! 殴ってよ!」

 私はまた、ボロボロと涙を流す。

 門の隙間から、私は左手を差し出した。

「噛んでよ! 噛み切ってよ!」

 普段、声の小さな私にしては珍しく、大きな口を開けて、大声で叫ぶ。

 そして左手を突き出して、必死に噛まれる事を懇願する。

 そんな私を見て、ハルはうっすらと笑った。

 何故、笑うのだろう。滑稽だろうか。

 滑稽だろうな。愚か者にしか見えないだろう。

「ユキさん」

 ハルはその笑顔のまま、私に近づく。

 私は心臓を高鳴らせた。

 心臓の高鳴りの正体は、恐怖なのだろう。

 ハルの左手を見たら、恐怖する。

 だって、噛み切る事を懇願していると言うのに「あんな手にはなりたくない」と、思ってしまう。

 どうしたって、思ってしまうんだ。

 弱い自分が、ほとほと嫌になる。

「啓二さんの所に、行きましょう。すがりに行きましょうよ」

 ハルのボロボロの左手が、私の左手に触れた。

 そしてハルの右手が、私の頬に出来た傷を、そっとなでる。

「綺麗な顔なのに、怪我しちゃって……痕残っちゃいますよ」

 ハルの怪我と比べたら本当に小さな傷を、ハルは心配しているようだ。

 どうやらハルは、冷静になっている。


 彼女の強さと優しさに触れ、私はようやく、ハルの心配が出来るようになった。

 本当にようやく。遅すぎる。

「ハルちゃん……痛いでしょ……? 痛いよね……ごめんね……」

 私がそう言うと、ハルは自分の左手を見て、苦笑を浮かべる。

「あぁ、これ」

 ハルは私の顔の傷を触っていた手を離し、ベロリと剥がれている指の肉をつまむ。

「がっ……だぁっ!」

 ハルが声をあげると同時にプッという音を立てて、肉はハルの指から離れる。

 つまり彼女は、少量とはいえ、自分の肉体の一部を、なんの躊躇いも無く、引きちぎったのだ。

 肉を引きちぎられた左手の小指は、さらに傷口を広げ、また新たな血を流す。

「え」

 私はつい、声を漏らす。

 ハルは歯を食いしばり、痛みに堪えているようだったが、すぐに笑顔を作って私を見た。

「痛むけど、こんな事が出来るようになっちゃいました」

 ハルは自分の指から引きちぎった肉を、自分の顔の隣に持って行く。

 そして「あーん」と言い、自分の口の中へと放り込んだ。

「え」

 私はまた、声を漏らす。

 ハルはと言うと、自分の肉をクチャクチャと噛んでいた。

 しかも、微笑みながら。

 この子は一体何をやっているんだ? という言葉ばかりが、私の頭の中でぐるぐると回っている。

「……頭では解ってるんです、これが変だって事くらい」

 ハルはどうやら自分の肉を飲み込んでしまったらしく、とてもなめらかに言葉を発した。

「ですけど、変じゃないと感じるといいますか、別に大した事じゃないって思っちゃいます」

「た……大した事じゃない……って」

「私、この一ヶ月間、暇さえあれば自分のかさぶたを剥いて、食べてましたよ」

 ハルは笑顔でそう言っている。

「私の左腕、剃刀の痕だらけで、大きなかさぶたが出来るんですね。それを何の気なしに剥いて、あーんって」

 ハルは嬉々として語り始めた。

 左の袖をまくり、ビッチリとかさぶたで埋め尽くされた腕を私に見せ、とりわけ大きなかさぶたをつまみ、引き剥がす。

 引き剥がされたかさぶたの下に隠れていた傷が、痛みに堪えられず、血の涙を流した。

「つっ……これを、食べるんですね」

 私はつい、ハルの右腕を掴む。

 今にもかさぶたを、口に放り込みそうに見えた。

 そんな姿、見たくない。

 狂ったハルなんて、ハルじゃない。

「捨てて……それ」

「嫌です」

「なんで……?」

 ハルはうつむき、暗い表情を作る。

 彼女は今、一体、どんな思考を持ち、どんな気持ちでいるのだろう。

 私には解らない。想像も出来ない。

「とりあえず一回、見てください。私の事を、見てください。私の今を、見てください。今までずっと、ユキさんの話を聞いてきたじゃないですか。だから私の話も、聞いてください。見てください」

 ハルの声が、少し震えている。これが心の叫びなのだろうか。

 どうやら私は、その全てを受け止める器を持っていない。

 悔しいが「見たくない」と感じてしまう。どうしたって直視出来ない。

 それに、自分の肉を食べたハルを、心のどこかで嫌煙している。かさぶたを食べようとしている今のハルに対して、心のどこかで恐怖を感じている。

 私の知る限り、今のハルを救えるとしたら、ケイ君だけしか居ない。堕ちてしまったこの子に、光明を当てられるとしたら、ケイ君。

 ケイ君に迷惑はかけたくないが、私の手に負える範囲を、超えてしまった。

「……ケイ君に、会いに行こう」

 私はなんとか言葉を振り絞り、ハルにそう伝える。

 私の言葉を聴いたハルの表情は少し和らぎ、うっすらと笑顔を作ってくれた。


 私はハルを家の中へと招きいれ、とりあえずの着替えをさせようと思った。

「行こう」と言いながら取ったハルの右手は、すっかりと冷え切っている。思っていた以上に、つめたい。

 一体どれほどの間、外に居たのだろう。

 いいや、違う。この冷たさは、外気に触れた冷たさではない。それなら私だって冷たいはずだ。

 恐らく、新陳代謝がされていないから、冷たい。

タダ君が死んだ当日、私は一切モノを口に出来なかった。その次の日には体温が劇的に下がってしまい、一日中ブルブルと震えていた。

 ハルは、今まさに、その状態なんだと思う。

 それに、大量の流血……暖かい訳が無かった。

「……ユキさんの手は、暖かいですよね」

 ハルは、私の手を強く握り返して、そう言った。

「……ハルちゃんの手、冷たいよ」

 ハルは冷めた笑みを浮かべた。

 私もきっと、同じ表情をしている。

「お着替え、しなきゃ。お洋服、貸すね」

「いえ、そこまで迷惑は」

「駄目だよ……ケイ君に会うんだから」

 私はそう言い、強引にハルの手を引っ張る。

 ハルの手から感じるものに抵抗は無く、ただ身を任せるという、なんともハルらしくない、従順だった。

 以前のハルならば、自分の意思に反するものになら、タダ君にも私にも反発していたというのに。


 家のドアを開き、玄関へと入ると、入ってすぐ左手側に、姿見がある。

 私はその姿見を、横目でチラッと見つめた。

 そしてそのまま、凝視する。

「……っ」

 私の口の両端から、ハルの血が流れた跡があり、その跡の太さが、尋常なものではない。指三本ずつほどの太さがあり、ホラー映画でもここまで露骨なメイクはさせないだろうと思うほど。

 制服は深い紺色のブレザーなので目立ちはしないが、黒く光を反射させているものが、ハルの大量の血。

 それだけで、解る。私がどれだけ、ハルの血を飲んだか。

 ハルがどれだけ、血を流したか。

 私は思わず、制服の袖で口元をぬぐう。

「……手当て、しないとね。痛いもんね。私へたっぴだけど、包帯くらい巻くよ」

「いえ、ズボンを貸してくれるだけで結構ですから」

 鏡越しに私の顔を見つめていたハルが、少し笑いながらそう言った。まるで「何を今更」と言われたような気分になる。

「でも、早く手当てしないと」

「……早く、心の手当てを、ね」

 ハルは突然、上手い事を言い出した。

 少し驚いて私はハルの顔を直に見る。

 そこには、うっすらと笑ったハルの顔があり、笑顔というより、ニヤニヤとした印象。

 もしかしてハルは、自分が言った言葉に対して、笑っているのだろうか。

「……手当て、しないと」

 私はまた同じ事を繰り返す。

「いえ……それより早く行きましょう」

 今度は少し暗い表情をして、私の目を見てそう答えた。

 ……精神が、おかしくなったのだろうか。不安定なのだろうか。

 少し前、しっかりとした印象も、確かにあったのに。

「駄目だよ……痛いんでしょ? だったら」

「今すぐ痛みが取れるなら、そうしますけど……」

 変わらないトーンで、ハルはそう言う。

 どうやら、ハルは今すぐにでもケイ君の所へと向かいたいようだった。

 焦っている様子は無いが、手当てを拒むあたりにそういった意思を感じる。

 それに、確かにハルの言う通りだ。

傷の手当てならばケイ君のアパートでも出来るし、なんなら移動時間にだって出来る事。

 今は、ハルの意思を尊重し、ケイ君の所へいち早く向かうべきなのかも知れない。

「……解った。部屋に行こう」

 私はハルの手を引き、姿見の前を離れる。

 やはり、ハルの手には抵抗は感じられなかった。


 洗面所にて顔を洗い、鏡を見る。

 鏡の中の私は、頬に出来てしまっている大きな擦り傷を見つめていた。

 ……確かに、格好悪い。ハルが不憫に思うのも、解らなくは無い。

 私は決して自分が美人だとは思っていないが、タダ君が愛してくれたこの顔は好きだった。

 タダ君の大切なものを傷つけてしまったようで、罪悪感が胸に涌いて出る。

「……ごめんなさい」

 思えば、タダ君は私もハルも、大切にしていた。

 ハルに対しては多少の苦手意識を持っていたようだが、目の前に死が迫ってきても、心配できた相手。

 それなのに、ハルを守る所か、傷つけた。

 タダ君の大切なものを、二つも傷つけた。

 そう思った瞬間、鏡に映っている私の両目から、涙がポロリと落ちた。

「……泣くなよぅ」

 自分の力不足に、打ちのめされそうになる。

 結局は、ケイ君に頼るしか無いんだと、悔しくなる。

「泣くなって……有希」

 生前、タダ君にイジメの火の粉が飛び火して迷惑をかけ、号泣しながらタダ君に抱きついた時、タダ君が言ってくれた言葉を思い出し、口に出す。

「有希は、強い子だから……俺だったらとっくの前……に……ブチ切れてるか……引き篭もりに……なってるのにっ……有希は……辛くても、心配かけまいと……笑って……」

 言葉が声にならず、涙と鼻水になって、出てくる。

「うっ……笑って……くれてぇ……」

 涙と鼻水で再びグチャグチャになった私の顔は、口元だけがかろうじて、笑えていた。


 床に点々と垂れている血の跡を辿り、私は自室へと戻る。

「ハルちゃん、着替えた?」

 扉を開くとハルが私のベッドの上に座りながら、何かを読んでいる姿が目に映った。

 水色の水玉模様の、小さいけれど厚めの本。

 その本には、見覚えがある。

 というより、以前は毎日手に取っていたもの。

「はい」

 ハルは本を閉じ、その本をベッドの上に置き、立ち上がる。

「……読んだんだ」

 私は特に、ショックでもなんでも無かった。

 今のハルの精神状態では、怒る気になれない。

「えぇ……少しだけ。私の事、妹みたいって書いてありました」

 ハルが読んでいたものは、去年の夏まで書き続けていた、私の日記であった。

 タダ君にも見せた事の無い、私だけの、秘密の日記。

 それが今、ハルの血で汚れ、所々、赤い。

「……うん。今も、そう、思ってるよ」

「……ありがとうございます」

 よく見ると、私の部屋は血だらけになっている。

 私の机の上も、私の部屋のカーペットも、私のベッドも、私が貸した、ズボンも、血が付着している。

「……行こうか」

「はい」

 少しだけ複雑な気持ちになってしまったが、これは、私が流させた血。

 デリカシー云々を言う資格は、私には無い。


 ケイ君の家に向かう途中、私とハルの間に会話が無い。

 私もハルも、何を話せばいいかが、解らないようだ。

 謝るのも変だし、普通の会話をするのも、変。

 今だって、こうして並んで歩いている事自体、変な状況なのだ。

 少し前なら、こんな状況は当たり前だったのに、タダ君の死と、空白の一ヶ月が、この当たり前を、違和感に変えてしまった。

 やはり、タダ君の存在は、大きいものだったんだと、実感する。

「……ユキさんは」

 やや後ろを歩いていたハルが、声を漏らす。

 それに気付いた私は「ん?」と言いながら、振り返った。

 ハルの表情は、少し暗めに見える。

「……よく、正気でいられますよね」

「正気?」

「はい……色々とグチャグチャで、解らなくなったって言ってましたけど、今こう見ても、普通に見えますよ」

 正気でいられる訳が無い。普通でいられる訳が無い。

 私は前を向いて、少しだけ歩を早めた。

 どうやらそれにハルもついてきているようで、雪を踏む音は離れない。

「……私、ばかちんだから。考えられる事、一つか二つしか、無いから」

「はい」

「それに考えても、解らないから、解ってる事を、やろうって」

 そう、解っている事をやろうって、思っていた。

 だから、ハルに対して怒りをぶつける事が出来た。

 そして今は、ケイ君にしかハルを受け入れる事は出来ないだろうって事が解っているから、連れていっている。

「……いいですね、シンプルで」

「あはは……良くは、無いよ。ばかちんだもん」

「……いえ、馬鹿じゃないですよ。兄貴が馬鹿を好きになる訳、無いじゃないですか」

 ハルの声は、まるで服を口に当てて喋っているように、少し篭って聞こえた。

 恐らく、その通りなのだろう。

 私は振り返らず「そっかな」とだけ言って、ただ歩を進めた。

「そうです。ユキは俺なんかより、よっぽど正しい答えを導き出すって、兄貴が言ってたじゃないですか」

 私は「あはは」とだけ返事をする。

「それに、ユキさんはやっぱり、優しいですよ」

「そんな事、無いよ」

 私は、蛇口を捻ると勢い良く流れ出てくる水のように話し出すハルを、少し鬱陶しく感じていた。

 しかもハルは、昔から私を擁護するような事ばかりを言う。「可愛い」だとか「女の子らしい」だとか「兄貴には勿体無い」だとか。

 それを真に受けられるほど私は自信を持っている訳では無い。

 しかし、ないがしろにする事も、否定する事も、今の私には出来ない。黙って話を聞いて、相槌を打ってあげなければ。

 恐らくハルも、気まずい空気を察して、無理に話しかけてきたのだから。

「ユキさんはこうして、私を啓二さんの所に案内してくれてる。私なんかのお願いを聞いてくれてる。それって優しいって事。あ、それと優しさって、人と人の間にあるもので、ただ持ってるだけじゃ駄目なんですよね。誰かとの間に置いて、初めて意味を持つものなんです」

「……そっか。そうかも」

「私もユキさんみたいに、ユキさんと啓二さんの間に、優しさを作れるかな」

「……うん」

 私は気の無い返事を返した。


 歩きながら、考える。

 ハルは、頭が良い。

 物事を色々と考える力を持っているし、少し勉強しただけで私やタダ君が通っている学校へと入学する事が出来た。

 料理が上手だし家庭的。スタイルも良いし私より背が高い。顔だって、嫌味なほどに綺麗だ。

 友達が多い訳では無いが、イジメられている訳でも無いし、学校生活に苦労は無い。

 そんな彼女が、何故私なんかにこだわり、助けを求めに来たのだろうか。

 一人暮らしをしている同級生の可愛い子が助けを求めれば、下心丸出しだとしても、男子が寄ってくる筈である。

 それなのに、何故、私とケイ君なのだろう。

 私がハルにこだわるのは、約束があるし、妹のように思っているという理由がある。

 しかし、ハルには?

 ハルには、何があると言うのだろうか。

「私、啓二さんに謝らないといけないんです。せっかく私を心配して部屋まで来てくれたのに、失礼な事言って追い返しちゃったんですよ。だから、まずは謝らないと」

「はは……そうだね。それがいいよ」

「なんだろうな……なんだろう。私本当は、行きたくないんですよ。謝り慣れて無いですし、どうしたって許してくれそうも無いですし……ですけど、楽しみな心もちゃんと存在してまして……」

「ねぇ、ハルちゃん」

 私は切り出す事にする。

「はい?」

「私と、ケイ君に、こだわる理由って、何かな」

 私はハルの方向を見ずに、そう言った。

 ハルの表情は見えないが、少し間がある。どうやら返答に困っているらしい。

「ん……こだわる理由……だって、ユキさんも啓二さんも、心配してくれてるじゃないですか、優しいんですよ。優しい人と、関わりたいって思うんです」

「でも、和解するまでに、超えるべきハードルが、多すぎると、思うんだけど。実際、私、噛んじゃったし……ケイ君、凄く強いんだよ。ケイ君怒ったら私、止められないし、ハルちゃんは、きっと、パンチ一発で、死んじゃうよ」

 ハルは「はは」と笑う。

 私は何か面白い事を言っただろうか。

 ハルのほうへと向きなおして、ハルの顔を見た。

 ハルは、少し笑顔を作っている。

「え? 何?」

「あ、いえ、ハードルは堪えましたけど、パンチって。可愛い言い方するなぁって思いまして」

 ……他に、どんな言い方があると言うのだろうか、と一瞬思ったが、それより何より、真面目に聞いていない事に対して、私は少し腹が立つ。

 冗談では無く、本当に、ケイ君は凄まじい。

 キレたケイ君が教室で起こした惨劇を、ハルは知らないから、笑っていられるのだろう。

「……パンチじゃなくても、キックでも、ハルちゃんは死んじゃうんだよ」

「ふふ……そうですね。キックでも死んじゃうでしょうね」

 ハルはより、笑顔を深める。

「ケイ君優しいけど、自分の敵には」

「いいんですよ。私は死んだって」

 ハルは、変わらない笑顔でそう言ってのけた。

 その笑顔と言葉の差に、私は驚く。

「え?」

「私、死んだっていいんですよ。ユキさんと啓二さんと関わる以外に、私に生きる意味は無いんですから」

 ハルは、やはり笑顔だった。

 これは、ケイ君を侮っているとか、私の話を信用してないとか、そういう事じゃない。

 きっとハルは、本当に死んでもいいんだ。

 死んでもいい覚悟で、外に出たんだ。

 そう、思わされる。

「人見知りでぶっきらぼうで、友達が少ないあの兄貴が、死ぬ直前まで大切に思ってた人達ですよ。きっと、他には居ない人達なんですよ」

「……うん」

「その人達と関われないなら。その人達に殺されるなら。私は別に、死んだっていいんです」

 私は、言葉が出てこなかった。

 笑顔で話すハルの顔に、圧倒されていた。


 私とハルは、ケイ君のアパートの前へと来ていた。

 時刻は夜の七時手前で、あたりは既に暗い。

 暗いというのに、ケイ君は部屋の明かりをつけていないようだった。

 つまり、居ない可能性が高い。

「あの部屋なんだけど、暗いね。ケイ君、居ないかも」

 私はケイ君の部屋に指を刺す。

「……居ない、ですかね」

 流石に緊張していたのか、ハルにはもう、笑顔が無かった。

 ハルは恐らく、殺される事よりも、拒絶される事に怯えているのだろう。

 自分の存在価値を、私とケイ君に求めているのだから、拒絶されるのは死よりも辛い。

 私には、その気持ちが良く解る。痛いほどに、良く解る。

「どうする……? 諦めて帰る?」

 私がそう聞くと、ハルは目をつぶり、左手を胸に当てる。

 何を、思っているのか、その行為は数分間も続いた。

「……いえ、行きましょう」

 ハルは第一歩を踏み出し、前に出る。

 私もそれを見て、ハルの先を歩き先導した。


 部屋の前に立ち、インターホンへと指を伸ばした。

 私自身も、緊張している。

 ケイ君と顔を合わせるのは、何ヶ月ぶりだろうか。という問いに対する答えを、必死に探す。

 たしかケイ君がこのアパートへと引っ越した時が最後だから、三ヶ月ぶりだ。

 電話では声を聞いていたが、直に会うのは久々で、ドキドキしているのが解る。

「……ふぅ」

 つい、声を出す。

「……はい?」

 後ろからついて来ていたハルが、聞き返す。

 別に話しかけた訳では無い。

「……押すね」

 私はそれだけを言い、チャイムを鳴らした。

 ピンポーンという音が、部屋の中から聞こえてくる。

 それとほぼ同時に、ガダンという物音も、部屋の中から聞こえた。どうやらケイ君は、居るようだ。

「……ケイ、くん」

 私はつい、声を漏らす。

 その声が、何故だか震えていた。

「ケイくん……ケイくんっ……」

 私の頭の中には、沢山の「ごめんなさい」が思い浮かんでいる。

 もう二度と、私の事で迷惑をかけないと誓ったのに。

 今度は私が、ケイ君を助けるんだと、誓ったのに。

 また私は、迷惑をかけに来た。

 助けられるためにここに来た。

 それが凄く、凄く、申し訳ない。

 ケイ君は優しいから、絶対に助けてくれる。屈託の無いあの笑顔で、また「いいよ、お礼はユキちゃんの笑顔で十分」「僕は僕の正義に従っただけだから」と言ってくれるのだろう。

 だってケイ君は、神様のような人だから。

 神様じゃないのに。

「うっ……うううぅぅぅぅ」

 私は涙を流す。

 目の前の視界がゆがみ、玄関のドアノブを思い切り回したい衝動にかられた。

「ユキさん、啓二さん出て来ませんけど」

「うぅっ! ううぅっ!」

「ユキさん?」

「ケイくんごめんねっ……! ごめんねっ……私ぃ……もう迷惑……かけないって言ったのに……」

「……そう、でしたね。恥ずかしいって思う気持ちくらい、あるんでしたよね。散々頼っておいて、また頼りに来るなんて、恥ずかしいですよね」

 私はインターホンのボタンに指を添えた状態のまま、泣いていた。

 私は、ハルに嫌だと言われた懺悔を、いつの間にかしている。

 どうやら私は、悲しくなった時、どうしようも無くなった時、懺悔をしてしまうようだ。

「……ユキさん、ごめんなさい」

 ハルは私に対して謝り、私の指の上からインターホンのボタンを押した。


 ガチャリという鍵を外す音が聞こえて、すぐにドアが開く。

 開かれたドアの前に立っていたのは、無精ひげを生やしている童顔の英雄だった。

「え」

 ケイ君は、不思議なものを見るかのような顔をする。

 しかし私は、感極まってしまい、会話や弁明をする余裕はない。

 ケイ君の顔を見た瞬間、私はまるで吸い込まれるかのように、ケイ君へと抱きついた。

「ケイくぅんっ……! ケイくんっ……!」

 ケイ君は厚い胸板で、私の体重全てを容易に受け止める。

「え? え?」

「ケイくんっ……わたしぃ……わたしっ……!」

もう迷惑かけないとあれ程誓ったのに……と言った罪悪感が涌いてくるが、私はどうやら、安心もしている。

 安心、しない訳が無い。生存している人間の中で、私が頼りに出来る、唯一の人間なのだから。

 私って、ズルイナ……と、思う。

 ハルのために、来たハズなのに。

「ユキちゃん、落ち着いて。中に入って」

 ケイ君の手が私の背中に触れ、私を部屋の中へと導く。

「……春香ちゃんも、入りなよ。散らかってるけど」

 同時に、ハルにも声をかけた。

 どうやらケイ君は怒っていないらしく、冷静な判断を下している。

 人がいい所も、ケイ君らしい。


「あの……なんだろ。ユキちゃん、ちょっと向こうで待ってて。春香ちゃんの手……ね。手当てしないと」

「うぅうっ……うぅ~」

 私は部屋の中へと上がり、ケイ君の布団の上で待っているよう指示される。

 確かに、この部屋は少し片付けなければ、布団以外に座る所は無い。

 私はケイ君が指示するまま、布団へと向かい、うつむき臥せった。

「うっ……うぅうぅ……」

 私の涙腺は、まだ閉まらない。

 閉まりはしないが、ケイ君の布団からするオトコノニオイに、少し心が落ち着いてきたらしい。

 思えば、タダ君の布団に入った時も、このようなニオイがしていた。

 クサイ訳では無く、優しいニオイ。

 全てを包み込んでくれるような、ニオイ。

「ううぅ……」

 なんだか、懐かしい。

 きっと優しい人が出せるニオイなのだろうな、と思う。

「タダ……くん……」

 私は安心してどっと疲れが出てしまったのか、瞼が重くなってきた。

「タダ……」

 優しいニオイに包まれて、私は、意識を失う。


「ユキちゃん」

 私は柔らかい声に名前を呼ばれ、目を覚ます。

 薄ボンヤリとした視界の先に、知らない顔があった。

 その瞬間、私は驚く。

「えっ……誰?」

 私の顔を見て、知らない顔は笑った。

「あはは、私、彩子って言うの」

 彩子と名乗った女性はそう言い、私の隣へと座った。

 私は理解不能の現状に気おされ、反射的に体を起こし、正座をする。

「え……彩子……って?」

「ん? あはは。やっぱりケイちゃんってば何も言ってないんだね」

 彩子は苦笑いを浮かべ、頭をガリガリとかきむしる。

 面倒くささ半分、笑顔半分といった感じだろうか。

「私はねぇ……なんて言ったらいいかな」

 両膝を立てて座る彩子は、両膝に自分の顔を乗せ、そこから私の顔を見つめる。

 その仕草やその表情が、女の私から見ても、綺麗なものに見えた。

 ただ美しいだけでは無い。普通のジーパンを履き、普通の白いセーターを着ただけのその女性は、気品というか、神々しさというか、とにかく尋常では無いオーラを放っているように感じる。

 神懸り的な美しさだと、瞬時に感じた。

「そうだな、ケイちゃんの……保護者かな」

「保護者……?」

 彩子の容姿は、どう少なく見積もっても二十代前半であり、見方によっては私よりも年下に見えるだろう。

 私よりも小さな体に、短い座高。出っ張っているかどうか怪しい胸に、童顔過ぎる顔。

 雰囲気を持っているから年上だとは思うが、とても保護者を名乗れるほど年上とも思えない。

「保護者って……どういう意味ですか?」

「ん? だってほら、ケイちゃんってさ、放っておくと凄く心配でしょ? だから保護してんだ~」

「心配……?」

 何故、ケイ君が心配なのだろうか。

 私はケイ君以上にシッカリとした人間を、知らない。

 どんな大人よりも、どんな人間よりも、私はケイ君のほうが上だと思っている。

 シッカリしてるという意味では、タダ君よりも上だろう。タダ君はキレやすい所があった。それをなだめていたのが、ケイ君。

 そんな人間に、保護者が必要だろうか。

「あ、不思議そうな顔してる。あはは~ユキちゃんってメンコイねぇ」

 彩子は笑って体を前後に揺らし始め、ゆっくりと指を伸ばし、私の頬にある傷のすぐ下を、指で突っついた。

 痛痒さが私の頬に涌く。

「えい、えい」

「あ……あの、心配って? ケイ君を、ですか?」

 私は何故か彩子の指を止める事が出来ず、突っつかれたままの状態で疑問をぶつける。

 彩子は指を止める事はせず、なおも突っついたままの状態で笑顔を深めた。

「ケイちゃんって、弱音吐かないでしょ。明らかに悩んでるのに、苦しんでるのに、屈託の無い笑顔で、何でもないですぅ~僕を信じてくださぃ~とか言っちゃってさ」

「……はい」

「ケイちゃんだってさぁ、好きな人が目の前で刺されちゃったり、実の姉をイジメの末に亡くしちゃったりしてるのにさぁ」

「え」

 そんな事実、知らなかった。

 いつの間に起こっていたのか、知らない。

「……驚いた顔しちゃって。知らなかったの?」

 彩子は私の頬を突付くのを止め、私の目を、じっと見つめる。

 睨んでいる訳では無い。鋭い瞳という訳でも無い。

 だからと言って、笑っている訳でも無く、彩子の目には、何か、神秘的な力が宿されているように感じた。

 恐らく、何をどう言い繕っても、この目を持つ彩子には、全て解られてしまう。

 私は瞬時に、それを悟った。

「し……知りませんでした」

「だよね。私もユキちゃんとハルちゃんの存在、今日まで知らなかったよ。だから保護してあげなくちゃね」

 彩子は再びニコリと笑い「よいしょ」というおばさん臭い掛け声と共に、腰を上げた。

 腰をトントンと叩く姿に若さは無いが、彼女の身長の低さと妖艶な雰囲気が混ざり合い、その姿さえも美しく魅せる。

 小さいのに、とても大きい人という印象。

 しかし「だから保護してあげなくちゃ」の、意味が解らない。

 この会話の終着が、何故「だから保護しなくちゃ」というモノになるのだろう。

「さってと。お部屋のお掃除しなくちゃね」

 彩子は笑顔のまま、私の顔をチラリと見た。

 やけにニコニコとしていて、可愛らしい。

「あ……て、手伝います」

「んもぉ~やっさしいのねぇ」

 彩子は私に向かって手を差し出す。

 私は思わずその手を握り、引っ張られ、立ち上がった。

「ユキちゃんの彼氏の正也君も、優しい人だよね」

 彩子はそう言い、満面の笑みでニッコリと微笑んだ。

 ……この人は、どこまで知っているのか。ケイ君に聞いたとは、あの会話上、どうしても思いにくい。

 底が知れず、本当に全てを見透かされているようで、恐ろしいと感じた。


「そういえば、ケイ君と、ハルちゃんは、どこに行ったんですか?」

 私は部屋に散らばっているゴミを拾いながら、彩子へと話しかけた。

 話しかけられた事に気付いた彩子は、私の顔を見て「ふふん」と鼻で笑う。

 何故、そんな意味不明な事をするのか、解らない。

「……あの、ふふんじゃ、なくて、二人は」

「ん~さぁ~ねぇ~。私にはわっかんない」

 彩子は両手を顔の横へと持ってきて、掌を天井に向けおちゃらける。

 その姿は本来、憎らしい筈なのだが、何故だか彩子に対して怒りが沸かない。

 恐らくこれが、他の人と彩子との、格の違いなのだろう。普通ならば、初対面の人間に対して、こんな態度をとってはいけない筈。

 いけない筈なのだが、彩子のあの姿、違和感の欠片も感じさせない。

 まるで当然の姿のように、私には見える。

「……わかんない?」

「うん。わかんない。ホントに」

 そんな状況、考えにくいが、恐らく本当なのだろう。

 おちゃらけては居るが、彩子の目は嘘を付いていないし、彩子は、嘘をつかない。

 初めて会った人の事なのに、何故ここまで断言出来るのか解らないが、断言出来てしまう。

「……心配とか、無いんですか?」

 私がそう問い詰めると、彩子は両手を下ろし、キョトンとした表情で私の目を見た。

「心配? どういう意味で?」

「ハルちゃんと、ケイ君、こんな夜に、一緒に出てったんですよね? 何か、あるんじゃないかって、思わないんですか?」

 私がそう言うと、彩子は突然、顔をしかめて、舌を出す。

 表情の突然の変化に、私は驚いた。

「えー心配? え? ケイちゃんとハルちゃんが? 何かあるって? えっちぃ事でもしてるって意味? ユキちゃんはケイちゃんと、何年一緒に居るの?」

「え?」

「ねー何年さ」

 彩子さんは口を尖らせ、私へと近づき顔を覗き込んだ。

 クッキリとした二重瞼の彩子の目が、至近距離で私の目と視線を合わせる。

「……さ……三年ですかね」

「三年! 三年も居るのに? 心配? あのケイちゃんが! 初めて会った女性に! 何かするって! 心配?」

 彩子は、大きな目をさらに大きく広げ、大きな口を開き、大きな声を出した。

 そして右手で再び私の頬を突付く。

 しっかりと、傷のすぐ下を狙って。

「え……だって」

「もぉ~お姉さん怒るぞ?」

 私の頬を、一度突付く。

「あのケイちゃんが!」

 私の頬を、二度突付く。

「始めて会った女性に!」

 私の頬を、三度突付く。

「何かするって!」

 突付かれるたびに、頬の痛痒さが増していく。

「あ……あ、はい……あ、いえ……すみません」

 確かにそんな心配は、的外れなのかも知れない。

 ケイ君が、親友の妹であるハルに、手を出す訳が無いという事は、考えるまでも無い事。

 仮にハルが進んで、そのような関係を結ぼうとしても、ケイ君は屈託ない笑顔で誤魔化すだろう。

 何が何でも、誤魔化す。

「ん~? なんて? なんて言ったの?」

 彩子は、自分の顔を私の顔へと、さらに近づけた。

 あと数センチで、おでこ同士がぶつかる。

 私の視界全てが、彩子になった。

「いえ……ありえない事です」

「そーでしょ?」

「……そうです」

 視界いっぱいの彩子は、しばらく私の目を見つめていた。

 じぃっと、ずぅっと、私を見つめ続ける。

 彩子の瞳には、光が宿っていた。

 目の奥にある、キラキラの、不思議な光。

 私はそれに、少し見惚れる。

「そうなんだよ。そんな訳の解らない心配なんか、要らないの」

 彩子はようやく、口を開く。

 そしてニコッと、彩子の目が笑った。

 彩子は私の頭に、ポンと手を置いて、ようやく私の顔から自分の顔を離す。

 少し離れた所で見た彩子の顔は、やはり笑顔だった。

 さきほどの彩子は、演技だったのか、冗談だったのか。

 怒っているように見えなかったのは、確かだ。

「まぁ、気にはなるけどね」

「……なってるんじゃないですか。どっちですか」

 彩子は「あはは」と笑う。

「気になるって言うのはさ、エッチぃ事してるとか、そういう事じゃなくて、壊れちゃうんじゃないかなってね」

 彩子さんは、笑顔で語り始めた。


「私がこの部屋に来た時ね、ハルちゃんがグズッてて、ケイちゃんが困った表情してる所だったんだよ」

 彩子は笑顔のまま、再びゴミを拾い、ゴミ袋へと入れた。

 私はその様子を、ただジッと見つめる。

「困った顔のケイちゃんがさ、今にも壊れそうに見えて、怖かったなぁ」

「……壊れそうで、怖かった……」

 彩子が危惧している事は、私の中に涌いた事が無い。

 ケイ君は、凄い人というイメージが先行しており、そんな印象、微塵も抱いた事が無かった。

 だってケイ君は、勉強はそこそこで、体力は教師を含めても学校一。

 それに、いつも笑顔で明るく、私とタダ君を元気付けてくれていて、ムードメーカーのような存在。

 暗い表情なんて、少しも見せなかった。

 だから、壊れそうだとか、それが怖いだとか、一度だって思った事は無い。

「ケイちゃんねぇ、強そうに見えるでしょ? ユキちゃんとか正也君の前では、凄く強がってたんだと、思うんだ」

「強がってた……?」

 強がってた?

 強がってただけ?

 私はその強がりに、いつも騙されてて、いつも頼りっきりだった?

「うん。強がってたと思う。本当は弱いのにさ、三十人と喧嘩するために、毎日トレーニングしてたんだよ。汗だくになってさ、体中に青アザ作ってさ」

 彩子は笑顔で、弾んだ声で、私の心臓を、鷲掴みにした。

 心臓が止まってしまう。

 止まって、しまう。

「どうして三十人と喧嘩したのか、そもそも、どうしてそのために鍛えていたのか、教えてくれないけどさ、弱いケイちゃんなりに、出来る事をしたんだと思う。それって、ケイちゃんの正義を」

「はぁっ! はぁあっ!」

 苦しい。

 息が出来ない。

 苦しい。

 息が出来ない。

 顔が熱い。

 熱い。熱い。熱い。

「ユキ……?」

 彩子の声が、遠くに聞こえる。

「ユキちゃん!」

 視界がゆがみ、脳が痛む。

 胸が痛む。間接が痛む。

 全てが痛い。

 痛い。

 そして、痛みが全てを教えてくれて、私は全てを理解した。

 私は、忌み子だと。

「わっ……! 私のせい……! きっと! きっと!」

「……え?」

「けいく……優しいから! ずっと……! 鍛えるのケンコーのため……って!」

「……ユキちゃん。おちつこぉ」

 いつの間にか、私の背中をさする彩子。

 私は彩子が居るであろう場所を、見つめる。

 そこには歪みきった、彩子の顔。

 笑っているように、見えた。

 私はソレに、両手を伸ばす。

「はぁあっ! きっと……! 喧嘩するためじゃなくて! タダく……を、止めるために!」

「……そうかもね」

「タダ君! 短気だから! 私が、最初、イジメられた時、タダ君、怒って! それを、なんとか、止めたのが、ケイ君で! それをずっとするために! タダ君を、守るために!」

「……流石だよね」

「私ぃ! 私がイジメられたからイケナイんだ! ケイ君を退学にしちゃったぁあ! 私が死んでいれば、タダ君も! 悪魔に魂取られないで、済んだんだぁあ! 私ぃ! なんでもっと早く! 死んで無かったんだぁあっ!」

「悪魔……?」

「はぐぅっ! あくまの、契約ぅ……! うぅううぅ」

 私は顔中の穴という穴から、液体を垂らす。

 まるで、脳が痛みを伴いながら溶け、それが穴からあふれ出しているかのように、感じる。

 なんて痛いんだ。

 なんて苦しいんだ。

 なんて忌み子なんだ、私は。


「そっかぁ……正也君、死んだんだぁ」

 私は全てを彩子に話した。

 幼い頃、タダ君は悪魔と契約し、運命の人である私と、結びつけた事。

 タダ君は代償として、残りの寿命が五年になってしまった事。

 タダ君の契約が満期に近づいた時、悪魔が私と取引をしに来た事。

 私は悪魔と取引をし、私自身の不幸を代償に、タダ君の寿命を五年延長させた事。

 私の不幸はイジメという形で訪れて、ケイ君を巻き込んでしまい、退学にまで追い込んだ事。

 しかも契約は夢の中で行われていたので、私もタダ君も、つい最近まで忘れていた事。

 この取引には抜け道が存在しており、私が死ねば契約が成立せず、タダ訓の寿命の期間が延長され、タダ君はさらに五年間、生きていられて、更に新たな運命の人とめぐり合えていた事。

 そのいずれも知りながら、タダ君は自分の死を選んだ事。

 そして、私は最後の最後、タダ君に冷たく当たり、狂わせてしまった事。

 全てを、話した。

「私っ……嫌われたかった……タダ君に嫌われて……そうすれば、私も死にやすくなるって……思って……心残りが……無いって……タダ君が新しい運命の人と……仲良くなりやすいって……だから私……冷たくしたの……ホントは私が……死にたかったの……」

「ん~……」

「ケイ……君も……被害者なの……私の勝手で、私が不幸になるのは……いいの……それなのにケイ君……巻き込まれたの……全部私のせいなの……」

「……ん~」

 色々な人に、色々な迷惑をかけた。

 私の勝手で、ケイ君は不幸になり、私の勝手で、タダ君を狂わせた。

 結果として招いた事態は、この現状。

 タダ君が死に、ハルちゃんが自傷し、ケイ君が困って、彩子をも巻き込んだ。

 なんて運命。なんてカルマ。

 私は確実に、地獄へと落ちる。

「……話が前後して、ちゃんとは把握出来て無いと思うけど、うん。大体解った」

 彩子は立ち上がり、台所へと向かった。

 私はその姿を、ただ眺める。

「お……怒らないのですか……? ケイ君の保護者なら……ケイ君を巻き込んだ私を、おこ」

「……怒ってないよ。許せないけど」

 胸が、痛くなる。

 彩子の言葉は、いつも正しい。

 きっと、怒りなんてとっくの前に通り過ぎていて、呆れていて、だからこそ許せないのだろう。

 彩子の小さな背中が、怖い。

「ゆっ……許さなくて……いいです」

「ん? あ、ユキちゃんの事じゃないよ。なんでユキちゃんが許せないのさ」

「……え?」

 彩子は冷蔵庫を開けて、なにやら食材を取り出している。

「許せないのはねぇ、神様っていうか、運命っていうか、そういったモノかな」

「……そんな……そんなモノを許せないって言ったって……」

「……許せないなぁ、神様。悔しいなぁ、私」

 彩子は食材を出し終えると、乱暴に、凄く乱暴に、冷蔵庫を閉める。

 強烈な音がこの部屋に響き、耳が痛くなった。

「正也君が十年前に契約したって事は、八歳? ははは……ははははは」

 彩子は、笑った。

 笑い声が聞こえてくるが、恐らく顔は笑っていないのだろう。

 声が、乾いている。

「……どういうつもりなんだろうね。八歳だよ? ガキンチョだよ? なのに運命の人と結び付ける契約……? 馬鹿にしてるなぁ」

「え……あの」

「正也君、ケイちゃんの親友だったんだよね。なんでそんな、理不尽なんだろうね。ケイちゃん、心労で死んじゃうよ」

「……あの」

「なんでぇっ! なんでっ!」

 やはり彩子は、怒っていた。

 冷蔵庫から取り出したニンジンを、思い切り台所へと叩きつける。

 次に長ネギをシンクに振り下ろし、潰した。

 包丁を取り出し、メチャクチャに食材に切りかかる。

 彩子は、乱心していた。


 そんな彩子を見て、思い出す。

 今日の夕方、ハルの指を噛んでいた私を。

 傍から見たら、良く解る。

 キレるという事は、狂うという事だって。

「なんでっ! なんでっ! なんでケイちゃんばっかり! なんで! なんでよぉっ!」

 だけど、私には、彩子が今、こうしている理由が、解る。

 少し前に、私も感じていた事だから。

 きっと彩子は、どうしようも無い。

 どうしようも無いから、キレている。

 狂っている。


 彩子が狂っていた時間は、おそらく数秒ほどだろう。

 しかし、彩子の印象から遠くかけ離れた光景だっただけに、私に与えたインパクトは相当なものだ。

 彩子が狂うなんて、想像も出来なかった。

 完璧に限りなく近い存在の彩子も、やはり人間だと言う事なのだろう。

「はぁ……はぁ……」

 彩子は最後に卵をシンクの中に思い切り投げ、落ち着いた。

 肩で息をして、眉毛を吊り上げてはいるが、動きは止まっていて、ただ立ち尽くしている。

「……彩子さん、落ち着きました?」

 私がそう尋ねると、彩子はハッとした表情を一瞬だけ作り、直ぐに笑顔を作る。

「はは……ユキちゃん余裕だなぁ」

「……余裕?」

 彩子は突然、訳の解らない事を言い出した。

 別に、余裕なんて無い。

「キレてる人間を見てる側って、何故か冷静なんだよね。引いちゃうのかな」

 彩子はニコリと笑い、私の顔を見る。

「ユキちゃんこそ、落ち着いたでしょ?」

「……え」

 そういえば、私はいつの間にか落ち着いている。

 狂った彩子を見ているうちに、私はどんどんと冷静になっていき、さっきまで胸の中にあった焦りや罪悪感が、無くなっていた。

 有るのは、彩子に対する想い。

 心配というか、少し怖いというか、なんとかしなくてはという感情が芽生えていた。

「下手に慰めるより、いいよね」

 彩子は満面の笑みを浮かべ「あはは」と笑った。


 思う事は、彩子は人間じゃ無いという事。

 彩子は完全に、人間を操る側の存在。

 男ならば、この容姿や笑顔でコロッと手玉に取られるだろうし、女の私でさえ、操られてしまった。

 彩子は、人を、感情を、心を、知りすぎている。

 私が思う何倍も、彩子の底は深い。私にはその底を、計り切れない。

 ケイ君の、保護者を名乗るだけの事はある。

「あ~ぁ、やっちゃった……掃除してた筈なのになぁ」

 彩子はそう言いながら、台所の片付けを始めた。

 その姿に、何故だか胸が締め付けられる。

 もの凄く、申し訳ない気持ちにさせられる。

「あのっ……私片付けますから」

 私は思わずそう口走り、立ち上がっていた。

「えー? 私がやった事だから、いいよ」

「いえ……いえ、私が片付けます」

 私のためにしてくれた事なら、私が片付けたい。

 そんな気になってしまう。

「やっぱ、ユキちゃんはいい子だ」

 彩子は笑顔を作り、私へと近づき、頭をなでた。

 優しく、優しく。まるで子供をなだめる親のように。

「正也君の事、残念だって思ったよ……いい子で、いい男だったのに」

 ……優しい言葉に、胸がいっぱいになる。

「辛かったよね……よく頑張ったね」

 胸に、心に、彩子の言葉が染み込んで来る。

 頭が、まるで性感帯をなでられているかのように、気持ち良い。

 なるほど、話を終えたばかりの半分混乱した状態の私に、このような事を言った所で、右耳から左耳に抜けて行くだけ。

 だけど、少し冷静になった今なら、素直に受け止められる。

 操られたというのに、彩子という存在が格上過ぎて、悔しくもならない。

「……片付けます」

 なんとか声を振り絞り、それだけを言った。

「うん。片付けよう」

 彩子は私の頭から手を離し、私の頬を突っついた。


 部屋を全て片付け終わり、私と彩子はテーブルの前に座った。

 彩子は座る時に、おばさん臭く「よっこいしょ」という声を出す。

 彩子の行動はいちいち若さが無く、それが何故か可愛らしい。

「ふぅ~。疲れちゃった。これくらいで疲れるなんて、年は取りたくないねぇ」

 彩子は自分の肩を自分で揉みながら、疲れた表情を作る。

「彩子さんって、おいくつなんですか?」

 私は気になっていた事を彩子に聞く。

 背は低いし体も細い。体格は中学生くらいのものだろうか。

 それに顔だって童顔だ。十代前半で十分通用するだろう。

 しかし行動はおばさん臭く、とても若者とは思えないほどの特殊な雰囲気を持っている。

 そんな彩子の、実年齢がとても気になった。

「二十三だよ。子供も居るし、もう立派なおばさんだよ」

「えっ?」

「ん~? なぁに。もっとおばさんかと思った?」

「あ、いえ、そうじゃなくて……逆っていうか、逆でも無いって言うか……子供がいらっしゃる事に、驚いたと言いますか」

 しかし、そうか。二十三くらいが、妥当なのだろうか。

 この若さで子供が居るという事を考えれば、彩子の持つ雰囲気も、少しは納得できる。

 恐らく元々が明るくてシッカリとした人で、子供を持つ事によって、不思議な雰囲気を作り出す事が出来るようになったのだろう。

「あはは。正也君も似たような事、言ってたよ」

「あ」

 そうだ。その疑問もまだ残っていた。

「そういえば、何故タダ君の事を知ってるんですか? それと、私とタダ君が何故付き合っていたって……」

 彩子は「あぁ」と言い、ニッコリと微笑んだ。

「実は正也君とは面識があってね。一ヶ月ちょっと前にこの部屋で一度会っただけだけど」

「じゃあ、何故付き合ってるって、解ったんですか? タダ君がそう言ってたんですか?」

「ううん。付き合ってるって思ったのは、勘かな。正也君とユキちゃん、お似合いだなぁって思っただけだから。もしハズしても、あーそうなんだーお似合いなのにーって言うつもりだったよ」

 ……なるほど。確かに言う通りだ。

 ここでも彩子の抜け目の無さが確認出来てしまい、関心する。

「お子さんは、おいくつですか?」

「三才だよ。ケイちゃんが十四の時に作ったの」

「そうなんですか。旦那さんは今どちらに?」

 彩子は少しの間、無言でキョトンとした表情を作った。

 そして何かを思いついたのか、笑顔になる。

「今ね~、知らない女と一緒にどっか行っちゃってさぁ……全く何やってんだろうねぇ」

「え……酷い旦那さんですね……お子さんと、彩子さんを、ほったらかしにして……」

「うんまぁ~ねぇ。ほったらかしにしてるのは、確かにその通り」

 彩子はニヤニヤと笑顔を作りながら、テーブルの上に顔を乗せた。


 腕時計に目を向けると、時刻は夜中の十二時を過ぎていた。

 私が何時まで眠っていたのかは知らないが、こんな時間になっている事に内心驚く。

 そして、ケイ君とハルが帰って来ない事に、少し焦りを感じ始めた。

「……ケイ君、遅いですね」

 私がそう呟くと、彩子は「ん~」と声を漏らし、携帯電話を取り出し、同じように時刻を確認する。

「あらあら……もうこんな時間」

「私、ハルちゃんに、電話しましょうか?」

「え? なんで私に聞くの?」

 彩子は私の目をチラリと見て、いやらしい笑みを浮かべた。

 その瞬間に、気付く。

 電話したいのは私のほうであって、彩子では無いという、至極当たり前の事に。

 何故だろう。彩子の了解を得たくなってしまう。

「……電話、します」

「あはは。電話はちょっと野暮だけど、流石に遅すぎるもんね」

 彩子は少し胸にピリッとくる言葉を吐くが、どうやら反対はしないらしい。

 私は笑顔になってる彩子の顔を見ながら、ハルへと電話をかけた。


 プルルルという呼び出し音が三度なり、四度目の途中でプツッという音が聞こえ、通話が開始された。

 何故だろう、私は少し緊張している。

「もしもし」

 ハルの声が聞こえてきた。

 ハルの声には張りがあり、どうやら落ち込んではいないようだ。

 ケイ君は自分の敵に対して容赦の無い所があるから、少し安心する。

 ケイ君はハルの事を、敵とは思っていないらしい。

「あ、もしもし。ハルちゃん? 今どこに居るの?」

「……あの、啓二さんがね、私の父親を、ぶっ飛ばしてくれるって」

 ハルの言葉を聴き、私は鳥肌を立たせた。

 ハルは一体、何を言っているんだ?

「え? ハルちゃん? 何を、言ってるの?」

「……あの、ユキさんには言ってなかったかも知れませんけど、私って、小さい時に実の父親に犯されて……最近は援助交際みたいな関係になってて……それを啓二さんに話したら、父親をぶっ飛ばしてくれるって、言ってくれたんです」

 実の父親に、犯された?

 最近は援助交際みたいな関係?

 それと、ぶっ飛ばす?

 ぶっ飛ばすって、何だ?

「援助交際……って? ぶっ飛ばすって、何?」

「今もう、向かってるんです。あと少しで父親のアパートに着くんです」

 私は思わず立ち上がり、慌てふためく。

 意味無くカーテンを開け、外を見たりした。

 このアパートに向かっている訳じゃないという事は解っていたが、何故か外を確認してしまう。

「優しいですよね、啓二さん……今日知り合ったばかりの私のために、色々してくれるんですから」

 私はケイ君が私のために起こしてしまった暴力事件を、まるで走馬灯のように思い出していた。

 男だろうと、女だろうと、容赦はしない。

そればかりかケイ君は、人を殴る時、笑う。

 人を殴る事が、まるで楽しい事をしているかのように、笑う。

 そんな事、もうケイ君にはしてもらいたくない。

 優しく頼もしいケイ君が壊れてしまうし、今度こそ、警察沙汰になってしまう。

 ……壊れてしまう?

 どこかで、聞いた言葉。

「ハルッ! 駄目だよ! ケイ君を止めて!」

「啓二さんったらウブで、目もあまり合わせてくれなかったですけど、話はシッカリと聞いてくれて」

「ハルってば!」

「私のトラウマまで」

 駄目だ。聞く耳を持ってくれない。

 今のハルは冷静なように思えるが、恐らく極度の興奮状態なのだろう。

「ハル、ケイ君に代わって。隣に居るんでしょ? お願い」

「え? 啓二さん? どうしてです?」

 ……ケイという言葉に反応したのか、ハルは私の言葉に初めて返事らしい返事をした。

 どうやらハルは、ケイ君の事を信頼し始めたらしい。

「いいから。代わって」

 ハルは歯切れ悪く、しぶしぶと言った感じに「ユキさんからです」と言った。

 受話器の向こう側から「え? 僕?」と、ケイ君の声が聞こえる。

「はい? ユキちゃん? どしたの?」

 受話器から流れてきた声は、いつも通りのケイ君の声という印象。

 興奮しているとか、切羽詰っているとか、ケイ君独特の無感情な声というか、そんな感じではない。

 至って普通。いつものケイ君。

「あの……今からハルちゃんのお父さんを、ぶっ飛ばしに行くって、ハルちゃんが言ってたから……」

 ケイ君は私の言葉を聞き「あはは」と笑った。

 その笑い声が、なんだか乾いて聞こえる。

「うん。ぶっ飛ばしに行くよ」

 私はサラッと答えるケイ君の言葉に、寒気を覚えた。

 立っていられず、その場へと膝をつく。

 きっと、私には抱えきれないほどの悲しみが、私を押しつぶしたのだろう。

「な……なんで? 今日知り合ったばっかりの、ハルちゃんに、なんでそこまで」

「違うよユキちゃん。これはね、春香ちゃんのためだけって訳じゃなくてね、僕のためでもあるんだよ」

「……僕の、ため?」

「うん。タダっちが死んでから、僕は抜け殻みたいになっちゃって、毎日にハリが無くなっちゃったんだよ。無気力状態になっちゃってさ」

「……ケイ君が、無気力?」

 信じられなかった。

 いつも笑顔で活発的だった、あのケイ君が、無気力状態。

 彩子が言っていた事は、どうやら本当らしい。

 ケイ君は、弱い心を、持っていた。

「タダっちの妹である春香ちゃんを助ければ、僕はまた正義が持てるかもって、思って」

 ケイ君の声は、明るかった。

 弾んでいた。

 それだけで、私が何を言おうと、ケイ君は考え直さないという事が、解った。

「あぁ……ケイ君……どうして」

「ユキちゃん~、ちょっとごめんねぇ」

 いつの間にか立ち上がっていた彩子は、私の手から携帯電話を取り上げた。

 そして自分の耳へと当て「ケイちゃん? 彩子だよぅ」と声をかける。

「ケイちゃん~、ぶっ飛ばしに行くの?」

 彩子は至って普通に、そう聞いていた。

「そっかぁ……うん。うん」

 何かを話しているようだが、私には何も聞こえない。

 会話の内容が、凄く気になる。

「……ん~、ハルちゃんのお父さんにだって、家族は居るし友達も居るんだよ。それにぶっ飛ばしたからって、ハルちゃんが元気になるとは、限らないんだよ。それを解った上で、行くんだよね?」

 彩子はその言葉を言った後、しばらく黙り込んだ。

 恐らくケイ君も、黙っているのだろう。

 長い沈黙が、この場を支配する。


 数分間は黙っていただろうか、彩子は突然、笑顔を作り、笑い声をあげる。

「あははっ。解ったよケイちゃん」

 彩子はしゃがみ、へたり込んでいる私の頭へポンと手を置いた。

 もしかしたら、彩子の言う事ならばケイ君は逆らえず、考え直して帰ってきてくれる事になったのだろうか。と、期待する。

「ぶっ飛ばして来い! ご飯作って待ってるから」

「え」

 彩子はそれだけを言って、携帯電話を私へと渡す。

「もしもしっ! ケイ君?」

 私は慌てて受話器へと耳をつけるが、もう通話は切られてしまったらしく、プープーという音だけが私の耳に届いた。

 何故、彩子はケイ君を止めなかったのだろう。

 最初こそ止めるかのような発言をしていたと言うのに、何故突然……。

「彩子さん、どうして?」

 私は睨むように、彩子の顔を見た。

 声をかけたられた彩子は「ん?」とだけ返事を返し、得意のキョトンとした表情を作る。

「どうして、止めなかったんですか? 保護者なら、止めるべき事なんじゃないですか?」

「そうだねぇ……その通りだよ」

「じゃあなんで?」

 彩子は私の頭をなでた。

 そして、悲しい表情と思わされる目で、私を見た。

「私だって怖いよ。ケイちゃんが無茶をして、警察に捕まったり、人を殺しちゃったり、殺されちゃったりする事が、凄く怖い」

「……だから、怖いなら、止めればいいじゃないですか」

「出来ないよ。だってケイちゃん、意思強いもん。それに、これでようやく、心を取り戻せるって、言ってた」

 彩子は、涙を浮かべた。

「あは……これでもう、旦那から放っておかれる事も、無くなるかも」

 涙を浮かべながら、彩子は笑っていた。

「旦那……って」

「うん。ケイちゃんが旦那さん。まだ籍入れてないけどね」


 もしかしたら私は、生涯、彩子やケイ君の領域にはたどり着けないかも知れない。

 だって私は、常識の中で生きてきて、常識の範囲の事しか解らない。

 人をぶっ飛ばす事が最善の策で、心を取り戻す事に繋がるだなんて、どうしても思えない。

 しかし彩子も、ケイ君も、その常識を知った上で、枠をはみ出した考えが出来る。

 これは、私には無理だ。

 イジメられ、運命の人を亡くした今でも、私は常識を、超えられない。

 訳が解らなくなって暴れる事は出来ても、冷静に「人をぶっ飛ばす」事は、無理。

 たとえ、ハルを犯した父親が相手だとしても、私は、出来ない。

「……ケイ君、どうなったんでしょうね」

 私は隣で料理をしている彩子へと話しかけた。

「ん~、ケイちゃんがやられる所は想像出来ないから、ぶっ飛ばしてるとは思うけど」

 彩子は私のほうをチラリとだけ見て、再び手元を見る。

 慣れた手つきで食材を切っていく彩子は、主婦の姿だった。

 疲れた旦那のために、愛情を込めて料理を作る、妻のものだった。

「……復讐は、むなしいだけだって、テレビや映画で言ってました」

「あは、良く聞く言葉だね」

「それって、真実じゃあ、無いんですね」

「……うん。むなしいだけじゃあ、無いよ」

 むなしいだけじゃあ、無い。

 じゃあ、それなら。

「……私、タダ君を殺した悪魔が、許せません」

「そうだよね。許せないよね」

「……ぶっ飛ばしたい、な」

「あはっ」

 彩子は笑った。

 そして今度はしっかりと、私の顔を見る。

「ぶっ飛ばす事が正しい事とは、限らないよ。正也君はユキちゃんに、幸せになってもらいたいに決まってるよ」

「……でも、私が幸せになるには、清算しなきゃ、いけない過去が、ありすぎます」

 彩子は私へと近づき、背中をポンと叩いた。

「私とケイちゃんに、影響されすぎだよ。ユキちゃんはユキちゃんで素晴らしい子なんだから、自分を大切にね」

 優しい言葉が、身に染みる。

 どうしよう。

 どうする事が正解なのか。

「今はさ、ケイちゃんとハルちゃんが帰ってきたら、笑顔でおかえりぃ~って、言ってあげる事を考えよ。そうすれば、暖かい気持ちになれるから」

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幼い心に最愛の死 ナガス @nagasu18

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