第8話 血染めの大地

 まさか、自決すら出来ない状態にされるなんて。サラはもちろんのこと、天界の上層部でさえもその神の啓示には絶句したらしい……というのは、ヴァルハラに出立する直前にスレイから聞いた話だったが……

「ヴァルハラに連れて来られた時点で、覚悟してたけど……」

 自決すら出来ないということは、下手に行動不能になってしまえば、ある意味死よりも恐ろしいなぶられ方をされかねない。


 特に、サラのように規格外に美しく妖艶な女性の場合には


 そうスレイに警告されたものの、自決も出来なくされてしまった以上、魂が消耗しきって死ぬ以外には、死に方さえもままならない。

 だからといって、人間を殺して生き延びるのもイヤだった。スレイには、出来るだけ最初の方は逃げるように言われていたが、サラは最期まで逃げて餓死する道を選ぶつもりだった。弱った人間を殺せと言われても、とてもそんな気にはなれない。

 ごめんね、スレイ。もう会えないかもしれない……サラは心の中で、スレイに謝った。

 この血に染まったような緋色の大地、地形に起伏こそあるものの荒野以外に見えないこのヴァルハラの地で。彼女は既に、ここでその生涯を終える覚悟を決めていた。

 そして、血に染まった戦場をひたすら逃走し続けることを選択した。たとえ、それで魂が摩耗し尽くしたとしても。それが、彼女が選択した戦いだった。




 スレイはサラがヴァルハラへと向かう直前に、色々と助言をしてくれた。スレイの、サラを何がなんでも生き残らせたいという気持ちに、サラは嬉しさを感じてはいたが。とはいえ、その内容はあまり気持ちがいいものではなかった。

「まさか、自決すら出来ないとはね……元から天界では禁忌きんきとされてはいたんだけど、実力行使で実行不能にするとは。天界の住人たちがなぶり殺しにされかねないとしても、優れた戦士へにえを与えることを優先するつもりか」

「どういうこと、スレイ?」

 サラはまだ天界の住人がヴァルハラに送り込まれることの意味を、完全には理解しきれていたわけではない。ただ、自分たちが人間の戦士を選別するためというより、単に優れた戦士の上質の獲物として送り込まれる意味合いの方が強い、ということは理解していた。

「戦場は決闘とは違う。必ず片方だけが無傷というわけにはいかないだけではなく、戦いで負傷して動けなくなった者を、別の者が殺すといったことも多い。それですめばまだいいんだけど。中には、そういった負傷した者を、敢えてすぐには殺さず、嬲って楽しむ輩さえ居る。自決は、そういった行為が自分に行われないようにするための、最終手段なんだよ」

「それが……出来なくされた」

「そう。何がなんでも君たちを贄としたいらしい……自決されれば、上質な魂を手に入れられる人間の数が減るからね。まあ、決まってしまったことはしょうがない。そういたことにならないよう、君にいくつかアドバイスしておくよ」

 サラは、スレイが天界でも有数の戦士として扱われていることを思い出した。スレイは普段穏やかなので忘れがちだが、彼女の天使としての資質は、むしろ戦場において輝きを増すらしい。らしいというのは、サラは天界に来てからは一度も戦場に出たことがないからなのだが。

「一番重要なのは、最初は出来るだけ戦場から遠ざかること」

「……? どうして?」

「他の戦場ならともかく、ヴァルハラでは戦いで糧を得なければどのみち死ぬ。だからこそ、皆こぞって獲物を探す。そうやって、倒す相手を探す者たちが互いを探していくと、どうなると思う?」

「……?」

「自然と、密集地帯が出来上がってしまうんだよ。だからといって皆が皆すぐさま戦うわけはないだろけど、戦いの気配を感じ取れば、そこに人が居ると分かって、自然と人が集まってくる」

 そこでスレイは言葉を切った。サラが自分の言葉を理解しているか確認してから、さらに言葉を続ける。

「遭遇率が低い場所を敢えて選ぶものは、ヴァルハラではおそらく極少数だろう。戦いを避けすぎると、今度は自分が戦えなくなるほど魂が摩耗して、衰弱しただけの獲物になるかもしれないからね。その心理を逆手に取るべきだ」

 サラは、そのスレイの言葉に聞き入る他無い。そもそも、戦場での経験値で圧倒的にスレイに劣っているだけではなく、既にスレイはヴァルハラのシステムから発生するであろう心理戦にまで、考えを進めているのだから。

「ただ、人口の密集はそれほど長くは続かない。当たり前だが密集地帯は激戦地になる。それが落ち着きはじめた頃、戦いに加わる者が出てくるはずだ。狙うならそこか、その後……次の獲物を探すべく、皆が移動を始める頃合いだ……皆が戦っているところへ、わざわざ飛び込む必要はない。出来るだけ、人がまばらになった所を探して狙うんだ」

 そして最後に、スレイはこう付け足した。

「獲物を狙うなら……の話だけどね。まあ、きっと大丈夫だよ。

「ありがとう、スレイ……」

 サラは、スレイのその言葉に感謝した。なぜなら、このときはただの慰めの言葉だと思っていたからだ。




 スレイは凄いな。サラは素直にそう思う。スレイは、もしかするとサラが人間を殺さないかもしれないと、そこまで考えていた。彼女のような天使に会えただけで、サラの生は十分に幸せだったと思える。

 このまま、死んでも、スレイはきっとワタシのことを覚えてくれている。そう思うと、このまま死んでも悔いはない。

 人間を殺してまで生き延びる価値は、サラのような者にはないとも思っていた。ただ、スレイが言っていたように、嬲られて死ぬのだけは怖かった。だから、こうして戦場から逃亡して、衰弱死するのを待つことにしたのだ。

 ただ、このヴァルハラはそこまで甘い場所ではなかった。ただ座して死を待つことさえ、そう容易くはない場所だった。サラは、既に狩人に補足されていたのである。

 とはいえ、人間よりは流石に身体能力に優れたサラからすれば、近接武器を持って近寄ってくる単独の人間なら、対して脅威ではなかった。本気で逃げるサラを追える速度を持った人間などほぼいない。

 ただ、サラを補足していたのは運が悪いことに、弓を持った人間だった。サラの足が人間より速いといっても、弓矢よりは速く走れてはいない。それだけならともかく、サラの方は射手の存在に気付いていない。回避行動を取りながらの移動ならともかく、無警戒にただ少し速く走っているだけの獲物である。

 並の技量ならともかく、弓に優れた才能と技量の持ち主なら、決して狙えなくはない獲物だった。サラの背後から、無防備な彼女の背中へ向かって矢が飛んでいく。


 その矢は無情にも、彼女の背中に……刺さる寸前で消失した


 射手は驚愕した。事態は飲み込めなかったが、まだ射程範囲にぎりぎりサラがいる。すぐに二の矢をつがえ、射出した。その矢は今度こそサラの背中に向かい……またしても消失した。

 三の矢を狩人がつがえることは無かった。事態が飲み込めたわけではない。ただ、サラが射程範囲に出たこともあったし、明らかに違和感がある矢の消え方だった。そのような獲物を無理して追うなど、愚策だと判断したのだ。

 彼は賢明だった。賢明ではあったが、彼を遥かな高みから見下ろしていた超常の存在に気付くことは出来なかった。ある意味でそれは幸運だったのだろうが。




 結局、サラも空中にいた超常の存在に気付くことはなかった。

 それは三対計六の純白の翼持つ、金の髪と琥珀の瞳の天使。太陽の如く、空中にありて大地を睥睨する。

 ヴァルハラに連れてこられた下級天使やサラたちとは違い、空に浮かんでいる程度の魂の消耗や、空に居ることでかえって目立つこともあり得るということすら、まるで意に介していない。

 それはただ、空からサラだけを見ていた。サラだけを見て、サラだけを気にかけていた。他の生と死も、彼の者には興味などなかった。ただ、サラだけを見つめ続けていたのだった……



 結局、サラは一度めの天使たちのヴァルハラ派遣を期限まで生き延びることとなる。サラは、スレイにまた会えることを、他の何より喜んでいた。

 そして、自分は幸運に恵まれたのだと、無邪気に信じていた。

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