第2話「桜花舞い散る春の午後」

 東北の春は、短い。

 それでも今、五百雀千雪イオジャクチユキを包む空気は涼しいながらも春を感じさせた。海から吹く風に舞い散るさくらの花びらが、あの日の記憶を呼び起こす。

 桜吹雪さくらふぶきを見詰める千雪の脳裏に、猛吹雪のあの日が蘇っていた。

 それは、摺木統矢スルギトウヤとのめ……そして、一方的な片思いの始まり。

 しばし追憶ついおくへと意識を漂わせていた千雪の横で、彼女を呼ぶ声が響いた。


「なあ、千雪……千雪? おい、千雪。聞いてるのか? おーい、千雪ー?」

「……はい? な、なっ、なんでしょう! 統矢君!」

「うわっと! い、いや、その……強度計算、見てくれっかなあと思って。なんだ? お前、今日はちょっとおかしいぞ? ボーっとしてさ。なにかあったか?」


 ふと気付けば、すぐ目と鼻の先に統矢の顔があった。

 敷物しきものに座ってぼんやり桜を見上げていた千雪の、その眼前に統矢の表情が小首を傾げている。特別に整った顔立ちではない。だが、美形と言えなくもない顔付きで、野性的なおもむきがあるのにどこか線が細い……そういう印象の少年が統矢だった。

 なにより、あの目だ。

 燃えたぎ恒星こうせいを閉じ込めたような、それでいて暗い炎が燃えるような瞳。

 統矢の輝く双眸そうぼうに、しどろもどろで少し慌てた自分の姿を千雪は見た。

 互いの吐息といきが肌をくすぐる距離から、統矢の顔が笑いながら離れてゆく。


「はは、なんだお前、はと豆鉄砲まめでっぽう食らったみたいな顔してさ。……千雪も、そんな顔するんだな」

「かっ、からかわないでください。……統矢君?」

「でさ、これ……どうしても左右のモーメントバランスを取ろうとすると、強度が……ざっと計算してみたが、お前も見てくれよ」

「え、ええ」


 ここは青森市内、湾に面した合浦公園がっぽこうえんだ。桜の名所としても知られ、皇立兵練予備校青森校区こうりつへいれんよびこうあおもりこうくから、自転車で三十分程の距離にある。今は周囲には、一ヶ月に満たぬ五月の春を満喫するべく、市民たちがそこかしこで花見を楽しんでいた。

 酒に酔う大人たちも、露店ろてん屋台やたいの間を走る子供たちも、笑顔だ。

 全県疎開ぜんけんそかいが実施されようとしたあの戦いが、嘘のような平穏が広がっていた。誰もが皆、パラレイドとの戦いを忘れようとしているのかもしれない。その気持ちが千雪にはわかる。だが、隣に座る統矢にもそうした想いがあるのかは疑問だ。

 今日、戦技教導部せんぎきょうどうぶの面々は部員の親睦を深めるべく、花見をすることになっている。

 部長の五百雀辰馬イオジャクタツマが言い出したことで、千雪は統矢と場所取りを命じられたのだ。

 兄が無用な気を回したようで恥ずかしい反面、顔には出さないが……嬉しい。

 凄く、嬉しいのだ。

 なのに、統矢は先程からずっと、この時代では珍しいタブレットの中で図面とにらめっこだ。彼の頭には今、擱座かくざした愛機97式【氷蓮ひょうれん】の再建しかないのである。


「ん? どした、千雪? なんだ、機嫌悪いのか? ……ふぁあーぅ、ふう……ねみぃ」


 睡眠不足なのか、統矢はあくびを噛み殺すとまぶたを手で擦る。

 千雪はいつもの無表情なつもりだし、どういう訳か昔から感情を顔に出すのが苦手だ。結果、いつも澄ました仏頂面ぶっちょうづらでいてしまう。なのに、統矢とは接する機会を得て間もないのに、いつも気持ちを見抜かれてしまった。

 そう、千雪は少し不満なのだ。

 桜の咲き誇る、花見なのに……統矢は先程からずっと、画面の中の人だ。

 時折自分のアドバイスを求めつつも、すぐにタブレットの中へ戻ってしまう。かつて、彼の幼馴染であり、それ以上だった人間……今は亡き更紗サラサりんなの遺品に遺品を映して。

 りんなの形見のタブレットで、りんなが乗ってた機体を直そうとしているのだ。

 ちょっと、あまり、凄く、とても、面白くない。

 そういう気持ちが顔に出てたのかと思うと、千雪は少し恥ずかしかった。


「統矢君……お腹、きませんか?」

「んー? いや、別に……ああ、そうか。肩の三次装甲サード・アーマーはいっそ、取っ払っちまうか……うーむ。でも、なあ」

「統矢君。喉は……乾きませんか?」

「うん? なんか買ってくるか、千雪? お前、よく食うもんなあ。俺が場所見てるからさ、行ってこいよ。待てよ、いっそ整備科せいびかのみんなに頼んで、パーツの新造を……あっ!」


 たまらず千雪は、統矢の手からタブレットを取り上げた。


「おい、千雪! な、なあ……あれ? どした? ……やっぱ、腹が減ってるのか?」

「……統矢君」

「おいおい、なんだよ。そんな、残念な奴を見るような目はなんだ? ……よせよ、照れる」

「……バカ。でも、私のそういうとこ、わかるんですか?」

「ん、顔に書いてあるけどな」

「そう、ですか……統矢君。ここ、計算が間違っています。戦闘機動で加速した瞬間、三次装甲が脱落しますよ。特に統矢君の操縦は荒っぽい、無鉄砲で無茶なんですから」

「え? ま、待て千雪! 間違ってる? そんな……見せろよ、どこだ! どこが!」


 統矢が手を伸べる先で、千雪がタブレットを高々と空へかざす。

 それでもタブレットを奪い返そうとする統矢は、自然と千雪を押し倒すような形になった。そして千雪は、そのまま敷物に倒れて長く黒い髪を広げる。

 気付けば千雪は、自分に覆いかぶさるように両手を敷物に突く、統矢の影になっていた。そして、真っ直ぐ見詰める統矢が赤面に目を逸らすのを見やる。

 彼はそのまま、千雪がそうであるように固まってしまった。

 桜の花を踊らせ吹き抜ける風だけが、北国の海辺うみべで短い春を追い散らしてゆく。


「……統矢、君」

「あ、悪ぃ……そ、その。まあ、あれだ……返せよ」

「はい。でも、その前に」

「な、なんだよ。わ、わかった、なにかおごれって言うんだな!? ……俺、そんなに金は持ってないぞ? ま、まあ、なにか食うか。部長たちも遅れてるみたいだしな」


 もごもごもと口の中でそんなことを呟き、らした目元を赤らめる統矢。なんだか面白くて、残念この上ないのに……千雪は自然と小さく笑ってしまった。

 自然体で素直で、こんなにも等身大の男子高校生な統矢も、珍しい。

 それ以上に、こうして微笑ほほえむ自分のこともおかしかった。

 敷物の上で影を重ねて上下に見上げて見下ろし、二人は時間を止めて、また動かす。

 ようやく統矢が千雪の上からどいて立ち上がったのは、二人をより巨大な影が包んだから。そして周囲が騒がしくなり、子供も大人も空を見上げて指を差す。歓声があがった。

 薄桃色の花が縁取る狭い空を、鋼の白鯨モビー・ディックが轟音と共に占拠していた。


「うお、なんだありゃ……千雪、あれは」

皇国軍こうこくぐんの……皇国海軍の高高度巡航輸送艦こうこうどじゅんこうゆそうかんですね。白神級しらかみきゅう三番艦、確か……羅臼らうす

「羅臼って、北海道の? 羅臼岳か」

「白神級の命名規約は、日本の山岳にまつわるものですから。ただ、あれは――」


 空を覆って巨大を落とす、高高度巡航輸送艦。それは、全長800mにも及ぶ超弩級飛行船ちょうどきゅうひこうせんである。絶対元素Gxぜったいげんそジンキを用いた不燃性超軽量ガスの産物で、船体下部に軍艦を逆さにぶら下げたような中央構造体だけで200mはあるのだ。こうした高高度巡航輸送艦は、この西暦2098年では数少ない航空輸送手段である。最高高度一万五千の天空を飛ぶ、鋼鉄の巨鯨。

 この時代、人類同盟じんるいどうめい一翼いちよくである日本皇国軍と言えば、それはを指す。

 それは、敵であるパラレイドの絶対的な制空権と対空防御力が、世界中の航空戦力を無力化し、すたれさせてしまったからだ。空軍というカテゴリーは十年以上も前に消え失せ、パンツァー・モータロイドを運用する陸軍のみが逆に進化した。海軍は、申し訳程度に輸送任務の航空力を持ち、前世紀的な聯合艦隊れんごうかんたいの運用と管理、それによる支援攻撃に留まっていた。


「へー、海軍さんか。珍しいな……皇国軍と言えば今は、陸軍だが」

「海軍は聯合艦隊からの戦略支援兵器等、陸軍にいいように使われてますからね。ああいった空中艦船や輸送機の類も、今は完全に陸軍の足代わりです」

「……詳しいよな、千雪」


 千雪も立ち上がると、悠々ゆうゆう蒼穹そうきゅうを飛ぶ巨艦に目を細める。

 千雪は、機械が好きだ。

 軍用品や兵器は言うにおよばず、自動車や自動二輪、工作機械に重機……そして、パンツァー・モータロイド。PMRパメラと呼ばれるこの世界の主力機動兵器は、絶対元素Gxの発見で爆発的に進化し、一時期は絶頂期とうたわれた科学文明の遺児いじだ。

 今、世界はパラレイドとの戦いに引きずられて、ゆるやかに衰退している。

 日本などは昭和中期レベルの文明圏へと後退していたが、まだいい方だ。


「私は、ああいうの、好きです」

「ああ、そうだったよな。PMRも、好きなんだっけか」

「ええ。……そして、PMRを大事にする人も」


 上空の巨大な影が去ってゆく。

 それを見送り、何の気なしに千雪は呟いた。

 統矢は、PMRを大事にする少年だ。その修理や管理だけではない、操縦もだ。荒っぽいと先ほど評して咎めたが、千雪は統矢のセンスを買っていた。彼は無茶を繰り返すし、時には無理も押し通す。そんな彼の操縦技術に、不思議とあの子は、【氷蓮】はついてくるのだ。

 機械には心などなく、感情もない。

 機械は所詮しょせん機械、乗り手を映す鏡だ。

 だからこそ、千雪は自身が関わる機械の全てが、不器用な自分の代弁者である気がしているのだ。つい、思い入れを込めて感情移入してしまう。そして、当夜に不思議と同じ匂いを感じていた。


「あのマーキング……どこの部隊でしょうか? 見たことが、ありません」

「ん? ああ、あれか。……蛇? 自分の尾を噛む、八の字の蛇……確か、ウロボロス」


 去りゆく羅臼の艦首に、見慣れぬマーキングがある。

 それはめぐ連理れんりを表す伝説の邪竜。自ら円環えんかんを成して尾をむ姿は、破壊と再生を象徴するという。……その言葉を呟いた時、統矢はなにか難しい顔をした。

 千雪にもなにか、そのウロボロスという単語が引っかかった。

 だが、思い出そうとしてたその時、黄色い声が響く。


「千雪さんっ! 統矢さんも……あ、あのっ!」


 ふと二人で視線を下ろせば……二人が並んで立つ敷物の端に、一人の少女がたたずんでいた。

 ――更紗れんふぁ、だ。

 彼女は切り揃えた髪を風に揺らして、何よりうるんだ瞳に視線を揺らしている。

 不安そうに彼女は、千雪と統矢とを交互に見やった。


「あのなあ、れんふぁ……そゆ目で俺を見るなよ。なんか、こう……ま、まあいい! ほら、お前の大好きな五百雀千雪さん、返すぜ。ったく、仲いいんだからさ」

「そ、そゆ意味じゃないよ、ないけど……統矢さん、なんか……今、千雪さんと」

「なっ、なにもないって! な、なあ? 千雪……千雪?」


 なにもなかった。

 未遂みすいだった。

 でも、なにかが起こりそうだった。

 そういう急接近を、もしかしてれんふぁは見ていたのだろうか? 千雪は、自分になついて妹のようにじゃれてくる異邦人エトランゼの少女を見やる。全ての記憶を失った、よるべない可憐かれんな少女……彼女はでも、統矢の死んだ幼馴染に瓜二つなのだ。

 そして、そのことを吹っ切った統矢を、時々熱っぽい視線で見ている。

 統矢だけが気付かないのだが、千雪は気になりこそすれなにも困ってはいない。れんふぁは親しい友人だし、身寄りのない彼女の力になってやりたい。恋敵ライバルになったとしても、その想いは変わらないだろう。

 そんなことを考えていたら、れんふぁは意外なことを口走った。


「青森校区に戻って、二人共……お花見、中止だって。御堂ミドウ先生が、戦技教導部全員集合だって。な、なんだろう、わたし……凄く、嫌な予感がするの」

「あのチビ……御堂刹那ミドウセツナがか?」

「統矢君。先生を呼び捨てしないでください」


 轟音を響かせる巨大な飛行船が去ってゆく。その音が遠ざかる中で、千雪はささやかな日常が終わるのを感じた。それは戦場の気配が忍び寄る緊張感を纏っている。そして、敷物を急いで畳み始めた統矢には、それがもう伝わっているようだった。

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